あの人がさらに体を小さく折って咳き込んだ。私は取って返し、おとなしく待っている驢馬を井戸に近い幹に繋ぎ、棕櫚縄の袋を下ろした。荷はひどく重く、半ば引きずるようにして運ばなければならなかった。井戸水で手を灌いでからあの人の傷口を拭き、油を塗り薬草を貼り布で巻いた。葦の莚を敷いてあの人を移し外套をかけ二つの皮袋に水を満たした。夕暮れの脚は早く、赤味を帯びていた葉群れが黒い塊となって私たちを覆う。冷気がまたたく間に這い流れて、あの人の熱をもった身体を包むだろう。
私は袋の中身を取り出し、一つずつ並べ置いてみた。使い古しの小袋が四つ、それぞれに無花果、棗椰子、煎り麦、空豆が入っていた。松脂に似た匂いのする樹脂の塊。一番底に火打石らしい尖った石が二つあったが、引き摺ってしまったせいだろう、挽き割り小麦の袋に裂け目ができていた。
しばらく驢馬の下肢の白毛だけが薄闇に滲んでいたけれど、それも見えなくなった。蝙蝠の掠め飛ぶ気配が感じられた。私は空を見なかった。昨日まであった父王の庇護も星々の助けも喪ったのだから、私は巣立ちした若鳥のように振る舞わねばならない。
この数日はとりわけ夜の風が北と西から強く吹いたので、今宵の無風は有難かった。額を冷やし、口元で布を絞って水を含ませるのを三度繰り返した後、私は干棗を小さく噛んであの人の歯の間に差し入れてみた。あの人は呑み込もうとしなかった。しばらくしてからさらに三度水を垂らした後は口に入れてくれた。信用しきれなかったが、男の持ってきた油と薬草に効き目はあったのだ。
傍らに坐って傷毒と闘うあの人の早い息遣いを耳にしていると、自分は愚かなことをしてしまったが間違った道に入ったわけではないと改めて言い切れるのだった。私は白昼の流星を見たのだ。私の為したことは王家の皆々に恥を塗ることだけれど、自ら愧じるところはない。捕らえられればひっそりと埋められ、兄たちの一人が仇討と称して獅子を一頭狩り、派手な葬儀を催すだろう。物心ついてから、いずれ王都を離れて一人神殿に入るという自覚があったせいだろう、私は父母兄姉たちに今一度会いたいとは思わなかった。どの顔もすでにしておぼろだった。そのことに私は驚かなかった。
お前は一族の誰とも似ていない。三歳となり、眉目の行方が定まる頃には血族のどの枝を遡っても似姿を見いだせないのが明らかとなった。お前は神殿に捧げ甲斐のある美しさだった。すなわち、剛柔併せ持つ並外れた策士だったお前の父であれば、実益のない神官ではなく同盟籠絡の手蔓にと、考えを変えそうなところだったがそうはしなかった。
私が身内の者たちの誰にも似ていなかったように、私が生した二人の子エピヌーと娘エリュシティはあの人とも私ともまったく見かけが異なっていました。滅ぼしはしないけれど、目を離すこともない星神の介入は私たち二人が三人になり、四人になっても止むことはありませんでした。翼を傷めた鳥のような流浪の日々は、時によって人から言葉を奪います。まして幼子にとっては。もとよりエリュシティはほとんど言葉を発することのない子でした。遺児キナムが今喋らないのは娘に似たかどうかは分かりません。エピヌーは、何故他の者たちのように一所に居続けることができないのか、納得がいっていませんでした。不満は火種をこしらえます。途方もない道のりを踏破する遊牧の民や商隊と同じように移動していたとはいっても、私たちのような追放されながら導かれている者とはまったく違うのです。飢えと渇き、熱砂と寒風に苛まれながら、私もあの人も数えきれない境界石を目にしてきました。甘受していたのではありません。抗ってもいません。嘆いてもいませんでした。親から子へと何がどのように伝わり途切れ隠されているのか、人はついに知ることがかなわないのです。
似ていないと聞き、不満の火種と聞き、俺はすぐにハムリのことを考えた。エピヌーの妻とは面識がないから、ハムリとグラが二親から何を受け継いだのか、俺に見極めはできない。火種は孫の代で大きく弾け、たちまち元の枝を焼き落とした。ラズリ様から血の一滴でも享けているなら、ハムリのような男はできあがらないだろう。覚師は言われた、三代隔てれば元の姿は遥かに霞むと。グラの面差しはラズリ様までまっすぐ辿れそうな気がする。そしてキナム、言葉の代わりに種子を置いていったキナム。ラズリ様の三人の孫たちはそれぞれに俺と関わりがある。星と星を繋ぐように、ラズリ様の一族とは俺の気づいていない像を結ぶことになるのだろうか。
耳を澄まし続けていたはずなのに、数十頭とも思える蹄の音が近づいていた。闇の城壁に潜んでいて、いきなり門を割って躍り出てきたかのようだった。あの人も目覚め、肘をつき身を起こそうとしていた。街道の方向に明かりは見えなかった。それまで周りの闇にばかり目を凝らしていたのでわからなかったが、夜空で篩にかけられているみたいに夥しい星粒が地上に降り注いでいる。硬い空に撥ねているせいなのか、私には足音の方向が聞き分けられなかった。天からも地からもやってくるようだ。私はあの人の前に膝立ちして槍を抱えた。もちろん争うことなどできはしない。私たちはすぐに引き離されてしまうのだろうか。それとも二人一緒に、何一つ言い立てる暇なく命を取られるのだろうか。
馬が十一頭。松明は両端と真ん中の三本だった。槍の穂先も抜身の刀身も見えない。駆けるときに邪魔な葉を切り落としてきたのか、青い匂いが咽るようだ。よほど巧みな乗り手たちなのだろう、枝葉のうねる斜面で馬列に乱れはなかった。援けてくれる神のいないことはわかっていたけれど、私は両手で槍を持ち上げ天を衝いた。
「勇ましいことだな、姫。少なくとも一度、お前は自分の命を救ったことになる。私の声に覚えはないか」と中央の者が言い、松明の前に手を差し出した。握っているのは私が先ほど、果樹園の男に与えた腕輪だった。声の主が腕輪を持った腕を横なぎにすると、右端から二頭目の騎手が私の前に馬を寄せ、腰のあたりから大きな袋を取り口を解いた。無造作に振られた袋から転がり出た首はいくつだったのだろう。あの男に従っていた犬の首が最初に見分けられた。多分あの男も、そして果樹園主たちも討たれたのだろう。
「肝が据わっているのはよいが、自ら選んだものを簡単に手放すな。この国の運気はすでに朽ちているが、それはお前の馬鹿げた振る舞いゆえではない
私は声の主がわかった。会ったのは二年ほど前、南のディルムンから来た商隊の女首領だ。大編成の商隊の長というより、王族のような立居だったのを覚えている。広間に敷かれた駱駝の毛布に並べられていた眩い装身具。母や姉にまじって私も気に入ったものを取るのを許されていたのだ。戦勝の直後だったので、兄たちは攫ってきた敵王の寵姫を飾る宝玉をあれこれ買い求めていた。連行されてきた中には女神官がいたかもしれない。
ウル ナナム
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私は振り返らなかった。振り返ってそこに見えたものが、どこに私を連れ去るか知れたものではない。あの人に繋がる今ここに見えている無花果の木だけを頼りにしよう。旅ではどんな些細なことも見落としてはならないけれど、その時私は何も見まいと思い定めていた。高熱と痛みに耐えているだろうあの人には時の一粒一粒が命を削り落とすようなものにちがいない。わずかな距離を行き来するのに、我を忘れてうろたえ、自ら眩暈を呼び込んでいたような私があの人の命運を握っている、弄んでいる。私は向かい風に逆らっているようなものだった。風の中にはあの人の容態も先行きも今の様子何もかもが混ざり合っている。井戸の端で眠ってしまったとき、気を喪っていたとき、街道を通りかかった者があったかもしれないが、商いも軍の移動も盛んな赤い砂の国の主要街道に人の気配が絶えたままなのは奇妙なことだ。
幸い驢馬は素直に歩いた。齧り取られたみたいに欠けている驢馬の左耳を見ていると、蛇を咥えていた鳥の嘴が思い出された。驢馬の歩み、その頑なな姿はしばしば融通のきかない愚か者にたとえられるけれど、遠くまで行く者はそのようであらねばならないのだろう。
愚かであっても無力であってはなりません。いえそうではなく、愚かなことを為すためには大きな力を持たねばならないはずです。力ない者が愚かなことを為して成就するとしたら、それはなにゆえだと思いますか、ディリム・ディピ。
以前から呼び習わしているかのようにラズリ様は新しい名でもっていきなり俺に声をかけた。
ディリム・ディピ。この地でもっともナブー神に近き者たるラズリ様が呼んでくださった
。人は名づけられた者になる。「ディピ」すなわち俺は書き記す者になるのだ。
「旅では一日一日旅の掟を学べ。自分は今日誤りを犯してしまったと省みることができるのは稀なる幸運なのだと銘じておけ」とわが父は申しました。「旅にあっては、確かに愚か者では生き延びることはできないでしょう。とはいえ、取り返しのつかない振る舞いや過ちこそが隠されていた扉を開くきっかけになるようにも思います。どんなことも一度は起こります。いつも初めて起こります。それが二度となり三度となれば、そこには天のはからいがあるのではないでしょうか」
「私はあの人を石切り場から解き放つために使わされた者。この人は余人の為しえぬことを成就するために生を全うすべきなのだと、天が呼び寄せようとする場所にこの私が連れて行くのだと信じようとしました。でも私はこの千古の地、ボルシッパを自ら選んだのではなく、吹き寄せられたようなものです。追い出されることがなかったのは、あの場所を除けばこのボルシッパの右岸だけ。そしてあの場所はといえば、追いやられ閉じ込められたのだから、ニサバとバシュム、右岸の二つの丘だけが星々の呪いを斥けてくれたのです」
「たとえそうであっても、ナブー神像を見つけられたのはラズリ様です。ラズリ様は星々の呪いとおっしゃいましたが、私は星占を信じぬ者です。この世で決して変わらぬものは星辰の動きのみ。変わらぬもので変転きわまりないわれらの行く末を占うなど理に合わないと考えます
「奥義を心得ぬまがいの輩はいざ知らず、星占は今宵ここにある星の動きを読むものではありません。星の声、星の夢のひそやかな波動滴りを感じ取り、私たちの言葉に移し替える、それが星占というもの。カルデアびとを軽んずるわけではありませんが、彼の者たちが豊作凶作を予知する力は、脈々と伝え来った膨大な星読みの智をもってすれば、さして難しいことではありません。その予言は記憶と計算に拠っていますから星占とはちがうのです」
夜の天空だけに目を凝らし続けているカルデアびとの中には、白昼の空にも星を見る者がいるという。見るというより、星のありかを体で受け止めるのだろう。あの者たちは一夜一夜の星見を決しておろそかにしていない。千年変わらずに続いていようと、今宵星の地図が書き換わるかもしれないと備えているのだ。星占を認めない俺だが、前々からカルデアびとと話してみたいと思っていたので、覚師に随いて新年祭に出るのは心躍ることだ。ラズリ様がみつけ出した神像とともに乗船することに俺は初めて誉れを感じた。神像に気づいたときのことをラズリ様はこう言ったのだ。「水が光ったのです。碧玉の瞳が開いたのでしょう。あの人が召されてから月一巡り半でしたから、あの人はナブーの現身だったにちがいないという気がしました。今でも少なからずそんなふうに思えるのです
いつの間にか席を外していたらしく、一人の女が火桶をもって現れ寝椅子の足元の火鉢に炭を入れた。そして壁穴を塞いでいた木片を一つ引き抜いた。穴の向こうはイナンナの星が瞬きはじめる刻の澄んだ青になっている。今宵は半月ではないが、半月の夕餉に供される兎とヒヨコマメと香草の煮込みの匂いがした。煮込みをこしらえているのはグラかもしれなかった。グラは左手で巣穴から出てくる兎を捕らえすぐに右手で絞めてしまう。兎はもがく暇もなく四肢を垂れる。天の神々はあのように俺たちをつまみあげ、瞬きもなく冥府に送り込むのだろう。
驢馬が小さく足踏みして歩みを止めた。鴉だろうか、禿鷹だろうか。私は叫び声をあげた。鳥を逐いはらうために、恐怖のために、闇雲な怒りのために。おそらく、あの鳥のような叫び声を。あそこにあるのは骸ではない、あってはならない。私は守り刀ひとつ身に帯びていなかったので、なにものとも戦う術がなかったので、自らの喉を破る声を振り回してあの人の許に走った。鳥どもはすぐに飛び上がらず、塵を掻き上げるように爪を立てた。取りすがったあの人の手は日向に忘れられた凝乳のようだ。汗と熱には希の一かけらがある。あの人が呻きとも囁きともつかない声を漏らした。
「生きるのです。私たちは生きるのです」
私は赤い砂の国の言葉でそう言ったつもりだったが、声になったのは私の知らない別の言葉だった。
誰一人耳にしたことがない言葉を、ある日ふいに喋りはじめた子供の話を俺も聞いたことがある。いずこから言葉の神が飛来するのだろうか。ラズリ様なれば不思議でなないが。 -
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私は振り返った。乾ききった葉群は灰色に霞み、あの人が横たわっているはずの来し方は麦粥のように澱んでいる。私はまだあの人の名さえ知らない。あの人を呼ぶことができないのだと思うと、怒りと恐れに唇が震えた。私たちは名乗りあう時をつくらねばならない。清明な星夜、焔沸き立つ太陽に大釘を打ち込んででも、その時をつくるのだ。
名は美しい。人々の名。都市の名。樹の、花の、星々の名。仇敵の王たちの名でさえ美しい。名は呼ばれねばならない。名は刻まれねばならない。
風は絶えていた。無風なのに、灰緑色の葉が私のまわりで小刻みに揺すれている。私は王宮の果樹園にある無花果が日に二度、雀の群れで満開となるのを思い出した。今は一羽の鳥も近くにはいない。私の動悸が私の踵を危うくしているように、私の顔よりも大きな葉が自ら震えている。真水のような悲しみが私を浸した。神官となるべく産まれた姫たる私は何人からも拒まれたことがなかった。この木は私が傍にいるのを嫌がっているのだと、私は感じたのだ。牙突き立てる猪が寄ってきても、鉞を片手に無骨な手が幹をまさぐろうと、こんなふうに怖気をふるうことはないだろう。星神の腕にある稲妻がこの私に向けられていると怯えたにちがいない。この時はまだ、その土地にあるなべてのことからわが身が駆り立てられることがあろうとは思ってもいなかった。
あの人との旅の先々で、私たちは入村入城を断られたことは一度としてない。唯一の井戸を守って猜疑の毒に目を血走らせているような貧しい民でさえ私たちを拒まなかった。しかし月が六巡りほどすると、私たちは必ず村を追われ都門を閉ざされた。前知らせはなく、追い立ての布告はいつもいきなりで、麦打ち場から、鎚を打っている最中の鍛冶場から、二人の寝藁から、刺草のように疫病のように蛇のように排された。住人たちから嘲罵や石礫があるわけではなかった。宣しているのではなく、口を取られているようだったから、日々の奉献をないがしろにされた星々の怒りと呪いに人々が操られていると私たちは考えた。神々の思惑は測りがたい。われらを一撃で滅ぼさなかったのは、嬲るためなのか、試練なのか、ナブーの導きだったのか。あろうことか臨月間近という日もあったけれど、あの人は驚かなかった。渋面一つつくらず、逆らわず争わず荷をまとめるのだった。
しかし戦うときは容赦なかった。荒野では持たない者をも襲う輩がいるので、私もわが身を護る術を身につけ何人もの命を取った。私は教えられた通り、襲撃者の刃を受けず躱さず一跳びで相手の頸を狙った。私の刃は犠牲獣を屠る祭司のようにためらいなく奔り、汚れた血がわが身に散り注ぐ前に飛びのくのだ。あの人の鍛えた短刀だからこそできたことだ。あの人は誰よりも鍛冶の神に愛された人だったが、手業は長子にも、また孫にも伝わりはしなかった。エピヌーが剣をつくらないのは己の力を知っているからだ。水を見つける才はキナムにのみ受け継がれているようだ。
美しからざる御姿と云われる鍛冶神だが、美しい男を妬まなかったわけだ。美しい若者は石切り場ではなく、貴顕の慰み者として宮廷奴隷になることくらいは私も知っていた。私ならずとも、あまたの女そして男の目も引くだろうあの人が、一つながりの奴隷の一行に混じっていた。己の為したことから身を翻すのではないけれど、なぜあの人はあそこにいたのだろう。今でも不思議に思う。
お前は刻々の重苦しさに耐え切れず、男と犬が去った方へと走り出した。すると、無花果の枝を四、五本束ねたくらいの羽虫の渦が次々と立ち現われてはお前を遮り、偽りの道標となってお前を振り回したのだ。羽虫は雲が雲を誘い、水が水を呼ぶように増え続け、灰色の煙雨となって視界を塞いだ。追い払うこともままならず、お前は半ば目を閉じて両手を突き出し、渦に揉まれる小枝のように狂いまわった。
果樹の林が不意に途切れて、目の前を岩塊が塞いだ。お前がこれまで住んでいた宮殿や部厚い城壁を支える赤褐色の石や神像がつくられる玄武岩とはちがい、岩の壁は乳白色に照り輝いていた。一木一草見当たらないのは、飛び来った種子をことごとく撥ね退けるほど表面が硬いのだろう。果樹園のはずれから一跨ぎほどの先が同じ地続きとは思えず、まるで天の指が丘の半分を移し替えたようだった。丘陵がだしぬけに消えたり、涸れ谷が瞬く間に濁流で溢れたりするのがありふれたことだと、私はまだ知らなかった。風変わりな丘、奇妙な大地などというものはなく、すべてはそのようにあるのであり、また変わらぬものは一つもないことは、その後の旅で存分に見てきたこと。
その時、あの声を私は聞いたのだ。今に至るまで、あれほど奇怪で気味の悪い声を私は聞いたことがない。比べれば獅子の咆哮など、ただ恐ろしいだけだ。逃げること闘うことができる。
深碧色の羽、目のまわりは黒く腹の白い美しい鳥が岩壁の縁に止まっていた。ゆるやかに弧を描く嘴の先に咥えられた灰黄色にぬめり光る蛇。悲鳴であり、威嚇でもあるような鳴き声は獲物に飛びかかったときのものだろうか。この小さな鳥から出たとは信じがたい声だった。空と岩に嵌めこまれたような鳥と蛇の不動の姿は私から動きを奪い、髪の根を締め、呼吸がふいごのように荒れ騒いだ。毀れかけた私の心が希の徴を読みたくて鳥をつくりだしたのかもしれなかった。
「姫様」と呼ぶ声が聞こえた。私は長い間気を喪っていたのだろう。乾いた土の色はすでに青みを帯び、木々から熱が去りつつあった。私は一本の無花果の老木の根方に背をあずけていたのだった。羽虫の群れは幻ではなかったようだ。足元や着衣のあちこちに潰れた死骸が散っている。そして鳥は。私は声を探した。驢馬をひいた男が私から五、六歩離れて窺うような腰つきで立っていた。犬の姿はなかった。
早くあの人の許へ戻ろうと気が急いたけれど、粘土板だけを積んだ驢馬を選んでしまった失態を今また繰り返してはならない。「お前が用意してくれたものすべてを教えておくれ」と私は腕輪に手を添えながら言った。
「切り傷にはこの油を塗って干し葉を重ねて縛ってください。両方とも匂いはきついですが、効き目は十分です。敷物と言えるものは持ってこられませんでした。葦の莚と粗織ですが毛の外套がこいつの背に敷いてあります。皮袋も小さいものが一つだけです。棗椰子と無花果はたっぷり入れましたが、凝乳はひとかけらだけです」男は驢馬の傍らから動かずに言った。
耳の後ろで気がかりの影が揺れているのは釣り合わぬ支払故ではないように感じられた。何が訝しいのかは分からなかった。私は片手で驢馬の背に括り付けられた袋の口をあけた。品物は揃っているようだった。愚かな取引の代価となる腕輪をはずし差し出すと、男は慌てて跪き、油と薬草の入った編み袋を掌にのせ捧げた。異国の職人の手になるという腕輪の浅浮彫りに指を這わせながら、私は尋ねた。「来てもらったのにこう言っては悪いが、ずいぶんと手間がかかったようだな。奴婢は一人もいないのか」
「役に立つ者は父に同行していますので」
「この驢馬ははじめて手綱を取る者にもしっかりと従うだろうな」
気弱なのか狡いのか見当のつきかねる薄い唇を引き結んで男は斜めに頷いた。
「もう一つ訊きたい。この辺りは獅子がひんぱんに出没するのか」
「私はいっぺんも見たことがありません。小さい頃、代官様の館で毛皮に触らせてもらっただけです」 -
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腰を屈めて歩き出したあの人は当て所なく逃げているのではなく、道を定めているようでした。明らかに足を速めていて、私は何度も姿を見失いそうになりましたが、光の粒が瞳の中に居座ってしまったようで周りが見えにくくなってもいたのでしょう。その時はじめて、あの人の声を聞いたのです。自分の居場所を知らせるための短い合図。この声が私の名を呼ぶのだと思い、私は胸震えました。私の耳は星々の足音ではなく、この声を聞くためにこそあるのだと思って。
鷲座が姿を現わし冠座が去り行く間の月に誕生した姫は鷲と冠を旅する神殿の申し子として祝福され、王国の行く末は光輝溢れるものになろうと賛仰の声が絶えなかったのだ。そのお前がこの男の声だけを聞くために、自ら天秤を傾けた。お前が裏切った鷲の三星は凶星となってお前たちの歩みを阻み続けることになるだろう。
その井戸のあった場所は私には吹き溜まりにしか見えませんでした。性悪山羊の毛玉のように絡み合う藪をあの人は槍先で掻き分け、左手で掬った水の臭いを嗅ぎ舌先で舐めてから、大丈夫というように私を促しました。水は塩気が強くて、茨で隠すほどのものとは思えませんでしたが、さらに一歩、次の一日を歩き通すための用意を何一つもたない身には大いなる恵みでした。私たちは多くの人の助けを受け、また天の御使いとしか思えぬような方とも出会って旅を続けましたが、なによりもあの人の水探しの力こそが私たちを苛む砂の猛威を退ける盾でありました。
「崇めるべきは井戸掘りたちだ。あの者たちは三年掘り続けてようやく突き当たるような源を徴ひとつない地表で感じているのだ。私などは水が現れている井戸を見つけるだけで、獣たちとなんら変わりはしない」五十七個目の水場に辿り着いた旅の途中であの人は言いました。
あの人は私の間近に身を寄せ、たじろぐほどじっと目を覗き込んだ後、担いでいた織物の端を槍の穂先で裂き水に浸すと私の目に当てました。炎熱に焼かれた目は渇きよりも危ない状態だったと、後に言葉が通じ合うようになって聞かされました。
言葉が通じ合う。そうだ。今語られている言葉はどこの国のものなのだろう。赤い砂の国か。それとも天に接する銀の山国の言葉か。俺は初めて耳にするのに理解できている。ラズリ様に仕える女たちは聞き分けているのだろうか。
渇きが癒され、目の中で沸き返っていた光が鎮められると、日盛りを歩き続けた疲れが押し寄せ、私はその場に倒れ伏してしまいました。あの人が布を水に浸し直し、目が冷やされたのを二度までは覚えていますが、いつの間にか寝入ってしまい、われに返ったのは蝿の翅音のせいでした。あの人の耳の傷に蝿が群がるさまは瀝青の煮鍋を見ているようでした。
槍にしがみつくようにして震えを抑え込もうとしていたあの人に、私は十数度口移しに水を飲ませた。わななくひび割れた唇は足元の熱砂と同じだ。探索の部隊が出てくるのはそう先ではないはず。ここ三年間、負け戦を知らない父と兄が率いる軍団にひとたび事態が伝われば追っ手は迅速に走り来るだろう。王宮と神殿は早馬で一日半ほど、小娘と逃亡奴隷を捕捉するのは手もないことだ。井戸が苦もなく見つけられたのだから気休めに過ぎないけれど、私は井戸の周りを覆っていた藪を引き摺ってあの人を囲った。
「私はかならず戻る。獅子よりも追手よりも早く戻る」とあの人に言った。意味はわからなくても決意は伝わるだろう。獅子よりも追手よりも、そして冥府の鳥よりも早く戻らねばならない。
まだ影は長くはないが、陽は大きく動いていた。お前は街道から井戸まで時をかけて喘ぎ上ってきたつもりだったのに、無花果の幹の間から見える道は、思いのほか間近だった。街道の向こうは勢いのない潅木と人の丈を越える赤茶けた泥岩が散らばっていて、ものみな霞むなかで、茎の細い薊の花色が目を引いた。お前の姿も同じだ。街道がいまだに目路のかぎり無人なのは、急ごしらえの関が置かれたのかもしれない。人目を避けていたお前はすぐにも人を人家を見つけ出さなければならなかった。
あの人がまっすぐ井戸を目指していたのとはちがい、私はただ闇雲に南へ向かって街道を見下ろしながら走っていた。無花果畑の地主の住まいから遠ざかるばかりということもあるが、踏み出した方へ進み続けるだけだ。足を止めると汗が吹き出し、喉や腕や胸の間を舐めるように流れた。その度に蝿どもの翅音が嘲笑うように甦り視界を青黒く染めた。
私を初めに見つけたのは犬だった。横腹が油を塗ったように滑り光っている。いきなり現れたと感じたのは私の方で、もちろん犬はとうに嗅ぎつけていたはずだ。あの人の耳の爛れが侵入者があることをこいつに告げたのかもしれない。小走りの私が息を整えるのに二度止まっただけだから、井戸からそれほど離れてはいないだろう。犬と並んでいる男は私とほぼ同じ年嵩だった。犬と若者はまったく同じ目の配りをしている。目を合わさず目の端でこちらを窺うのだ。
そのての犬は俺も知っている。父の目を避けようとする犬を見たのはそいつだけだからよく覚えている。その犬の毛もまた、犠牲獣の血を流す溝みたいに鈍い色に光っていたのだ。
この犬は背を向けたら噛みかかるに違いないとお前は感じた。それでもお前は頼まねばならない。お前に祈る神はないのだから。
「この果樹園の持主はお前の係累か」気位高きわが母の口調を真似て私は居丈高に尋ねた。
「親父とお袋は」と言いかけて、若者は目を伏せ「父と母は夕暮れにならないと戻りません」と呟くように答えた。上目遣いに私の胸を盗み見る男の睫毛は女官の一人を思い出させるほど長かった。粗織の寛衣から突き出た両手は耳を吊っていた奴隷役人のように逞しい。
「獅子に襲われて怪我人がいる。三人の者たちが私を守って傷ついた。私は何としても神殿にこの身を運ばねばならぬ」若者と犬を油断なく見据えながら私は構わず並べ立てた。嘘や作り話を吐き出すことに何のためらいもありませんでした。私は腕輪の一つを抜き「これをわが父王に示せば礼は思いのまま授けられよう。出せるだけの塗り薬と水を満たした皮袋、敷物と外套と干し果物を積んだ驢馬一頭を急ぎ所望する。どれくらいで戻れるか」
「急ぎます。姫様」若者はすぐに背を向けた。
「待て、名は何と」
走り出しながら答えた男の名をお前は聞き取れなかった。男と犬は捩れた幹の間を一縫い二縫いして見えなくなったが、疑り深そうな黒犬の目がそのまま残っているように感じられた。お前は苛立ち不穏な言葉が溢れくるのを抑えかねて無花果の葉を毟り取った。葉鳴りはすぐに静まり物音が絶えた。両手の甲に赤と青で塗り分けられた星宿の護符は汗と砂で薄汚れていた。神官たるお前の役割は夜明け前、一日も欠かさず井戸の水を汲み、甕に注ぐことだと教えられていた。甕の数は月の顔だけ丸く並べられているはずだった。たかだか百数十年続いているだけの王家、さしたる謂われがあるはずもないのに、大仰な儀式をつくり上げたものだ。それはお前の王家に伝わるものではなく、この赤い砂の地に土着していた先人のものだったのかもしれない。 -
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「輿の先に延びる枝道は目の前の小高い台地で見えなくなっていたので、砂埃を巻き上げ血の匂いを振りまいていきなり現れた者たちは、獣でこそありませんが、臆病きわまりない宮廷人をさらに慄かせる風体でした。足首を細鎖、頸を葡萄蔓で繋がれて近づいてくる下帯だけの男たちが二十人ほど。全員頭を剃られ、亜麻布で縛った頭の片側に血を滲ませておりました。赤い砂の国で片耳といえば戦争奴隷。その枝道は石切り場へ上がる隘路で、敗軍の奴隷が働らかされているのだと後で知りました。そこから切り出される石は赤い砂の国にとって最大の交易品で、筏に積み込めるくらいの大きさにするには若い男の力をいくらでも必要としたのです。打ち破られた国の男たちはできるだけ四肢を損なわれずに連行され、石切り場に入る前に片方の耳を切り落とされていたそうです。若者たちを駆り立ててきた奴隷役人と兵は六人で、そのうちの二人が切り落とした耳に紐を通し首に下げていました。戦に破れるとはそういうことゆえ、砂嵐の国に住まう我らは男も女も戦士でなければなりません。その場には、たった一人を除いて戦士はおりませんでした。あの人だけが顔をあげ、訝しげに私を見つめておりました。弓弦の唸りさえ聞いたことのない小娘が、この若者だけが戦士たりうると一目で信じたのです。そして、信じたことに生命を吹き込む言葉は思いめぐらす間もなく、口をついて出てきました」
ラズリ様の指は文字をなぞり続ける。俺の刻んだ名はリリトゥの通路だ。
「皆の者、よく聞け。われは鷲と冠を旅する大神殿の最高神官を拝命する身である。たった今、天の大神より遣わされた獅子が犠牲の勇者を求めてこの地に降り立ってきた。われはその者とともに獅子の口許に赴かん」
雷鳴のごとき獅子のひと吠えが私の声にちょうど重なったせいで、袖と裳裾に付けられた青や紅玉髄や金の薄片を鳴らし、諸手を天に差し上げての宣を疑う者はいなかったのです。私は自分の声の大きさに驚き勢いづき酔っていました。あの人は何が企まれているのかまったくわからなかったでしょう。私とあの人の国は境を接していたのではなく、間に二つの国を挟んでいましたし、父祖の故地は天に接する銀の山の麓だと話してくれましたから、私たちの言葉にはまったく似たところがありませんでした」
白昼の月を見上げているのであろう荒野の娘の目は、不安と決意が煮えたぎる戦士の目のようだ。ラズリ様の声が一段と深まった。
「輿の担ぎ棒を跨ぎ越え、槍持ちの一人に手を差し出すと、兵は決め事に従っているかのようにお前に槍を預けた。お前は槍を横抱きにして繋がれた男たちの前に立ったのだ。若者たちの血はまだ止まっておらず、頬を伝い肩から腕に這う黒い血の痕を見ると、お前の腕の力も声も萎え衰えてしまいそうだった。お前は気を取り直し右手の槍で白い中天の月を指し示した。六代に渡っているだけの新興の小国とはいえ、近隣から怖れられること少なからぬ王家を一気に貶める愚行。誕生の星々への背信。しかし天は幼い暴挙に呆れ果てたのか、神罰は猶予された。そうではなく、過酷な雷撃はこの娘を産み育てた赤い砂の国の方に降り注いだというべきか。ともあれ、天は皇女の掲げた槍をその場で折りひしがず、試みの時を預けた。それゆえお前は船も流れも知らぬままとも綱を斬り、運命の流れに櫂を入れたのだ。この時はまだ、お前にはどんな力も宿っていなかった」
「この者の縛を解き、わが傍らに立たせよ」
神官の額飾りと杓枝の威光を頼りに私は言い放ち、奴隷役人たちが葡萄蔓を切り離し足鎖を解く間、槍の穂先をあの人の胸に突き付けていました。無知の恐れ知らずというに尽きますけれど、私は獅子の口を脱出口にと決め込んでおりました。
「その方ら、四方の風にかけて誓え。獅子が七度吠え立てるまでは街道に下りてはならぬ、よいか」常軌を逸していたゆえ、誰一人私の真意を見抜けなかったのでしょう。私は手足の自由になったあの人に槍を持たせ、供物、捧げ物を一番積んでいそうな驢馬の手綱をとって街道へと降りてゆきました。その後何年も続くことになる放浪の第一歩だった。その場から離れ、王宮からも神殿からも遠ざかり、赤い砂の国から出るための道などどこにあるはずもなく、請願する神々も持たぬ身と成り果てたお前の味方は獅子の吠え声だけ。獅子が立ち去るか退治されて、街道に人目が戻ってくる前に身を隠し、夜まで身を潜めていなければならなかった。飾り立てた神官と血塗れの片耳のままでは、言葉の出ぬ幼子であろうと、すぐに行く手を指差すは必定。
あの人も理由は掴めなくとも、この私が自分を連れて逃げようとしていることだけはわかったでしょう。私たちは無言で獅子の声とは逆方向に進みました。2ゲシュほど歩いた後、あの人は無花果がまばらに植わる西側の斜面に目をやると、驢馬の手綱を取り登り出そうとしました。しかし驢馬の瞳には意志のかけらもなく、四本の脚は石柱に化したかのよう。驢馬を諦め、運べるだけの荷物をもとうと荷駄籠の蓋を開けた私は膝が抜けそうになりました。荷はすべて奉納の粘土板。水の皮袋一つ入っていませんでした。あの人は表情を変えずに荷に被さっていた織り布を剥ぎ取って肩にかつぎ、何を思ったか粘土板を一枚だけ抜いて私に手渡しました。
その粘土板にはどんな文字が刻まれていたのだろう。徴が立ち現れるのはそういう時だ。俺たちは時を自ら選んでいるのではない、知らずに選ばされているのだ。
二人が斜面を上がりはじめるとすぐに、驢馬の飾り具が鳴る音がした。われらの宿命を弄ぶ神が気まぐれに足枷を外したのか、もとより行き先を心得ているからか、驢馬は速足でそれまで向かっていた方に走り出していたのだ。思わず天を見上げたお前は、蹄のような小さな雲が街道を映すように連なっているのを見た。驢馬がその場にいつまでも居残って足跡を曝してしまうよりはましだが、異変を最初に告げるのは一途なこの驢馬ということになるのかもしれなかった。
斜面の灰赤色の砂泥は乾ききっていて、私が足を滑らせるだけで大きな砂煙となりました。遅れがちの私を待つ間、あの人は槍を寝かせ、街道に目を凝らしていました。陽に炙られた銀細工の腕輪が融け出すのではないかと感じられ、渇きのために喉はひび割れて、気になるのは水のことばかり。貧弱な枝ぶりとはいえ、数百本の果樹が育っているのだから、水場は遠くないと私は自分を励ましていました。無花果の根方で息を整えていると、新たな獲物に飛びかかろうとしているような暴れ獅子の吼え声が聞こえてきた。輿が入り込んだ枝道からかなりの距離を歩いてきたのに、獅子は先ほどよりずっと近くまで来ている。その場しのぎに等しい自らの言葉が呼び寄せたのだ。吼え声が六度続いたのか、七度だったのか。咆哮はそのまま途絶え、風鳴りさえもなくなった。照り返しに目を細めながら、息をこらしていると、鳥の影が次々と斜面を滑っていった。冥府の鳥たちは八つの方位すべてから石切り場に通じる方角に集まっていく。お前の宣を守ったがゆえに獅子の爪に掛けられた者が出たのかもしれなかったが、そのことに気を巡らす余裕はもちろんなかっただろう。 -
23
「お疲れでしょう」と笑いを含んだ声でラズリ様が言った。やはりラズリ様も館の女たちも俺がつむじ風の群れに巻かれて来るのを知っていたわけだ。ラズリ様なら風を操ることもしてのけようが、俺がここに来るのを隠す謂われはない。そもそも誰の目を欺こうというのか。
「思いのほか長い道のりでした」誘われて俺の口調も我知らず緩んでいた。俺は膝行し、仔羊のなめし皮に包んだ粘土板をラズリ様に捧げた。ラズリ様は目尻の深い皺が線刻文字に変わるのではないかと思われるくらい長い間粘土板を見つめていた。アッカド語だけではなく、十二の文字を読めるはずなので、読みあぐねているのではない。ラズリ様は俺の刻んだ文字をゆっくりと指でなぞった。何故だろう、その仕草は懐かしかった。そして耳奥に、あなたの名前を私が辿る、という言葉が降りてきた。
「ディリム、名付ける者にして書き残す者であるお前様に相応しい、お前様にしかできぬ贈り物です。この私には感謝の思いを伝える術がありません」俺の捧げ物に目を落としたまま、ラズリ様が口を開いた。
「ナブーの守護者ラズリ様にそのようなお言葉を賜るとは身に余ることです」
「ナブー神の守り手であることはその通りですが、私はお前様がひれ伏すような者ではありません。むしろ、天の斬戟を生涯浴び続けねばならぬ咎人なのです。ハシース・シン殿、お父上ビルドゥ殿がお示しくださるお心遣いこそ身に余ること。悔いたり愧じたりはしているのではありませんよ」
ラズリ様に咎という言葉はまったく結びつかないが、天の怒りには我ら一人ひとりの理解を超えたものがある。神々と対座する貴人であればこそ、神の吐息を避ける術はないのだろう。
粘土板に指を乗せたまま、ラズリ様は自分の左側に控える娘に向かって小さく顎を引いた。他の女たちは姿の見えないことがあったけれど、この娘だけは必ずラズリ様の近くにいた。娘の名を耳にしたことはない。
「ディリムのお父上からの蜂蜜ですよ。六日前にハシース・シン殿が届けてくれました。どの地に咲く花蜜なのでしょうね。蜂蜜さえあれば長い旅に耐えることができます。二人して三日に一匙ずつ口に入れるだけの旅でも生き永らえたのですから。お前様が名付けてくれた通り、私は荒野の娘でした。ディリム、近くへおいでなさい。砂など、何を厭うことがありましょう。私どもはいつも砂とともにあるのですから」
臥所の足許に控えていた俺は、もう一度膝行してラズリ様の横に座った。娘から差し出された小鉢はとても薄手につくられていて、壁の刳り抜きに灯された炎が透りそうだった。女は錫の細口から蜜を垂らした。蜜は固く重く凝っていて、小鉢に落ちきるまでに時がかかった。ラズリ様と臥所の右側にいる五弦の竪琴の巧みな娘、そして俺の後に控えていた三人の女たちも同じように小鉢に蜜を受けた。グラはいなかった。
これもまた父が併せて届けてきたものだろうか、中指ほどの白亜の棒が配られた。先端に幾筋か切込みが入っている。石棒で蜂蜜を巻き取るラズリ様の指先を真似て、俺も蜜を口に入れた。僻遠の地に咲く花蜜なのだろう。初めての香りはやわらかで、味は荒々しかった。
目を上げると、ラズリ様の髪を大きく覆っていた巻き布は髪留めに変わっていた。翼を象った黒曜石の浅浮き彫りだ。真中に瑠璃が嵌め込まれた髪留めの下の額は蜂蜜の色だった。荒野の娘は両の頬と頤にそれぞれ三つの赤いほくろを付けている。俺は小鉢を脇によせ、思わず平伏していた。
「私には捨てた名があります。ラズリはあの人のくれた名。正しくはあの人の母上の名です」
二つの声がかぶさって聞こえた。右の耳が捉えた言葉をわずかの間をおいて左の耳が捉えているような、いや、そうではない。荒野の娘の声をラズリ様がなぞっているようだ。
「あの人の二親、あの人の国は私の父と兄が率いる軍に滅ぼされ、そして私を名付けた国、赤い砂の国はその後アッシリアの戦車軍団に一蹴され跡形もありません。父王には二人の息子と三人の娘、次女の私は生まれたときから神殿に召されることに決められていました。鷲と冠を旅するもの、そう呼ばれる神殿の神官になるためです。荒野の娘リリトゥたる私は赤い砂の国に生まれながら、城壁の監視塔に登って城外を見たこともなく十三歳までを過ごしてきたのです」荒野の娘リリトゥの声は遠くから届く花の香のようにひそやかだった。
覚師の傍らに侍しての十一度のおとないで、俺は異国の神々の相貌から軍の布陣、刀傷の縫合、染料の採り方まで聞いていた。とりわけ船旅、造船、操船についての二人の語らいは熱を帯び、その一日は夜を徹していた。俺の話も聞きたがった。一番大きな構造の船に乗ったことがあるのが俺だったからだ。六歳くらいの時だから、船も大きく見えたのだろうが、三段櫂船となればファラオの軍船よりも巨大らしい。しかし、ラズリ様の来し方を聞くのは初めてだ。
「私の行く末を決めたのは、私自身が目にしたわけではない獅子の親子。私を乗せた輿が通るはずの街道に三頭の獅子が現れて二人の商人が襲われたという急報を繰り返す侍女たちの声はうろたえきっていました。男は輿の担ぎ手八人のほかには形ばかりの槍もちが五名いるだけ。獅子が襲い掛かってきたら、私を護るには心もとなかったのでしょう。輿は大揺れしながら枝道に入りました。
遠い咆哮が聞こえてきたとき、私は思わず御簾を開いていました。私はそれまで砂の道を見たことがありませんでした。小さいながら、宮殿と呼ばれる建物は焼煉瓦と黒光りする木の梁で組まれていて、中庭では七種の果樹が涼やかな影をつくり、溢れる実をもたらせてくれました。獅子が吠えなければ、私はついに砂の道を目にすることなく、宮殿から神殿へと担ぎ運ばれ、最期はアッシリアの軍勢の業火に呑まれていたことでしょう。
砂というより、跳ねまわる白い光に目が眩んだ私がようやく目を開くと、輿を囲む全員があまりにも自信なげな様子で街道の方に目をやっていました。私は震え上がりました。この者たちは一人残らず私を抛って逃げてしまうだろう。神殿の扉が閉じられるまで顔を曝してはならないはずの私に気づいて止める者がいなかったのですから」 -
22
天道に踏み外しや気まぐれは起こらないとカルデア人は言う。三百五十七年に一度だけ巡ってくるという流星の洪水もあの者たちは言い当てる。予言ではない。すべて天の過去帳に記されているらしい。星読みのカルデア人たちには受け継がれてきた天の暦を独占する驕りはなく、何一つ隠さないので、これはかつてない天の歪みなのかもしれない。
天空からの重みはいや増して、俺は劫罰の責具を負わされた罪人みたいによろめき歩いた。薄い空気に目が眩む。水の中でのように肺腑が悲鳴を絞る。冥府を統べる御神が宿命の大鎌を研いでいる場に、はからずも駆り立てられてしまったみたいな気分だが、恐ろしくはなかった。姿は天の刑場に引かれていくようでも、俺は風の瞳に守られている。つむじ風は俺の行く手を遮るわけではないからだ。むしろニサバの丘の西はずれのラズリ様の住まいに向かう俺を導くかのようだ。
ボルシッパの城壁に立つ守備兵たちに、この俺を包み運んでいる砂柱はどんなふうに見えているのだろう。そして壁の光採りから外を覗き見ている者がいたら、砂煙の奥に俺の姿が透かし見えるのだろうか。
音のない風に囲まれて、地を擦る俺の足音も荒い息も砂柱の外へは洩れていないのかもしれない。狂鳥の塗り籠と呼ばれる家からいつもの奇声が聞こえてこない。この家壁の前を通り過ぎる者がいると、必ず中から凄まじい叫び声が発せられるのだ。覚師とラズリ様の許へ向かうときも同じだった。外壁はすべて塗り込められていて小窓ひとつないのに、中の者は人の気配を感じ取るのだろう。囚われ人がこの丘に押し込められることはないはずなので、霊鬼に蝕まれた者にちがいない。声の調子は呪詛のようだ。どこの国の言葉かはわからない。覚師は知っているのかもしれないが、表情を動かすことはなかった。
俺は狂鳥の塗り籠を抜け、八十歩ほどの距離にいつもの何倍もの時をかけラズリ様の家に辿りついた。外囲いを入ると、つむじ風は布が解けるように溶けていった。引きちぎられ中空に巻き上げられたらしいオリーブと石榴の枝が足許に転がっている。俺は空を見上げた。灰褐色の砂の雲が垂れ込める暗い空の底で、途方もない力で俺を射すくめる白い月。俺には月に呼びかける言葉が一つも浮かんでこなかった。上の海のさらに向こう、下の海の果て、ファラオの邦地のまた奥まで遍く見そなわす天空の神々が、この俺にだけ狙いをつけて火箭を投げ落とすことなどあり得ない。あり得ないはずだが、月の瞳はこの俺にだけ注がれる閃光のようだ。あわれな額を穿たれ、俺の栖は狂鳥の塗り籠となる。狂える者が吐き出すのは月の言葉か。俺は目を逸らすことができず、昼の月の光を嚥み込んだ。
名づけなければならない。呼びかけなければならない。
「リリトゥ」と俺は胸の裡で呼んでいた。俺がラズリ様のために聖刻したラズリ様に捧げるための名だ。「荒野の娘、リリトゥ、あなたのお知恵に縋らなければ私はあなたのお館をくぐることがかないません」
ふいに肩が軽くなった。天の重しが外され、身体が大地から浮き上がる気がした。瞬きの間さえなく、俺はラズリ様の扉の前にいた。神の手指が俺をつまみ上げ、向きを変えさせたかのようだ。俺は目を閉じ耳を澄ませた。何も聞こえなかった。俺はタシュメートゥー神殿の夢見の勤行のあと、耳だけになってしまった朝のことを思い出した。背に射込まれる眼差しは感じられなかったけれど、もう一度振り仰ぐ勇気はなかった。
「ディリムがまいりました」
おとなう自分の声が聞こえなかった。音がないのではなく、耳を奪われているのだ。あてなく立っているうちに、長衣が砂まみれになっているのに気づいた。出がけに濯いだ顔も頭も、城門の浮き彫りみたいに砂色に変わっているだろう。ここに住むのは女たちだけだ。ラズリ様とグラのほかに五人の女が一緒にいる。しばらく待ってもう一度呼んでみた。入るように言われていても、今の俺にはわからないのだと思いなし、俺は叩頭してから扉を押し足を踏み入れた。すぐに背後の扉が元に戻り外光が遮られた。瞳孔の開ききっていた俺には室内がまったく見えず、二の腕を取って促されるまで、傍らに立つ女に気づかなかった。俺の目のせいではなく、砂留めの内壁の潜りには厚い織布が垂らされていたのだ。竃の熾火と揺らめく灯心を目にして、俺は深い息を吐いた。壁際に置かれた床机に俺を腰掛けさせると、女は水盤に布を浸して俺の両目を洗った。水盤を脇に除け、女は細長い青銅作りの杓を取って俺の右耳にもってきた。いくつもの音が同時に聞こえた。俺自身の驚きの声、炎、湯のたぎり、衣擦れ、爪先立ちの素足、外壁に吹き付ける砂、這い回る地虫。遠い月の息遣いも俺と共にある。
女は同じように左耳に金具を当てた。俺の耳穴を塞いでいたとは信じがたい大きさの小石が二つ、女の掌にあった。
「お待ちですよ」と女は立ち上がりながら言った。声を聞いてようやく、女の名がミリアだったことを思い出した。ここにいる女たちの出自を俺は知らない。学び舎の者たちの賄いを担うとともに、巫女であると聞いたことがある。ミリアは俺をラズリ様の居室へ連れていくのではなく、自分の手仕事に戻るようで、会釈ひとつして脇へそれ、豆枡を手に取った。
天空の異変に立ち向かう、あるいは操る何ごとかが館の中でなされていると、俺は頭のどこかで考えていた。しかし、嗅ぎ慣れない香も炎も結界も呪の発せられた後の空気の震えも感じられない。俺の耳に石が嵌まっているのをあらかじめ知っていたこと以外は、いつものことのように菜が刻まれ、湯気がたち、手足は無駄なく動いている。
俺はこれまでに十一度、覚師に随いてこの館を訪れている。ラズリ様の居室への往き返りとも、俺はハシース・シンの背と足許を見つめていただけで、通り抜ける館の中の様子に目をやったことはなかった。今日はすべての明かり取りの壁穴に木蓋が差し込まれているので、いつもより影が深い。それでも、目に入るすべてがはっきりと見えた。機織の糸の色、並べ置かれた大小の瓶の線刻、柱に懸かる面の口から突き出る牙。
俺はラズリ様の寝所の手前に跪き声をかけた。長衣から土埃の匂いがした。ラズリ様の胸に障るかもしれない。砂を払ってこなかったことが悔やまれた。女だけの館でなければ着替えを所望したところだ。
「そのまま、お入りなさい」と女の声がした。俺のためらいを察したかのようだった。
灯油の胡麻と乾いた葉、芥子の塗り薬が入り混じった匂いはいつもながらだが、鍛冶場のような金臭さが微かに漂っていた。今のラズリ様に陽光は禁物なので、日没までは窓が塞がれている。「ひととき日の光を浴びすぎましたからね。小屋のない水路の番人みたいに来る日も来る日も」と言われたことがあった。仄暗い臥所には二人の女が控えていた。グラの姿は見えない。 -
21
俺は水汲み車の音を聞いていたようだった。まるで十数本の井戸に囲まれているように途切れなく車が軋り、水が撥ねていた。車の鳴る音といっしょに聞こえていた女の声が俺の名を呼んでいるのに気づくまでずいぶん間があったらしい。表に出て行くと、ヘガルゥとキナムの二人が引き返そうとしているところだった。
「すまない。お待たせしてしまったようだ」
振り向いたヘガルゥがキナムの両肩を押し出して言った。「この子があなたに差し上げたいものがあるそうです」
ヘガルゥに促されたキナムははにかんでいる様子ではなかった。キナムとは顔見知りというだけで、グラの従弟とはいえ餉の座を囲んだこともない。キナムは俺の前に跪き、右の掌に砕けたまま固まったという左の掌をのせて差し出した。俺も膝をつき、象牙の透かし彫りのような小さな掌に手を添えた。キナムの掌にあるのは種子だった。穀物のものではなさそうだが、俺には何の種子か分からない。
「俺にくれるのか。種のようだが、どうすれば良いのだ」
ヘガルゥが口添えするかと思ったが、二人は同時に拝礼し黙って踵を返した。去って行く二人のほかに人影はなく、風も絶えている。井戸車は俺の耳の中で回っていたわけだ。
俺は部屋に戻り、乾きかけている粘土板の端にキナムから受取った種子を並べ置いた。種子は十二あって、俺の目にはそれぞれ異なった花を結ぶもののように見えた。耳を領していた水音に召し寄せられるようにもたらされた十二の種子。種子から目を移すと、粘土板には浅い尖筆の跡があった。俺がいつの間にか刻み付けていたもの、それは文字ではなかった。絵と云えるのかどうか、伐り出された木の幹にも、細長い指のようにも見える。この木の幹らしきものに読めない文字は書かれていたのだろうか。井戸車や水の音が呼んだ線刻とは見えない。
俺は日々夢を刻んで行くが、その一つ一つを解き明かそうと試みたことなどなかったのに、何を拘っているのか。特別な夢などはないと俺は思っている。女神タシュメートゥーが嘉納されたものも、不遜だが、俺にとっては特別な夢と言えるわけではない。特別な夢はないが、こんなふうにいつまでも気にかかる夢があるということだ。うっとりする夢、昼の時間と一続きになったような夢、追われ追い詰められる夢、繰り返し立ち現れる夢、そのどれとも違うのだ。
俺はキナムのくれた種子を置いた粘土板を地下の棚には運ばず、切り窓の一つに入れ置いた。俺の行く末の長さによって夢の棚は増え続け、夢の部屋になり、やがては夢の倉となろう。夢の井戸。俺の井戸は俺だけが掘ることができる。俺が息絶えた時、引き継ぐ者はおらず、ただ捨て置かれるのだ。覗いてみたり、微かに滲みだしている水を舐めてみたりする者はいるかもしれない。一度生まれたものは決してなくなることはない。覚師の言われる通り、無尽蔵なのだ。人の心も、この天と地も。確かに種子だ。一度あったことは、これからの日々の種子だ。
グラ、ハムリ、キナム、今日のはじまりから、ラズリ様の血を享けた者たちが俺の前に連なり現れている。そんなことが気になるのは、符合の魔に誘い込まれているからだ。考えが行き詰ると、俺たちはすぐ徴に飛びつくのだ。それでも、今日という日は特別な日になるという気がする。あなたの本当の名は、とグラは言った。あの娘はどうしてそんな訊き方をしたのだろう。そして俺はなぜ直ぐに、それがラズリ様に尋ねたいことだと言ったのだろう。俺はただラズリ様の傍に座り、自分のことではなくラズリ様の話を伺いたいと、長い間思ってきたのだ。覚師がラズリ様に対してはらう並々ならぬ敬意を目にしていたからではあるけれど、ラズリ様の眼差しを感じると遠雷のような予感が奔り、知らぬ間に頭を垂れているのだ。
ラズリ様に一人で会うときに携えていくもののことを俺は決めかねていた。覚師が持っていくものはいつも変わることがない。果実と薬草だ。果実はその都度、種類がちがっていたけれど、薬草はハシース・シン自ら葉をすり潰し、火に焙り、湯と酒精を混ぜ合わせ、捧げわたすのだ。考えあぐねていたのは、おれも覚師のように二つのものをと思いなしていたからだが、つまるところ今の俺は書記見習いなのだ。
俺はラズリ様に捧げる名を刻んだ小さな粘土板一つをもって表に出た。太陽は三枚の薄布を被されたような白い円盤となって中天に浮いている。生暖かい風がいくつもつむじを巻いて横走りし、御柳の匂いを運んできた。つむじ風は天から降りてきた紡錘竿が回っているようだった。数歩踏み出しただけで、肩が重く胸苦しくなった。人の姿は目に入らない。当然だろう、立っているだけでも奥歯を噛み締めていなければ膝が抜けてしまいしそうなのだ。一たび表に出ようとしても直ぐに屋根の下へ逃げ戻ったにちがいない。神の御使いの手指のようにつむじ風が俺の周りで渦を撚り合わせている。
重いのは月だ。昼の月が天上の酒宴に供される酒瓶のようにニサバの丘を押しつぶしている。月は人を惑わし、血族を引き裂き、思いもよらぬ言葉を走らせるというが、それは真夜中の月だ。天候はいつでも気まぐれだが、この季節の昼間に月が大地を苛むことなどないはずだ。いっさいの物音が途絶えている。狂いまわるつむじ風にも音がない。
今朝の夜明けは美しかった。そしてあの日も、イナンナの星は穏やかな道行を約するかのように澄んでいたのだ。前触れはなかった。馬たちがいっせいに耳を立て、父が下馬を命じ二重の円陣を組ませはじめたとき、空は色をなくし、男たちの声は唸る風に唇の先からもぎ取られていった。途切れず飛んでくる砂粒が針となって空気を掘り刻んだ。風音は金具が軋るようだった。さして長い間ではなかったが、被っていた砂塵の重さに俺は起き上がりかけたままへたりこんでしまった。「これより大きな砂嵐に遭ったのは俺も一度だけだ」と父は言った。「雨嵐とちがって砂漠の風の襲来を察知するのは無理なのだ。身を縮めてやり過ごすにしくはない」
その日は放胆な牡牛のような一気に通り過ぎる砂嵐だったが、数千頭のガゼル群の移動のごとき地響きをたてる嵐のあとは、小さな村落を墓に変えてしまうほど砂塵を積もらせるという。 -
20
そして俺が我に帰ったのは着衣を取った場所だった。目覚めは陽の移りのように淀みがないので、怪しげな秘薬を盛られたとは思えない。なにものかが取り憑いて我知らず奇態な振舞いをしたというふうでもなさそうだ。足下から天井まで薄明の中にあって刻限がわからないが、ここに運び戻されたのにも気付かず、俺は収穫六日前の果実のように満ち足りて寝入っていたわけだ。これでは勤行とは言えまい。役にたたない呆け者として、捨て置かれたということかもしれない。夢を記した粘土板を奉納するのだと覚師は言われたが、尖筆を手にした覚えはまったくない。俺は毎夜かならず夢を見る。思い出せるかぎりの日々を遡ってみても、夢無しの夜を過ごしたことはなかった。夢のない眠りは蝕のようなものだ。否応なく蔽いつくされ光を奪われる。俺は目覚めの直前までまったき闇の中にあった。では、女神タシュメートゥーは瓶の水を飲み干すように俺の夢を飲んでゆかれたのだと考えて良いのだろうか。
俺は耳を澄ましながらゆっくりと下帯をつけ長衣をまとった。祈りも呼びかけもなく神殿を去ることになるのだと気付き、俺は小部屋につながる回廊の縁に跪き黙って頭を下げた。そのとき初めて、膝が抜け肩が上がらないくらい疲れきっているのが分かった。俺は向き直り、ついに一言も捧げることなく、わが身を引き摺って控えの間を後にした。
次の間の中央には絨毯が敷かれ数個の長枕があった。覚師こそ夜を徹しての勤行の時を過ごしたのだろう、長枕の一つに頭をのせ横たわっている姿は見たこともないほど疲れが滲み出ていた。俺もまた搾り器を二度潜った果実のように自分の形をなくしてしまった気がするけれど、タシュメートゥー神の拝顔はおろか裳裾にも触れずに立ち戻ってきたのだ。俺が戻るのをどこかで見ていたのか、すぐに女祭司がやってきて卓上の杯に液体を注ぎ入れ、促すように首を傾げた。覚師は目を閉じていた。液体は父との旅で口にした山の水のように冷えていて、かすかに花の香がした。俺が神殿へと運んだ水瓶も冷たかったのを思い出した。女神に捧げた聖水をこの俺が無遠慮に飲んで良かったのだろうかと疑念が湧いたが、卓に戻した盃に祭司が液体を注ぎ足した。始めの一杯は渇きを鎮めずむしろ募らせたので、俺は少しずつ時をかけて二杯目を飲み干した。
「ご苦労だった」と覚師が目を閉じたまま言った。声がくぐもっていて億劫そうだ。
「私はただただ眠り込んでおりました。というより、気を失っていたと言うべきでしょうか。ですから、何も為さなかったと後悔することもできません」
「お前は疲れておらんのか」
「いえ、目覚めは爽やかでしたけれど、身体を動かしてからは、血の巡りが泥になってしまったようです」そう言っているうちに、立っていることはもちろん、卓を前に坐っているのも辛くなってきて、俺もまた長枕を頼りに身を横たえた。乾し上がった涸れ谷に一筋残っていた水が砂地に消えるように俺の力は抜け出ていった。横たわり目を閉じていれば不快ではなかった。
「お前が大働きをしてきたということだ。その身が搾り滓になるまで夢を紡ぎ続けたのだ」
人の夢を渉猟するのがタシュメートゥー神。新たな夢のため、井戸を掘るように自分の深みへ降りていったのならば、この尋常でない疲れももっともなことだ。キッギアの井戸は掘り当てるのに十一年を要したと見張塔の文書にあったと聞いた。この俺は夢を掘り当てたのだろうか。
「何も為さぬ者はこちらには戻ってこられない。思い出せないことはなかったことではない。我らが思い出せる夜の時はいつでもほんの僅かだ。人の耳も心の臓も麦を量る枡とは異なる。覗き込んでも決して底は見えない。いや、底というものがなく、その容量は無尽蔵なのだ。夢はお前の中にあってお前が思い出したことがないものが現れ出るための道なのだ」
夢に乗って俺の目覚めまで漕ぎ上ってくるものが、俺に連なる遥かなる古の御方の囁きだと考えるのは愉快だ。愉快だが、そのどれかが俺の記憶の外に住まう母のものだったとしても、俺は見分けることができないのだ。
「夢は道ですか」と俺は覚師の言葉を繰り返した。
「夢は道だ。洪水であり、穀物倉であり香油壷だ。上弦のそして下弦の五日月でもあろう」覚師は目を瞑ったままだったので、覚師の言葉は高熱にとりつかれた人のうわ言のようにも聞こえた。
「私にとって夢はいつでも謎です。謎であるならば、終身の牢獄だということになるのでしょうか」
「タシュメートゥーを謎の女神と言った者がいたな。すべての神が我らにとって謎であるのは自明のこと。それをあえて事上げしたのだから、もちろん理由はあろう」
俺は今しがた膝を立てることもできないほどの疲れを感じていたが、起き上がれないのは身体が重いからではなかった。わが身がないのだ。握り合わせる指がなく、長枕に乗せた頭の所在もない。物が見えないのではなく、また眩んでいるわけでもなく、見るための眼が消えている。俺にあるのは耳だけだ。耳だけが残っているとも、耳だけが身を離れて飛んでいるとも感じられた。死の間際、すべての力が去った後でも、最後まで留まっているのは耳だけだと聞いたことがある。覚師ハシース・シンも同じなのだろうか。指も背も目も融け流れて耳だけが立っている。
それは覚師の寝息だろうと俺は感じていたが、寝息ではない、蜂の唸りだ、蜂ではない、扉の向こうに厚く降り積もっていく砂の軋みだ、砂ではない、砂を踏んで遠ざかる足音だ、軽い軽い足音だ、足音ではない、裳裾が地を擦っているのだ、擦っているのは裳裾ではない、尖筆だ、夢を追う尖筆だ。
俺は尖筆を握ったまま深く息を吐き続けていた。夢は筆先に降りてくることがある。眠りのあわいに浮き沈みしていると、それとは気づかぬ間に、いくつかの文字を刻んでいたことがあったのだ。刻んだ文字が夢を辿る標とはならず、謎の上にさらに砂を被せてしまうことも少なくない。日々の夢を書くことは、煙の形を残そうとしているみたいにもどかしいことがあるかと思えば、夢が目の内側に鑿で刻まれたように貼り付いているときもある。時を経てから前触れもなく不意に隠れていた夢がみつかることもある。
俺は目を閉じ、今朝の夢と目覚めの境目に潜りこんだ。これまで文字を読み書きしている夢はほとんど見たことがない。この文字は読めない、なぜそう思ったのだろう。読めない文字を前にするまで俺はどこにいたのか。思い出せる夜の時は僅かだ、と覚師は言われた。すべてのことには訳がある。思い出せないことにもかならず訳がある。
覚師の学び舎にいるのだから、読めない文字を目にするのは珍しいことではない。文書館に積まれている半分以上の粘土板、羊皮、木片、布には読み方の分からない文字が溢れている。俺は読めない文字に囲まれているのが好きだ。中には憑鬼者の呪の匂いがするものもあるが、どんなものでも見飽きない。だから、読めない文字を前にもどかしさを感じたことも焦りを覚えたこともなかった。 -
19
俺は水路に架かる小橋を渡り、ニサバの丘の斜面を豆蔓のように巻いて上る、覚師が女神ニンリルの腰帯と呼ぶ道に入り、はじめの大曲を回ったところで歩を緩めた。まだ見えないが、坂を下りてくる驢馬と二人の足音がする。右岸にも朝の市が立つ。市と呼ぶには貧弱極まりないけれど、乾し果物や豆類、酪乳など並ぶものの質は悪くないのだと聞いた。市に出かける一人はグラの従弟のキナムだろう。少年はニサバの丘には俺より一年ほど早く来ている。キナムは五歳になったばかりの新年祭直前、鍛冶場の事故で左手甲が砕かれたという。そうなっては後に鍛冶職人として生きていくことはできないし、キナムはその日以来声を喪っていた。少年に文字を学ばせるつもりでラズリが呼び寄せたたかどうかは知らない。学び舎に来たことはまだないはずだ。もう一人は、ラズリを手伝っているヘガルゥという婚家から帰された女だろう。とりわけヘガルゥになついているのでもないけれど、キナムは市への買出しには必ず同行する。喋れないが、賑やかな場所、商いの様子が好きなのかもしれない。ニサバの丘では人の声より山羊や驢馬の鳴き声のほうがはるかに多い。粘土の書板を相手にする者たちは食事のとき以外ほとんど話しをしないのだ。俺たちが城市の学び舎に泊まっている間はなおいっそうひっそりとしているだろう。すれ違う時、俺に嬉しそうな顔を見せたのは驢馬だけで、キナムとヘガルゥは小さな会釈をして下っていった。
文書倉へ連れ立って歩く二人の書記生の背が見えたが、建物の周りに人の気配はなかった。俺の寝所に人が入った跡はなかった。俺は念のため汲み置きの瓶の水を表に捨て、井戸端で中を二度濯いでから新しい水を満たした。
「あいつらはここまで上がってこられない。ここには入っていないから大丈夫」と後ろからグラが声をかけてきた。俺が戻ってくるのを窺っていて、水を捨てるのを見ていたのだ。俺は瓶を持ち上げ「グラ、顔と手を洗え」と言った。グラの手にも顔にも麦粉が付いているのは夢中で臼を挽いていたのだろう。待ち伏せていたハムリはどんな言葉でグラを脅したのか。父エピヌーを差し置いて、奴が勝手に妹の婚礼をまとめることはできない。
「良い場所を教えてもらったよ。連れていってもらってありがたかった」
顎を突き出し滴をしたたらせているグラに俺は言った。水に光るグラの顔。濁り一つないこの娘とあの痩せ牛がどうして兄と妹なのだろう。
「私はどうしてディリムが新年祭の神像を運ぶ船に乗るのか不思議だったけれど、さっきよくわかった。もの言わぬ瞳のために。生命の木のために。不朽の館のために。豊饒のシンバルのために。第二の月の祝祭のために。新年祭に奉納する新しい讃歌をつくるお役目なんだ。あんたは五十の新しい名を捧げるお役目を賜るのだわ」
俺はグラがボルシッパの夜明けに捧げた言葉をしっかり覚えていたことに胸を衝かれた。一気に水位が上がるように悲しみが俺を沈めた。
「今度、私は一人で行く。ディリムがバビロンに入る新年祭の日の出を見る」
俺は水瓶を地面に置き、「グラ、俺も顔を洗う、支えてくれ」と頼んだ。グラの足指や寛衣のあちこちにも粉が散っていた。グラは三度に分けてゆっくりと水を零した。俺は瓶を受取り井戸桶の水を足した。グラの手はひどく冷たかった。
「今日、午睡から覚める頃合にラズリ様をお訪ねしようと思う」
「婆様はずっと起きている。いつでも来て」
小走りのグラは住まいの方に向かわず、外囲いの胸壁から出て行くようだった。性悪共が居座っていることはないだろうがグラの足取りに怯えたところはなかった。
俺は部屋に戻り尖筆を選び、粘土と小桶を整えた。死者を床下に埋葬するように俺は日々の夢を刻んだ書板を地下の壁に積んでゆく。城市の教場で書き記したものもこの丘へ持ち帰って保管する。俺以外の学徒たちも夢を書き記すように言われているのか、また覚師自身が夢書きをしているのかどうかは知らない。
タシュメートゥー神の夢見の勤行を言いわたされたとき、俺は日々の夢書きゆえに召喚されたのだろうと考えた。しかし俺がどんな夢を奉納したのか、それは女神に嘉納されたのか、何も覚えていないし知らされていない。俺がはっきり覚えているのは拝殿に至り神像の気配を感じるまでのことだ。
神殿の回廊は左回りの渦で七つの円形の小部屋を通った。俺の両脇には羽虫の薄羽のような透き通った布を頭から垂らし、広口の大瓶を抱えた女祭司が付き添った。俺は一つ目の部屋に入る前に長衣も下帯も取るように命じられた。七つの部屋の様子はどれも同じだった。異なるのは床に敷かれた焼成煉瓦の色と模様で、天の星々を写しているように思われた。各部屋の中央で俺は跪かされ、右手に付き添う女祭司が水瓶の水を頭から注いだ。中央左手には漉し布を被せた水瓶があり、俺の左を行く女祭司は抱えてきた水瓶の水を漉し布に透した。水と勤行者の浄めの儀式なのだろう。小部屋の出口にあたる壁にがんが掘られ小さな神像が安置されていた。円形の部屋にも部屋をつなぐ回廊にも灯がいっさいなかったが、巧みに外光を引き入れているのだろう、どの場所にも夜明け前くらいの明るさがあった。拝殿に導かれ扉が閉ざされると何も見えなくなったが、闇は柔らかく窮屈な場所ではないようだった。新たな導き手が現れる気配はなかった。俺の手には七枚の漉し布で浄められた水の瓶が残されているので手探りも叶わない。聖別された水を託されたのだから、どこかにタシュメートゥーの神像がおわすはずだ。七つの部屋は皆中央まで女祭司の小さな歩幅で九歩だったので、俺は同じ歩数だけ進んでみた。足裏の感触はこれまでと同じだ。俺は水瓶を抱えたまま跪き叩頭して待った。覚師とナディンの三人で盗み食いした女神に捧げる菓子のことを思い出した。
それはすでに夢の中でのことだったろうか。水の撥ねる音が聞こえたのだ。俺の持つ水瓶の水が強い風を受けているように揺れ出していた。女神が顕現されていると感じ、俺は身を固くした。やがて水音が遠ざかるにつれ、瓶は軽くなっていった。腕から少しずつ重みが消えていく感触を俺は忘れることができない。蒸散しているのは瓶の水ではなく、俺自身の魂のような気がした。夢かそれとも本当に起こったことかという区別の仕方が俺には承服しがたい。夢もまたこの身に現れていることだ。 -
18
夜が明けて間もないのに、南北の城門を出入りする人々の賑わいが風のまにまに聞こえてくる。ボルシッパはナブー神を拝体する独立城市であるとともに、戦略的には否応なくバビロンの出城だ。キッギアの荘園は強靭なボルシッパの大盾であり、城市の心臓を覆う鋼の板だといえる。一方、プラトゥム河を隔てたこちら岸に防衛の備えが何一つないのは妙なことだ。
俺は立ち上がり朝靄のはれた城市を見わたした。どんなに澄みわたった日であっても、この丘からキッギアの荘園に聳え立つ見張塔まで見晴るかすのは無理だ。そのさらに先の街道で俺は戦車を操ったのだ。今にして思えば、走った距離はほんのわずかだった。それでも、戦車を降りようとした俺は手綱を握る指をキッギアにほぐしてもらわなければならなかった。手強い敵だったとは思えないが、自分と三つの命がすべて俺の手綱にかかっているという恐怖は血のなかを走り回っていたにちがいない。この俺に命を預けきったキッギアの豪胆さには呆れるばかりだ。
「断崖から身を乗り出してみるのは悪いことではない。傍らで見ているこちらとしては、こやつの落とす礫の音に心胆を冷やしているがな」
駆り立てられるように、何ごとにつけてもわが身を無造作に扱うアシュに言ったキッギアの言葉は、戦場での俺に当てはまる。
俺たちが掃討した一の槍たる偽の商隊は訝る様子も見せずに進路の変更を承知し、わが方の先導隊に従ってきた。奴らは正体が発覚したのに気づき二の槍を生かすために敢えてキッギアの罠に踏み入ってきたのか、あるいは当初から囮部隊だったのかは明らかにされずに終わった。二の槍は数人の者たちが別々に街道を移動し、城門前で七十人の商隊をつくり上げ、父の名を騙りハシース・シンに目通りを願った。黒い男まで員数に加え、怪しまれぬくらい達者にバビロニア語を話す者を配し、恐らくは父に外見の似た者が中にいた。精強な百卒隊ではなかったが、一人ひとりは手練れであったろう。アッシリア軍の戦いは都市を囲み、攻め急がず、凄まじい恐怖で締め上げて気長に相手が疲弊自壊するのを待つのが常だ。一方、城市内に人を送り込み、あの手この手で篭絡し寝返りを促したりもする。奴らは実に抜け目なかったが、父の商隊になりすます手の込んだ作戦には見落としがあった。父の隊は到着の日に城市に入ることはしないし、まして日没後の閉じられた城門を叩くことなどあり得ない。父ビルドゥの名によってハシ-ス・シンを訪なえば、いつでも歓迎の門が開かれるとでも聞かされてきたのかもしれない。取り次ぎを受けたハシース・シンは異変を察知し、素早く密かにボルシッパ兵に偽の商隊を三重に包囲させた。弱兵はしばしば止め処なく狂いたつという。あの晩のボルシッパの守備隊もそうだったのだ。数人は生きたまま捕らえたかったろうが、アッシリア兵は悉く切り刻まれた。
父は北の門で水や食料の補給をしただけで城内には入らず、ナディンは一日遅れで商隊に追いついた。急遽編成された十二騎の警備隊の中にアシュがいた。
「われらは二人とも父親には恵まれたな」キッギアとの訓練を終え、用水路で馬たちを洗っている俺にアシュは声をかけた。父親には、という言葉が気になったが他意はなかったのかもしれない。
俺はグラと日の出を見た窪地から岩棚に上がった。丘の西に向かって歩く途中、はじめに目にしたときから気になった酒船を仔細に調べた。酒船はめったに見ることのない石でつくられている。戦利品でなければ、この石を購うためには莫大な銀が支払われただろう。俺が目にしたのはビブロス一の船主の邸宅とタシュメートゥー神像の据えられていた台座くらいだ。使われなくなって久しいことは確かだけれど、どれほど昔のものなのかは見当がつかない。刻まれた文字も絵もなかった。ここで葡萄の新酒を絞り捧げたのは、この地にナブー神を祀るようになるはるか前のことかもしれない。
河の東側の運河は縦横にきめ細かく整えられ、麦も果樹も収量豊かだ。一方、この二つの丘の側では開鑿する根気を萎えさせるくらい土質が悪いのか、灌漑水路は行く先を喪った驢馬の歩みのようによろよろと伸びかけ途切れている。城市のある左岸に商いと人が偏るのに不思議はないけれど、右岸にあるのはニサバの丘の文書倉と七つの小さな荘園、そして城壁の築かれる前から住みついていたと噂される土器つくりの一団の工房くらいだ。アシュも右岸には来たことがないと言っていた。俺とて、西方はガゼルの群れや日の入りを眺めているだけで馬を走らせたこともなかったのだ。日々踏みしめている土地のことを俺は何一つ知らない。風はかすかに青い麦の匂いがする。いま俺が立っている丘の西の突端も河を見下ろす東と同じように幅は狭い。俺は東の方を振り返った。
丘全体が船だ、と俺は思わず声に出していた。丘の中央の酒船のあたりには帆柱に擬した樹があったにちがいない。この丘はかつて人の手によって石、土、煉瓦を積み上げ時をかけて築き上げられたものだ。打ち捨てられてからの長い年月で、自然の丘と見紛うことになった。俺は走って、もう一度東の岩棚まで戻り、船の舳先が向かう先を辿った。緩やかに蛇行するプラトゥム河の両岸には棗椰子、その先に無花果、石榴の果樹園、南の門に導く街道を越えてキッギアの荘園に至る。この丘を造営したのは見張塔をつくった人々と同じ民だろうか。測量術と築城術の技は近隣の国々でも並ぶ者がない高さを誇っていたはずの人々。それでも滅びたのだ。書板を読んでいた覚師は古の住人の末を掴んでいるかもしれない。
グラに話してやろうと思い、俺は丘を駆け下りた。丘の隘路に入ってすぐ、高揚していた気持が醒めた。俺には予感というものが一切働かないようだ。
距離はあったが、肩を歪ませる立ち姿ですぐに正体がわかった。ナディンに追い払われて以来はじめて目にするハムリの後ろには男が三人いた。俺は歩みを緩めなかった。
「こんな場所にグラを呼び出しやがって、手前、二度とこんな真似をするんじゃねえ。あいつはもうすぐ嫁に行く身だからな」
俺は覚師の言を思い出した。赤目の痩せ牛と脅しを生業とする三匹の猪は口許に嘲りを浮かべた。俺は黙ってハムリを見返した。ゆっくりと息を吐き、闘気を隠さなかった。
「死に損ないの戦車引きの処でこそこそ何をやらかしているんだか。手前のことだ、あいつの娘と乳繰りあうつもりだったかもしれんが無理だろうよ。じゃじゃ馬だそうじゃないか。立派な持ち物をぶら下げたこの三人がかりでようやく満足ってところだ。図星をつかれてだんまりか。いいか、そっちがものにならなかったからといって、グラに手を出すんじゃない。嫁ぎ先はバビロンの鍛冶職だ。俺と同じ次男様だがよ」
三匹の猪は鍛冶の大槌を担いでいる。男たちは三つ子のようだった。リスムの野では三頭目をしくじったが、同じ失敗はしない。四人がこんな風に肩寄せ合っていては大槌を振り回せないのだ。俺は腰を矯め右に肩をひねったあと、左の猪男の脇を駆け抜け、一気に脚を速めた。長衣が膝に擦れて走りにくかったが、キッギアのつくってくれたサンダルは俺にはまたとない武器だ。
「自分の片脚のためにあれこれ工夫したからな」と言って、二揃い用意してくれたのだ。
ハムリたちの反応は鈍かった。言葉にならない罵声が届いたとき、俺は二つの丘に挟まれた道を曲がりきっていた。 -
17
街道の両側からは瀝青の高い炎、正面は十二台の戦車、たぶん後方は別の戦車隊が逃げ口を扼しているだろう。火の帯の勢いは強く、馬に目隠しをしても飛び越えさせることは難しいから、前か後ろのどちらかから突出してくるだろうと考えていたとき、荷車の一つが橋をかけるように火の川を跨いだ。二人の兵が荷車の上を渡りきったが、地に降り立つ前に矢を突き立てられた。三人目は荷車の上で、四人目が後方に射落とされたとき、荷車に火が廻った。周りの荷へのもらい火を防ぐためにアッシリア兵はその場に人を集めざるをえなかった。たちまち友軍の矢が集中した。
街道の反対側では駱駝を使おうとしていた。駱駝の背は火の先より高い。できるかぎり身軽になるためだろう、甲冑を着けていない兵が駱駝の瘤の前に立った。幾本もの槍がわが軍のはるか手前に投げ落とされていたのは、身一つで火を飛び越えた兵が使うためのものだった。男の身のこなしは見事で、足場になりそうもない駱駝の背から巧みに飛び出し、火を越え、槍を掴み、わが陣営に三本まで投げおおせた。もう一人はうまく飛ぶことができず、火の中に落ち、松明のようになって燃え崩れた。
ますます興奮し苛立ち暴れているのは荷駄の馬や驢馬たちのようだった。急拵えの防御陣を築くため荷車から放されたらしい馬が六頭ほど、こちらに向って駆けてくる。目を凝らしたが脇腹に隠れ乗っている兵は見当たらなかった。
「上から矢がくる」とキッギアが言った。
砂地を抉る音が聞こえるまで俺には矢筋が見えなかった。煙が中空を蔽いはじめているのだ。矢唸りは大きくなかったので、前方に展開している射手は大勢ではないようだ。一列目の戦車陣に遮られて横に逸れていった馬が二頭、残りの四頭は火の匂いを振りまきながら戦車の間を抜けていった。泡をふく赤黒い馬の口許を見たとき、アッシリアの馬はアッシリアの兵と同じだと思った。一頭の尻にはいま主側から放たれた矢が刺さっていた。
黒煙に気づくと、目と喉が酷く沁みているのがわかった。道の中では熱風と目鼻を襲う煙の匂いが耐えがたくなっているだろう。火は初戦の脅しで、しばらく凌ぎきれば火勢は弱まると奴らは考えたにちがいないが、業火で二方を塞いでしまうための用意は周到で火種は途切れなかった。
もう一度、空馬が走り出し矢が降ってきた。さらに三度目に走り出してきた馬群は九頭で、少なくとも四頭の背にアッシリア兵が身を這わせていた。キッギアが短く二度指笛を鳴らし「左に大きく開いてあいつらを通せ。そして一気に前へ駆けろ」と命じた。
手綱をさばき馬たちが脚を踏み出して戦車の底板の揺れを足裏に受けたとき、俺にはそれが初めてのことのように感じられた。夜闇は炎と黒煙で濁っていて、不意に動くものを察知するのは無理だ。命の危険をかわすのは目によってではない。見えない敵の前面に出て行くのだ。司令官というものは味方はもちろん敵からもたちどころに所在を知られる。黒い男をはじめとして、生き残りのアッシリア兵全員がキッギアだけを狙っているだろう。背後で怒声とも悲鳴ともつかない声が響き、馬の倒れる音がした。少し前に進んだだけで熱風の勢いが強まった。火の川の両岸からいっせいに矢が走り、三度それが続いたあと「行け」とキッギアが言った。俺は火の門を潜った。キッギアの馬たちは迸り迫る火の粉にも怯まない。火の列柱道路となった街道は明るかった。矢と槍の飛来は一本もないので、アッシリア兵は反対側に血路を開こうとしているのかもしれなかった。並足で戦車を走らせる俺たちの脇を徒歩の兵が行く。道を塞いで死んでいるアッシリア兵は火の縁へ転がし、馬や駱駝は大盾に守られた六人の兵が除けて戦車道をつくった。荷車に繋がれたままじっと立っている驢馬もいた。矢傷で立つことができず、もがいている馬が少なくなかったけれど、腹が裂けおびただしい臓物の溢れ出している馬が一頭あった。負傷してまだ生きているアッシリア兵は見当たらなかった。この連中を率いた者、父の役割を担った奴はすでに倒れたのだろうか。
馬を横倒しに寝かせていたのだろう、起き上がった馬に跨る黒い男の姿は暗雲が覆いかぶさってくるように見えた。
「放て」と叫んで俺は戦車を発進させた。男の放った槍と、胸をキッギアの短槍で貫かれた黒い男の身体が、間をおかずにキッギアと俺の頭上を飛んで行った。
「二の槍はなかったな」とキッギアがこともなげに言った。
「偽者ですから。父の隊にいる者と同じほどの腕前でしたら、私どもは骸でした」虚を衝かれたばかりの俺の声は甲高く昂ぶっていた。
「それがわかっていればよい。あそこで間をおかずに踏み込んだのは誤りではない。よほどの腕でも死は免れただろう。アッシリア軍の方は二の槍を使っているな」
「この隊はやはり囮なのですか」
「囮ではない。一本目の槍だ。おそらくもう一本もっているということだ。こいつらは百卒隊ではない。残りの三十人が待っているのではなく、もう一隊いる」
前方の遠くない場所から刃と刃、刃と盾のぶつかる音がした。骨の砕かれる鈍い響きも聞こえた。戦車の横を徒歩の兵が駆けて行く。
「キッギア様、今ほど通り過ぎた処にあった馬の死体を調べてください。腹をやられていたやつです」大声で言ったつもりだったが自分の声が遠かった。キッギアの指示に二人の兵が引き返した。切り結ぶ音と絶叫が不意に途絶え、友軍同士の掛けあう声が重く澱んだ血と煙を吹き払うように弾けている。喉の渇きが耐えがたかった。夜空を穿つような声で駱駝が唸った。二の槍のことを思い巡らせていた俺にキッギアが訊いた。
「ディリム、どうしてわかった。腹の中に一人いたそうだ」
「あれは剣で切った傷でした。われらのつくったものではあり得ません。それに、父から教えられました。いざというときの身の潜めかたです」そう答えながら俺は、いま血に塗れていたのは俺になりすましていた奴かもしれないと思い、気が滅入った。
俺の思いを見通していたにちがいない、キッギアの言葉は励ましに満ちていた。
「夜明けまでに、この街道を元に戻さねばならん。アッシリア兵を屠るよりよほど骨のおれる仕事だ。二の槍の様子見には二十騎だけで向う。ディリム、しっかり穴を掘れよ。明後日、いつもの場所で待っていろ。新しい跳躍をおしえることになろう」 -
16
商隊が通る街道から北東に入り込んだ小丘の稜線に沿って兵が展開していた。たぶん四十人より多いだろう。俺たちは下馬し、馬溜りになっている窪みに入り、馬の汗を拭った。キッギア率いる部隊の馬はすべて額に同じ護符を付けている。ナポボラッサル王を救った馬、ムシュの額にあったものだ。
乾した羊肉と五粒ほどのアーモンドと蜂蜜水の夜食を取っていると、食べ終えたらついてくるようにキッギアが声をかけてきた。初めての戦に臨もうとしているのだな、と俺は思った。初陣は俺だけだろう。戦を前にして蜂蜜水を飲めるのは嬉しかった。用水路の泥浚いの中休みに配られたものが喉を通ったとき、こわばった四肢がゆっくりとほぐれていき、すぐにも道具を手にして働き出せる気分になったのだ。
キッギアの歩みは玄武岩から切り出された戦士像が動いているようだった。秣を食っている馬たちの傍を通るとき、キッギアが言った。「メディアのサーム将軍が言ったそうだ。バビロニアの馬は良い。騎兵も悪くはない。しかし飼葉は最悪だ、と」
麦も葡萄も土によって味は大きく異なるのだから、草にも当てはまるだろうと俺は思い、頷いた。
「ディリム、お前の父の商隊はいつも何人くらいで編成されている」
「七十人前後です。馬、驢馬、駱駝、荷車の数は行く先によってかなり違いがあります」
「やがてこの地に追い込まれてくるアッシリア兵は七十人ほどだそうだ。ボルシッパの盾たる荘園の内実を探るためかと考えていたが、お前の父ビルドゥの一行になりすまそうとしたところを見ると、あわゆくばハシース・シンを葬ってやろうと途方も無い企みを練った者がいるかもしれん。心配するな。ビルドゥの隊に代わったということではない。お前の父の商隊はいざとなれば、バビロニア屈指の遊撃隊だそうだからな」
覚師とナディンが話していた通り、あらゆる場所で暗闘がなされているのだ。
「一兵たりとも生かして戻しはしない。夜に紛れて逃がすようなこともさせない」キッギアの声は仮借ない神の刃のようだ。
百卒隊の一つか、と俺は思った。だとすると、あと三十人はどこにいるのだ。荷車の中か、あるいは一人ひとりですでにボルシッパに入ろうとしているのか。こめかみが熱くなり、俺はキッギアの目を覗き込みながら、せわしく訴えた。
「キッギア様、覚師からアッシリア最強の兵は百卒隊を軸とする歩兵軍団だと聞きました。必ず百人が一塊だと」
キッギアは立ちどまり、遠くを見据える目をした。頬を包む巻き鬚が薄闇のなかで石鑿に削り出されたように固く尖っている。
「シャギル」とキッギアが呼んだ。揺れていた水が静まって姿が映るように、一人の男がキッギアの傍らに立った。そしてキッギアの耳打ちに砂音もたてずに見えなくなった。
「武器を潜め正体を隠しての動きは百卒隊に相応しいとは思えん。しかし、我らの探索に洩れはあるだろうし、意想外の砂嵐は戦には付き物だ。百卒隊だとしたら、卒長はどちらで指揮を執ると思うか」
訓練の最中にも、しばしば、このようにどう思うかと尋ねられた。
「待っているほうです。合流を阻まれることは作戦の外でしょう」
「双方が読み違いを抱えて事が動きはじめているかもしれん」
まだ明るさの残る空を鳥の長い列がよぎって行く。鳥の群れは夕暮れのほうが美しいなと、俺は思った。馬の匂いがした。タマリスクの小さな茂みの奥にすでに馬を繋いだ戦車が居並んでいた。戦車は十二台あった。暮れかけた中でも十一台に乗る二十二名全員の顔がわかった。調練で俺とアシュはこの者たちから数え切れないほどの矢を射掛けられ、二人とも鏃のない木の先に塗られた赤い染料で上半身が斑に染まった。実戦であれば、日々射落とされたということなのだ。
「ディリム、私の御者をつとめよ。籠手と兜を付けたらすぐに出立だ」
騎馬でついて行くのだと考えていて、キッギアの御者として参戦するなど思いもよらぬことだった。しかし、躊躇は無用だ。あろうことか、アッシリアは父たちに成りすまそうとしたのだ。姑息な思い付きを後悔させてやらねばならない。頭と首、そして横腹を革鎧で覆われた馬たちは逸ることなく、緩やかな斜面を下った。俺は五両目に位置するように言われた。アシュとの調練で二度、キッギアとは一度だけ、夜の中を戦車で走ったが、荘園一帯の野はどこも走りやすく手綱が乱れることはなかった。今も前の戦車について行くので目を凝らすこともない。大氾濫のあったときでも、この一帯まで水が寄せることはなかっただろうが、水脈は走っているにちがいない。月は上弦の四日目だ。点々と黒い木の影が見わたせた。瀝青が匂う。風はないけれど、少し鼻のきく者であれば遠くからでも待ち伏せに気づくはずだ。目印なのか、街道沿いの石積みの上に牛の頭蓋骨があった。俺たちは街道を跨いで真横に戦車で堰をつくった。横一線ではなく、三段に構え、俺は中段の左側に廻るように言われた。アッシリア兵を追い込むと言ったが、ボルシッパ城市に向おうとする隊をこんな方にまで抵抗なく迂回させることができるだろうか。「それでは、簡単すぎます」とナディンは言ったのだ。この季節、音はよく届く。蹄の音が聞こえはじめた。鞭を振って全速力で逃げてくるのではなく、並足のものだ。俺が馬音に気づく前に街道の両側に徒歩の兵が伏せられていた。
「お前の初陣は夜戦、そして火を使う。その時がきたら、しっかりと馬を宥めよ」
キッギアの声は低く穏やかだった。血の騒ぎはなく、ゆっくりと近づいてくるアッシリアの商隊の動きが秤の目盛を積むように全身で感じられた。声の届く距離に近づいても人語が聞こえてこない。荷車はほとんど空だろう。たとえ疲れきっていても、声一つ発しない商隊などない。すでに瀝青の匂いに気づけぬ遠さではないが、隊列は一列のままだ。闇は双方にとって等しい濃さだ。これは不意打ちにはならないだろうと俺は思った。
キッギアが右手を挙げ、傍らで指笛が鳴り、炎が吹き、嘶きが乱れた。キッギアの戦車隊の馬は静かだ。俺も手綱に力をこめることもしなかった。街道沿いの立ち木がことごとく炎を上げている。夜の中で矢音を聞くのは嫌なものだ。今放たれているほとんどの矢が味方からだとわかっていても恐怖を掻きたてられる。短く発せられるアッシリア語にうろたえている響きはなかった。犠牲は小さくないだろうが、アッシリア兵は効果的に矢を防いでいるように見えた。ひときわ丈高い男が目に入った。ここまで似させようとしたのかと俺は目を見張り、キッギアに言った。「あの黒い男の放つ槍はここまで届きます。間をおかずに二本打ってくるはずです」父の隊に随っている黒い男の投げ槍を二度目にしたことがある。二度とも二の槍は使わずに獲物を仕留めた。下馬したのか、黒い男の姿は見えなくなっていた。ここにいるのが相対する敵の指揮官だといずれ気づくだろう。隙をみせてはならない。 -
15
首を立てよと言われたナディンは菓子を手にしたまま、野外法廷に引き出されたみたいに首を垂れた。ハシース・シンは立ち上がり、ナディンの肩に両手を置いて言った。
「お前のここでの学びは昴が沈む日までとせよ。麦の種蒔きが始まる頃、ディリムの父の商隊がボルシッパを通る。ナディン、お前はその中に入るのだ」
ナディンは目を上げすぐに口に手を当てて嘔吐を堪えた。こいつは少しでも気が昂ぶると喉がひり付いて吐気を催す質なのだ。今は無理もないことだ。覚師の言は目の前で前触れなく石が割れたように俺たちをたじろがせる。俺も混乱した思いで覚師を見上げた。
「塞ぎこむな、ナディン。ディリムの父ビルドゥが待っているのは帳簿係でも日録づくりでもない。目指す先はメディアの地エクバターナとリュディアの城市、そしてカルケミッシュだ。これを聞けば、どんな旅なのかお前にもわかるだろう」
父がアラフシャムヌの月にこの地に来ることを俺は知らなかった。ハシース・シンの学び舎に来てから父と便りのやり取りをしていないが、覚師も父も通信については抜け目のない手配りをしているのだろう。父は商いの荷を運んでいるだけではないということだ。俺はナディンが羨ましかった。カルケミッシュという古戦場の名は、戦車を御したいと考えた俺にとって格別な響きをもっている。ファラオの国の年代記の書き手は王の光輝のみを飾り立てているので戦の起伏は読み取れないが、かの大会戦がファラオの一方的な高笑いで終わったということはなかろう。二大国の戦車隊が凄まじく駆け違った平原に俺は立ってみたい。土地にも人の頭のような場所があるはずだ。その場所は起こったことすべてを呑みこみ記憶する無尽蔵の溶鉱炉だ。投げこまれたものは姿かたちを変えていくが消え去ったわけではない。古戦場やジグラットの建つ聖別された地は記憶の神が標石を置いた囲い地なのだ。地空に書き遺されたことどもが、いつでも思い起こされ呼び出されるのを待っている。カルケミッシュの段丘の一角に立てば俺は聴くだろう。秤が胸苦しく均衡して、両国の命運がどちらにも傾きうるはずだった時の軋みを。
「わが国も早晩アッシリアと決着をつけなければならない」と言いながら覚師が右手を強く振ったので長衣の袖が鳥の羽ばたきのように鳴った。「奴らの進軍は遠雷のようだ。姿が遠望できる前から気づかされる。密集部隊の威力が途方もなく凄まじいのは兵たちが雄たけび一つ上げずに地を踏みたててくるからだ。アッシリアの厳格な軍律の一つは、百卒長を喪った部隊が全員死罪ということだ。この百人の部隊はどれも禍々しい旋風に乗った神の手兵のようだ。アッシリア歩兵中核の一万六千人の部隊は百六十人の卒長が率いている。百六十ある百人の部隊を一つにくるんでしまえばよいのだ。一万六千の塊りにしてしまうということだ。一塊となった百人隊の力は半減するだろうと値踏みしている。つまり対等だ。アッシリア歩兵の強さは並外れているが、戦車兵はわがバビロニアが勝っている。そして此度のメディア騎兵、なによりも弓だ。アッシリアとてわれらの強みを殺ぐことに力を注いでくる。この時期にメディアとわれらが組んだのは大いに焦りにつながって、あれこれ姦計をめぐらそうとするだろう。敵の敵と結ぼうともしているに違いない。つまり、商隊が使う街道はいつにも増して危険に晒されているのだ。ディリムの父はナディンのために輿をしつらえてくれはしないぞ。天に昴が見えている間に馬に乗れるようにしておけ」
「それでは簡単すぎるように私には思えます」とえずきの後の掠れ声でナディンが言った。しかし、さらに言葉を継いだ声は駿馬の嘶きのように力強く伸びやかだった。土塊の鋳型がこそげ落ちて、隠されていたナディンの顔が顕れたのだろうか。
「決戦を前にして兵の恐怖を斥けるための将軍の訓示ならともかく、百の百六十倍の雷を一時にまとめて鳴らすことなどできません。見かけの陣形はこれまでと同じようにすべきです。バビロニアの最精鋭の部隊をアッシリアの歩兵部隊に向わせるのです。いずれにしても覚師のおっしゃる通りリュディアとアッシリアを結ばせてはなりませんが」
何がいきなりナディンを変えたのだろう。奴自身は己が変わったとはまったく感じていないに違いない。呪が解けた者のようだ。学び舎の者たちもその日からナディンの変化に気づかされたが、以前のように揶揄しようとした輩はすぐに己を恥じることになった。ハシース・シン覚師は虚を突かれたふうもなくしばらく二人で武官同士のようなやり取りが続いたのだった。
鳥の気配がした。見上げると、思いのほか高い空で二羽の鷹が上下している。駱駝の鳴き声が風に運ばれてくるのは、大きな商隊か兵団が動き始めているのだろう。ナディンの出発に俺は立ち会えなかったし、父とも会えずじまいになった。アシュとの調練が終りキッギアに引き継がれた訓導が二十日ほど過ぎたころだった。俺はキッギアに戦車ではなく、馬でついてくるように言われた。調練とういには、いささか風変わりな日々だったがキッギアの領地をアシュと動き回るうちに、この地が単に報償として下賜された荘園ではないことがわかった。キッギアは功ゆえに、そのゆかりの地ボルシッパの裏街道を擁する一帯を授けられたと味方も敵も考えていた。葡萄畑で馬小屋で水路管理で立ち働く男たちは明らかに兵、あるいは戦傷兵だった。真偽はともかく青い目の女が送り出した刺客もどきはもちろん、アッシリアが次々と放ってきた商人や芸人や牛追いに身をやつした偵察者は一茎の雑草のように毟り捨てられていた。アッシリアは業を煮やしたというより、不可解な秘密を嗅ぎ取ったのだろう。一人も帰還しない細作の謎を探ろうと、大胆な手を打ってきたのだ。
キッギアに従ったのは俺と二十二人の男で、アシュの姿はなかった。傾きはじめていた陽が没しきるまでに三度馬を休め、二度目の休息地点で十九人の男が合流した。ここでキッギアと進発した男たちは胸甲を着け、矢筒を背負った。俺は矢ではなく、短い剣を胸甲の締め帯に差した。革袋の水が回され、乾し棗椰子が配られた。馬の鼻息だけが聞こえた。集まった兵の半分以上の顔には見覚えがあった。アシュに戦車の手ほどきを受け始めて二日目、車軸に油を塗っていたとき、用水路の泥浚いに手を貸して欲しいと言ってきたのが、いま俺に胸甲をもってきてくれた男だった。
水路の底から泥を掬い上げるには腕も腰も屈強でなければはかが行かない。アシュが嗤った俺の貧弱な体を御者向きにこね直すためかとも考えたが確かに人手は足りないようだった。胸覆いと下帯だけの女たちも用水路の縁に立って泥砂の溜まった桶を受け取っていた。泥の掬い方にも勘所があるようで、慣れてくると重さが堪えなくなったけれど、中食のため水路から上がったときには膝が揺らめいた。キッギアの娘と一緒だからなのか、俺の非力や無様な腰つきを嘲弄する態度は誰もみせなかった。その晩は寝返りも打てないほど全身が強張り痛み、翌日には手の豆が潰れた。作業は三日間続いた。アシュも何も言わず同じ場所で立ち働いた。三日間とも、差し掛け小屋で中食と夜食を作業に出てきた者全員でとった。顔ぶれは毎日変わったが、溝浚いの季節を外れているのに五十人を超える男女が用水路に集まった。俺より年下の華奢の体つきの少年もいた。皆の無駄口のない切り詰められた動きのせいか、戦に備えているようだった。水路はいつも砂との終りのない戦の場だともいえる。 -
14
「鍛冶は辛い仕事だ」と苦いものを嚥み下すように覚師は続けた。「とにかく粘り強くなければならない。火花や欠片で腕や顔が傷つく。片目を失い、さらには両目をやられる者もいる。エピヌーのように僻遠の地まで響く腕を持つほどの者であれば、その天分のない者を簡単に見分ける。だからエピヌーはハムリに別な道を示してやるべきだったのだよ。今となっては間に合わない。あれは不平と恨みを腹から戻してはまた口中で捏ねくり回している痩せ牛なのだ。餓えたまま冥府まで行く命だ」
「なぜこんな奴が人の顔をして生きているのかと思うことはあります。それにしても覚師、人は変われないものでしょうか」ハムリに同情する気持はまったくないが、覚師の断をそのまま納得できず俺は訊いた。
「本性というものは動かしがたい。ほとんどの罪はその者の本性から出ている。ナボポラッサル王は寛大なお人だ。一度目の罪を赦すという。だが私は別な考えを持っている。ディリムにも言ったように人は自分のしたことを繰り返してしまう。本性がそうさせるのだ」
人の在りように希を託す寛やかな心。キッギアを救うために死地に駆け戻ったナボポラッサル王は一国の王の在りようを踏み外しているのだろうが、それゆえにこそ家臣も愛馬も進んで王に命を捧げようとした。
「ハシース・シン様はハムリが別の道を歩んでいればとおっしゃいました。家族一族は顔、体つき、身のこなしから話し方まで似ていますね。ラズリ様がいて、言葉はめったに発しないけれど誰もが仕事ぶりを称えるエピヌー、可愛いグラ、そしてよくは知りませんがグラの一番上の兄も気骨ある工人と聞いています。その家族の中で何故ハムリだけがあのような目つきでうろついているのでしょうか」
「揉めごと争いごとの多くは家族一族、隣人との間で起きている。血がつながっているのに何故争うのかとよく言うが、血がつながっているから争うのだ。見かけなどまさに見かけにすぎない。その上、三代隔てれば元の血は薄まる。ボルシッパで唯一ナブ神像が見えていたラズリと一代隔てたハムリは聖なる雄牛と驢馬を較べるよりも遠いと云える」
俺はエピヌーの連れ合いに会ったことがないし、係累もほとんど知らない。ハムリはラズリやグラ、エピヌーに少しも似たところがないが、見かけは見かけにすぎないことは俺にもわかる。一本の麦穂にも様々な籾がつく。初めから実の入らないものもある。
「いつであれば、間に合ったのでしょう」
「グラの一番上の兄ニンマルとハムリだが、エピヌーは二人がそれぞれ五歳になった時、鍛冶場に入れ、自分に次ぐ親方を傍につけて仕事を見せた。鍛冶場に入れば幼子でも自分の父がいかに工人たちに敬されているかを察する。当然誇りに思う。そこからなのだ。家族一族という糸が目蓋を蔽い縫いつけ、自分を失わせるのは。二年の間をおいて兄と弟は同じ物を見、大いに火の粉を浴びて火傷もし、水や道具を運んだ。ニンマルも幼い時分特に才を示したわけではなく、大雑把に括れば二人とも同じように凡庸だったのだろう」
「万能の鶴嘴を継ぐ者と云われ、四方世界数百人の鍛冶頭たちの頂にあるようなエピヌーからすれば、誰もが凡庸ということになってしまうのではありませんか」と俺は食い下がった。俺にしてからがそうだ。わが父は商隊の長として、率いる者たちはもちろん、馬や驢馬たちにも慕われている。動物たちは明らかに父と旅するのを喜んでいた。父のように大きな瞳を持つ者が見る天地は広大で深いにちがいないし、覚師のように三十を超える言葉を聞き分ける耳を持つ者が知りうる人の世は汲み尽くせない驚きに満ちているのだろう。嬉々として父に従う驢馬たちと同様、天分ある人の影を追う日々の吐息のなかに凡庸な己の輝きがある。
「凡庸であることに耐え続ければ、ありふれた積み重ねも時のなかで才に変わる。われらには何の足しにもならない荒れ地の草が羊の毛と肉に変わる不思議と同じだ。悪い井戸からの水は何度漉し布を通しても良い井戸の水になることはない。良い井戸で汲んだ水も放っておけば無風の候でもいつの間にか砂含みの水になる。人もまた、この井戸の水になぞらえることができるが、もちろんそっくり重なるわけではない。その湧き出た場所によってのみ評価定まるのなら、われらは夜を徹して明日をつくる気にはなれないだろう」
二つの大きな拳で卓を擦り叩くようにしながらハシース・シンは続けた。葦筆と葦笛を操る指の一つに見たことのない紅玉髄の指輪が嵌められていて、紅い石が星の滴りを集めたみたいに濡れ光っている。この手はきっと戦車も操るにちがいないと、俺は理由もなく考えた。
「いずれにせよ今後お前はハムリをラズリ、グラと血のつながっている者として見てはならない。小悪党も梃子の石となって大いなる禍を転がすことがある」
ハシース・シンがこれほどまでに人を悪し様に言うのを俺は初めて聞いた。理由あってのことなのだろうが、ハムリの振舞いは小悪党という割れ瓶からはみ出るようには見えない。汗するのを厭い力を惜しむ。身内が築いた名の高さを自分のものとして誇示したがる。そんな燃え滓みたいな目をした輩はどこにでもいて、小さな禍を振りまいて行く。人はこのしつこい雨泥から逃れられない。
「自分に引き寄せてお恥ずかしいことですが、血のつながりとは何なのでしょう」とナディンが訊いた。「本性が生まれながらのものであって、本性から逃れられないのが私たちなら、悪い井戸の水として生きるほかないのでしょうか。誰からも飲んでもらえず、己自身何故顔をしかめて吐き出されてしまうのかもわからずに」
「エピヌーは己の名が何の力も持たない地へハムリ捨て置き、孤児のように生きてゆかせねばならなかった。工人の世界で父の名の輝きなど次の代に何の力も持ちえない。それがわかっていながら、五歳にして力を惜しむ本性の息子、父の名声を冠のごとく引き継ごうとする息子を身近に残してしまった。そこでだ、ナディンにはっきり言っておくが、お前の父と義母も同じだ。エピヌーとは逆だがな。お前が王国で指折りの書記官になる才があることに気づかなかったことは致し方ないとしても、あの者たちはお前の芽を悉く踏み荒らそうとしたのだ。お前は自分を悪い水だと考えているようだな。わしの言う本性ではないが、自分をことさら低く見るのがお前の悪いところだ。親の目から本来の自分を隠さねばならなかったお前を気弱だと決め付けるのはいささか憚られるが、今のナディンの力であれば誰やらの推挙など持たずとも数多の都市で枢要な官を難なく得ることができよう。書記生たちが単調な繰り返しに歯噛みし、面妖な決まりごとを丸呑みして腸を痛めるのは安穏を約束するその官につくためだ。しかし新しいバビロニアが必要としているのは猟官のために文字を学ぶ徒輩ではないのだ。ナディン、首を立てよ。わしはもちろん、このディリムもお前の力が見えている。お前の前を行く者はいないのだ。誰に随いていく必要もない」 -
13
ナディンは袖をたくし上げ屈託なく菓子を二つ取り一つを俺に手渡した。そして一口齧りとるや、「覚師、竃の者たちに分けてきてもよろしいですか。これはあいつらに食べてもらわなければ」と言って立ち上がり、三種類を一つずつ手に小走りで厨房に入っていった。
齧ってみると、香も甘みもボルシッパで似たものはないのに初めて口にする味ではなかった。幼い頃食べたことがあるのだろうか。舌先に微かに残る甘みを追っていると、今は忘れている時の石甕の蓋に手がかかりそうな気がした。
「どうした、ディリム」薄明の記憶をまさぐる俺を覚師の声が呼び戻した。
「捧げ物と言われましたが、ナブ神へのものですか」
「これは奥方様のタシュメートゥー神のためにつくられた菓子だ。われらが頂戴しても大目に見てくださるだろうよ」
「畏れ多いことですが、わたしは初めて食べたとは思えないのです。異国の風味のようなのに遠い昔に味わっている気がして」
「であれば、これはお前の母の味かもしれんぞ。ディリムは母の記憶がないのだったな。ナブに慈しまれている身のお前であれば、母がタシュメートゥーであっても不思議ではなかろう」
女神の戯言には苦笑で応えるほかないが、母の味という言葉には耳が立った。思い出はどこまで辿れるものなのだろう。人や物の姿かたちがはっきりと目に浮ぶ一番遠い日、そこに母の姿はない。口中が覚えている味はその日よりさらに古いだろう。夢には父や母や祖父母ばかりでなく、何代も遡る誰かが見たり出会ったりしたことが立ち現れるという。舌の味わいにも糸車いっぱいの長く連なる糸があるのかもしれない。俺の母の味ではなく、二百五十代前の母がタシュメートゥー神で、その母の舌の記憶が今顕現したとこっそり考えるのは愉快なことではある。それを不敬と謗る者はいないだろう。確かに俺には母の記憶がない。母の記憶がないということは、母がいないのと同じだ。俺は母の本当の名さえ知らないのだ。
「ナナヤのごとく美しく賢いお方だったと聞いております」と俺に話したのは誰だったろうか。ナナヤとはタシュメートゥーの異名ではないか。
「お前は明日、そのタシュメートゥー神像の拝殿で夢見の勤行を行なうことになっている。私はお前とは別にナブ神像の拝殿に入る」と覚師が告げた。
「夢見の勤行とは初めて耳にしますが、私のような何一つ持たぬ者が拝殿に昇ることが許されるのでしょうか」覚師に随き従えばよいと考えていた俺はうろたえてしまった。槍の前に晒されるのは恐ろしいが、まだ見ぬ神像の前に一人跪拝する自分を思い描くのはさらに身が縮む。
「夢見る力は官職の名に備わっているわけではない」すべての気がかりを捨てよというふうに覚師は断じた。
「このためだったのですか。毎夜見る夢は必ず記しておくことを習いとせよと言われたのは」
「夢を零さぬよう文字に写すことは己が目と手のなせる業。続ける気力さえあれば夢が消え去る前に必ず馳せつけることができるようになる。しかし見えない夢を漁どるのは佳き耳を持つ者のみがなしうることだ」白い光が漲る真昼の部屋の中で、ハシース・シンの声は夕暮れの蜂蜜色の光のように穏やかに俺を浸した。
「見えない夢を漁どる」俺には覚師の言わんとすることがわからず繰り返した。そして佳き耳とは何だろう。それは未熟な俺とは程遠い霊妙な力、光輝ある知恵のみなもとのような言葉に思える。
「私が見ることになる、いえ、漁どらねばならない夢はタシュメートゥー神からの託宣なのでしょうか」
「お前は夢を記した粘土板を封に入れ奉献する。神のみがそれを読む。思い違いをするではないぞ、ディリム。これは以前から決めていたことでリスムの野での出来事とは関わりない」
「もう一つ訊いてよろしいでしょうか」と問いかけた俺に頷き覚師は目を上げた。
「喰ってみたか、ディリム」初めの興奮を引いたままの口調で厨房から戻ったナディンが訊いたため、俺の言葉は押し戻されてしまった。ナディンは覚師に向かい索敵の伝令のように報告した。「竃の者と市に出る者ら五人ほどがおりましたが、皆首を傾げてしまい、同じものはつくれないと申しました。麦粉からして手に入れるのは難しかろうと」
この学び舎で配られる料理は修業の身には贅沢すぎるように俺には思える。竃場の料理人たちは腕のある者たちが集められていて、食材にも惜しみなく銀を使う。ハシース・シンの決め事には違いないが、覚師の思惑が奈辺にあるのか俺にはわからない。
俺たちの餉は俺が父との旅で泊まった豪商の館で主人が自信ありげにすすめてくれる皿に伍するほどのものだ。旅にあれば、臭い干魚や金気塩気の強い水、砂まじりのパンで幾日も過ごす。だから何よりの望みは飾り立てられた皿ではなく、真水と口当たりのよいパンなのだ。しかし辛い旅を終えて入る都市では商いを差配する商人からの貢物だと云わんばかりの厚遇が待っている。商魂と下心で味付けされた皿はいずれも豪奢を極めていた。父は長たる自分と同じものを商隊の全員に供するよう必ず申し出ていたので、一番のろまな驢馬ほどの役にも立たない小僧の俺も酒以外はすべて口にすることができた。商隊が巡る様々な土地の贅をつくした料理はそれぞれの都市神に捧げられたものに近いだろう。敬虔な心映えと眼差しが菓子の形になったようなタシュメートゥー神への捧げ物を俺はそうした旅のどこかで口に入れたのかもしれない。
「捧げ物がわれら僕の日々の糧とおなじというわけにはいかぬからな。とはいえ、ディリムは昔食したことがあるようだ」と覚師は掌に菓子の一つをのせて言った。
「さもありなんと私は思います、覚師。こいつが知恵の実をとうの昔に口にしていたとしてもさして驚きませんよ。こいつの才は尋常ではないのですから」
「俺と違ってナディンは知恵の実なしで見事に立っていたわけだ。菓子を口に入れたお前はこれからタシュメートゥーの力に与って、誰にも増して高みに昇れるではないか」俺は献じる姿勢でナディンに菓子の一つを差し出した。
「その通りだ。わしの頭の四半分は掠め喰った捧げ物に育てられている」覚師は俺たちが投げあう軽口に付き合った後、真顔になった。「ディリム、尋ね事があったようだが、勤行に際して改めての心構えなど無用だ。浄めの仕来たりは言われるままに従っておればよい。お前は塔の高みにただ一つ置かれる竪琴のようなものだ。風が吹き来たってお前を鳴らすだろう。すべての弦が揺れる烈風なのか、微風がそよいで虫の羽音と紛う囁きが生まれるのか、耳にするのはお前だけだ」
知りたかったのは俺自身の振舞いのことではなかったけれど、今思い煩っても導かれる先を選び直すことはできないのだ。高みに置かれる竪琴の如くと聞いて、俺の目に浮んだのは塔ではなくキッギアの井戸の傍らに立つ樹だった。竪琴でもなく、弾き手でもなく、また風にもなりえない俺は梢の鳴る音を聴いているのだろうか。
隣に坐るナディンは俺が献げ渡した菓子を掌にのせたまま目を伏せている。友に秘さねばならないことではないが、自分の役目を弁えていない俺には説明のしようがない。
「ディリムはタシュメートゥー神殿での勤行を拝命したのだ。顔に痣などこしらえてはいささか芳しくなかったろうから、今一度お前には感謝せねばならん」と覚師がナディンに言った。「とにかくさっき追い払ったような手合いの為すことは行き当たりの思いつきゆえ、往々にして途方もない災厄を連れてくる」
災厄という重い言葉に俺たちは黙って頷いた。 -
12
ほとんど外出しないナディンは昨日もボルシッパ兵の訓練見物に同行しなかった。ナディンの父はバビロン王宮の錫杖護持官だから、庶子とはいえナディンは高官の家系ということになる。義母はよくあることだが、何故か実父からも疎んじられたらしい。同じ庶子腹の弟は可愛がられているそうだから、継子いじめも偏っている。どのような経緯で学び舎に来たのかは知らないがナディンは優れた書記生だ。何よりも葦筆の刻みの美しさは群を抜いている。俺は早く書けるが、時をかけたとしてもナディンの文字には遠く及ばない。記憶する能力も高く、星の文字を入れた暗唱のときも、おそらくナディンはもう一人として残ることができたはずだ。目立つことを怖れるナディンはわざと躓いたのだ。
賄いの間で待つように言われたナディンと俺は粘土を突き固めただけの腰掛に並んで坐った。部屋はヒラマメを煮込む匂いがして熱がこもっている。
「ディリム、どこにも怪我は無いのだな。今のことではなく昨日の話だが」友の思いが皮膚を伝わって染み入るように感じられた。瀝青の桶に漬け込まれたようなおぞましさを味わった俺は、この身を穏やかに浸してくれる水と光、眼差しと言葉、熱と鼓動を隈なく取り込もうとしているのだろう。俺はナディンの肩を抱きあらためて頭を下げた。こいつは屋上に投げ落とす物がなくなっていたら、わが身を放り出して俺を救おうとしただろう。
「猪の群れに飛び込んだと話していたからな。昨夜戻ってこなかったので気がきではなかったぞ。朝の寝息が随分静かで、却ってびっくりしたよ」
「高いびきに呆れたろうな」
「俺は見た通りだがディリムも戦に臨む体つきには見えないからな」
「これで死んでしまうのだと感じた時の恐ろしさは忘れられん。今でも震えそうだよ。戦場は槍や戦斧や矢が絶えず絶えずこの身を倒そうと向かってくる。知りもせずに弱兵などと詰るのはまちがっていた。一度戦場に出れば肝が据わるというが、一度目のその日が最期になってしまうかもしれないのだ。だがな、自分でも腑に落ちないけれど、俺は二輪戦車の御し方を学ぶことにした」
「なんだと、お前、ここの、ハシース・シン様からの学びは止めてしまうのか」
ナディンの咎める声は喉いっぱいに嗚咽がせり上がっているようだ。
「もちろん続ける。覚師にも言われたが、どちらかがおろそかになるようだったら俺は追放だ。ところで、今日はやけに静かだな、昼餉の時刻ではないか」
あまりにも静かで、壁で揺れる光の音さえ聞こえそうだ。賄いの間と大小三つの学び部屋、そして文書庫をつなぐ歩廊は、南面する外壁の切り窓から注ぐ陽光で、昼時は眩しいくらいだ。賄いの間に入ってくる外の光はこの歩廊側の壁にある拳が通るくらいの七つの小穴と出入り口からだけだ。部屋は四囲天井に到るまで漆喰を塗りこめてあるので、取り入れる光は僅かでも昼の間はいつも明るい。
「お前は告発されると噂されていたのだ。すでに捕縛されたとか、その場で手を切り落とされたとか、まあ、あれこれだ。ハシース・シン様といっしょに戻ってきたから追われているのではないと分かって、今はいささか遠巻きに見守るというところさ」
目の前で俺の仕出かしたことを見ていれば当然そうなるだろう。だが、俺が武器を使って暴れたことをハムリたちがこうも早く知ったのは合点がいかない。兵の大半は何が起こったのか気づかなかったはずなのに、噂の方は洪水のように瞬く間に町の人の耳に流れ込んだのだろうか。
床を擦るような足取りで覚師が部屋に戻ってきた。袖と裾に紺と金の縫い取りの入った白い長衣に着替えている。
「ナディン、残念だがスイカはもう残っていなかった。代わりにこの菓子だ、旨いぞ。なにしろ捧げ物だからな。わしのように姿を消せる者だけが盗んでこられる」
覚師が俺たちの前に置いた銀の平皿には三種類の焼き菓子が盛られている。神殿への捧げ物を掠め取ることくらい覚師ならやってのけるかもしれない。覚師こそいくつもの噂に包まれ真の姿が見えないお人だ。ハシース・シンが王宮の奥まで出入りできるのは王族に連なる家系ゆえだとか、七賢人すべての資質を体現した比類なき才が異国にまで知れ渡っているとも云われている。一方、俺たちの前で干魚を咥えて逃げる猫の真似を下帯一つになってして見せたこともある。その後、黒い頭の人間以外のものになりきってみよと俺たちに命じたのだ。皆は蛇、驢馬、兎、ハゲタカなどになってみせようたした。一目でわ
かる動きをつくった達者な奴もいれば、演じたというものを明かされても、結びつく型が見当たらない者も何人かいた。自分の織りなす動きがどのように見えているのかを他人の目になって眺めるのは難しい。俺が試みたのは葦筆だった。両脚を揃え身を少し傾けて尖った動きをつくる。初めの一筆から全身が軋むほど辛かったので、俺は皆にわかってもらえるのを諦めたままわが身で文字をなぞった。
「ナブ神は偉大なり」とすぐに言い当てた者が二人いたのには、俺のほうが「わかったのか」と問い直してしまった。後になって、仲間の文字を刻む筆の動きだけを見てみたが、書かれる文字を見極めるのはほとんど無理なのがわかった。だから、俺の体の動きそのものから文字が読み取れたのではなく、書こうと焦る俺の烈しい気が音のない声の波となって周りに伝わったように思えた。
ナディンは炎を選んだ。生き物以外のものになろうとしたのは俺たち二人だけだったのだ。ナディンが半身を折りたたむようにしてしゃがみ込んだ時、仲間の大半はナディンが「俺は何もできない」と文字通り膝を屈したのだと考えた。俺もそのように感じた。ナディンは片目を開けた。目の色は熾火のように赤かった。いや、熾火そのものだったのだ。
やがて熾火は風を受け、次第に熱を帯び勢いを増して強く立ち上がった。炎は揺らめき踊り、怒りとも歓びともつかぬ業火となって、不意に消えた。ナディンの裡には、きっとあいつ自身にも掴まえきれない火種があるのだ。ひとときの憑かれたような日から数日ナディンは部屋から出てこなかった。 -
11
キッギアの井戸からほぼ八千歩を歩き、俺と覚師は夜明けの開門を待っていた人々についてボルシッパ城内に入り教場へ向かった。父との旅では、いくつもの王朝が基石を積み上げては破壊されることを繰り返してきた城市から砂防壁程度の日干し煉瓦で囲われた小都市まで出入りしてきたが、このように早朝に入って行くことは一度もなかった。野営にせよ知り合いの住居にせよ、父の商隊は必ず城市に程近い場所で一夜を過ごしてから、朝の曙光の影が半分になる頃に市内に入ったからだ。
空堀にかかる短い橋を過ぎると弓兵と盾持ちの兵舎の近くを通るので気後れしたが、覚師の背を見れば苦笑しているのがわかる。今さら何を物怖じすることがあろうかということだろう。警邏兵たちの様子はいつもと変わらずどこかのんびりしたものだ。前日の訓練でこの兵舎から死傷者はでなかったのだろうか。
早くも荷が動き始めていて、南の城門に近い扇形広場にはすでに日除け布を張る柱が何本も立てられていた。どこの都市の市でも朝が早いのは魚を扱う連中だ。俺はもちろん出された料理は何でも食うが、魚は無理をして口に入れる気分が抜けきれない。物心ついて以来、人にも動物にも怯えることがなかったという俺が、一つだけ目を見開いたまま震えたのは魚の被り物を付けた祈祷師を見たときだったそうだ。それは魚の匂いを好きになれないから自分で理由をつけているだけかもしれない。
根を張って一歩も踏み出そうとしない驢馬に浴びせられる怒声もいつもながらだ。驢馬の目というのは本当に驢馬のものなのだろうか。背に食入る荷駄の重み鞭の痛みに絶え間ない罵声。少なくとも驢馬の目と体はつながってはいないのだろう。その目は水の面に見えることもあるが、水は表情豊かだ。もちろん、人のこころだって目からは読み取れないのだ。アシュの目、驢馬の目、魚の目。
城内の住まいから通ってくる者を除いて、学び舎で覚師の教えを受ける者の大半は教場と棟続きの建物で寝起きしている。俺はできるだけ文書倉を利用したいのでふだんはニサバの丘にいるが、教場にも寝場所をもらっていた。
頭が醗酵の始まった麦酒のように泡だっていて、眠るのは無理だろうと思っていたが、目を閉じるや寝入ってしまい、起きだしてみると陽は中天だった。水場で顔と首を洗うと、まだ香油が匂った。
騾馬繋ぎの杭の端に腰を下ろしていた男は俺が水場に出てきた時は二人だったが、今また二人増えている。その中の二人が不穏な体の揺すり方で近づいてきて顎をしゃくった。
「お騒がせの直後に朝帰り昼までお休みとは、さすがにやることが外れているな。俺たちは朝から大汗かいて火花で目を焼かれてようやく昼にありつくところだ。お前さんは俺のことを覚えちゃいないだろうが俺は知っている」
俺も覚えているが言わずにいた。グラより六つ年上の兄ハムリだ。グラたちの父エピヌーの鍛冶場のつくる農具の評判は高く他の都からの求めも多いときく。西門の近くにあるエピヌーの店は、鎌を使う農夫から大量買付けの商人までが集まっていつも活気に満ちている。鍛冶場は城壁から遠く離れていて、店では簡単な修理と研ぎを扱うだけだから、グラの兄が汗して鉄を叩いてきたというのは本当ではない。
「お騒がせの書記生さんにお頼みがあってまかり越したわけだ」
俺は黙ってグラの兄と後ろに控えている二人の男を見た。
「あんたの武器をちょっくら貸してもらいたくてね」
「いきなり何の話をしている。俺を知っているというが、貴様はどこから来たのだ」
「俺はエピヌーの鍛冶場の者さ。お前の食い物の面倒をみているラズリの一族だ」
「ニサバの丘と鍛冶場は関係ないと聞いているが」
「まあいい。武器の話だ。わが国は火急のとき、それなのに強欲なアッシリア兵どもの腹を断ち割る武器がまったく足らんときている」
「言いたいことがまったくわからないが、エピヌーの鍛冶場では武器の類をいっさい作ってはいないはずだ」
「これまではな。このご時勢、優秀な鍛冶場は強靭な鋼を鍛えねばならんのだ。そこでお前の使った武器だ。よこせと言っているわけじゃない。鋼の質と鍛え方を調べたいのだ。国を守るためだぞ」
後ろにいる二人の男の動きが気になった。明らかに表の人の出入りを見張っている。多くの住居が重なり建つ城壁内とはいえ、もともと往来の少ない一帯だ。
「どんな噂を聞いたか知らないが、お前の名付けた通り俺は見習い書記生に過ぎん」
「軍神気取りで転げまわった書記見習いの武勇伝を知らぬ者はおらん」
無頼の口調だが凄むほどの度胸も体術もないことが見て取れた。今までそんなふうに人を値踏みすることはなかった。あの瞬間を味わったためだろう、真の危険ではないという自信があった。しかし相手を無傷で追い払うのは俺の力では難しい。騒ぎを大きくしたくなかった。二人が左右から回りこもうとし、通りから更に二人が足早に寄ってくる。正面のハムリが足を踏み出した時、上から灰色の塊が降ってきて双方の間で砕け撥ねた。落ちてきたのはスイカだった。
「申しわけない」間のびした声は学び舎の仲間ナディンだ。
一瞬たじろいだハムリたちだったが、スイカの欠片を蹴り除けて囲みの輪を縮めた。
「何度も悪いね。今そちらに人をやりますからね」更に三個の石榴を降らせた主が大声で叫んだ。ナディンの太った体を抱きしめたくなった。つい愉快そうに笑ったのだろう、ハムリは逆上している。
「外に人が倒れているぞ」今度はハシース・シンの声だった。覚師の前を歩かされている男は顔を引きつらせ声も出ないようだ。関節をはずされたのだろう、ハムリの胸元へ突き放された男の腕は捩れたままだ。捨てぜりふも舌打ちもなくハムリたちはよろめき出ていった。無様に退散する姿を見られたことでハムリはますます俺を憎むだろう。
「見事な撃退ぶりだったぞ、ナディン。万一ボルシッパの城壁が包囲されることがあったらお主を守備隊長に推挙してもよいな」
俺と同じで鬚のあまり濃くないナディンの上気した顔に向けて覚師がいち早く声をかけた。
「本当にお前のおかげで助かったよ」
「難しいな、スイカを投げるのは。ディリムに当たらなくてよかった」いつもの気弱な声だがナディンの顔は満足げだ。 -
10
「柔らかさは強さを補うだけで、代わりになるわけではない。いずれにしても私に判断できることじゃない。ディリムはどうして二輪戦車に乗りたくなったのだ」
「どうしてか。アシュに手ほどきしているキッギア殿が目に浮んだ」
「私は言われた言葉をそのまま聞く」
「俺もアシュには考えたことをそのまま言っている。続きを言えば、戦場で御している自分の姿も見えたな」
「戦場ね。だいたいお前は勝手に時間を使えるのか」
「自由気ままではないが、覚師の学び舎では粘土板の家の学び手たちのように机を並べて毎日教えを乞うわけではないからな」
朔と望の月をはさむ三日間は俺たち全員が必ず覚師のもとに集まることになっている。
その間は食事も共にし、文字だけでなく数式や星の動きも学ぶのだ。異国の学者や大使が招聘されてくることもあるが、覚師が書記塾の初心者相手のように、一本の楔から説き始めることもある。
こんなことがあった。六本の楔を引くだけの星という簡単な文字を十個刻むように言ったあと、覚師はその場の全員で星の語を唱えさせた。ナプ、ナプと俺たちはいささか苦笑を堪えながら唱和した。そのあと三十個の文字を使い、星の語を入れて文をつくらせ、順に一人ひとり読み上げさせた。その時、俺たちは三十四人だった。十回りした後、次には一人で全員の文を暗誦させる。言葉に詰まると書いた者が助けることを繰り返し、誤りがなくなってから全員が唱和し、最後に粘土板に刻ませられる。さらに六十個の文字を使って同じ試みが続いた。三十個では十六人だったのが、この時一語も躓かずに一度で暗唱しえたのは俺と一人の異国人だけだった。上の海で難破した船に乗っていた男だが、アッカドの言葉にふれてから一年足らずというから驚く。 「撒き餌だ」と言いながらアシュがまた盃の酒を炎に垂らした。香も飛ばず炎の色も変わらなかった。
「アシュは弓も引くのか」
「自己流だよ。的が小さいトガリネズミを狙うのだ。訓練には鳥がいいのだろうが、空を行くものを射る気にならない。ああ、撒き餌はいらなかったな」
覚師とキッギアの二人が壁を抜けてきたようにいきなり姿を見せた。通り雨だったのか、身体が濡れているようではない。それとも先の住民は穴掘りに長じていて、見張塔からここまで潜ってこられるのだろうか。
「しっかりと一番旨い酒を抱えているな。わしの死出に際してはこの酒精を額に一こすりしてもらいたものだ。土鬼や汚鬼どもに邪魔されずに眠りにつけるだろうからな」と言い、覚師は腰をおろした。二人とも飲み続けていたようには見えなかった。
盃を二つ持って戻ってきたアシュに俺は目配せした。二人は遠い音に耳を傾けるように盃に唇を浸した。キッギアは当然だが、隣り合う覚師まで巌のような神聖樹のような獅子 のような武人の気配をもっているのに俺は気づいた。語られる言葉と声をいつも追っていた俺はハシース・シンに文字の師という衣を勝手に着せていたのかもしれない。最も勲を誇れる者が最も豊かに哀歌を詠うのだと覚師が言った時、俺は何も理解せずに頷いていたのだ。
「父上、ディリムが二輪戦車を御してみたいと申しております」
娘ではなく、副官のように恭しく頭を垂れてアシュが言った。
キッギアは先ほどアシュが俺にしたように盃越しにアシュを見つめた。睨むのではないが、ずいぶん長い間、父は娘から目を離さず、娘もまた静かに顔をさらしていた。やがて無言のままキッギアは覚師を見やった。
「こやつをメディアのサームの傍らに立つ者となせるのはあなたしかおらぬ」と言った覚師の声は穏やかだった。「ディリムはこれまで通り、月の学びは欠かさずに来なければならない。筆を持つことが叶わなくとも、掌に結び付けてでも刻み続けるのだ。なまくら文字を彫るようなことあれば、二度と手綱と筆を握ることは許さぬ」と、俺に厳しい言葉を投げた声も穏やかだった。
「アシュ、お前が持てるものをすべてディリムに伝えてみよ。拙い者についた弟子は接木をしくじった果樹に等しい。取り次いだお前が自ら育て私に差し出すのだ。九十日、待とう」
キッギアは俺を見つめながらアシュに命じ、目を移してハシース・シンに向けて鼻の前に盃を上げた。覚師は同じように盃礼し、いつも歩きながら俺に伝えているように言った。
「丘の上の文書倉の二階、奥から四列目の棚にミタンニ王国の粘土板が置いてある。戦車用の馬の調教書だ。本来なら自分で読みたどるべきだが、脇に積んである私の覚書を使うとよい。お主と私は明後日から一昼夜エジダ神殿に入る。その四日後が望の月の集まりだな。十日後からアシュにつくがよい」
「ディリム、百日後に会おう。お前が眠っている間、私はハシース・シンにディリムがどんな男か訊いてみたのだ。軍紀を乱しながら、同盟国将軍の心を掴む。それは本来、王にのみなしうることだからな。ハシース・シンの言によれば、お前は使者だそうだ。それは答でもなんでもなく、謎かけのようでもある。使者たるお前は何かを携えてくるのか、あるいはお前が来ること、それがすでに何かをもたらしているのか」
俺が使者。使者は時には良き便りを時には混乱の先触れを運ぶ者だ。俺は何と応えてよいかわからず、「百日後に」とだけ言った。俺を取り次いだ後、一言も発していないアシュを見やると、俺に戦車の手ほどきをすることになって驚いている様子はない。生まれでようとするのか、消えようとしているのか、どちらともつかないが微笑の影が炎といっしょに揺れている。
発せられた言葉と飲み込まれた言葉、俺が選んだ脚の運び。すべてがあらかじめ刻まれている言葉をなぞらえるように俺を引いて行く。俺の肉に入ろうとしていた矛の切っ先。サームの雷撃のような鞭。瞬きひとつの間に俺は冥府と現世を往来し、お互いボルシッパの地にありながら一度も会うことがなかった父娘の前に俺はいる。そこここに走る水路で水にありつくことなく、キッギアの井戸に俺を導いたのは何だったのだろう。
耳の奥で俺の鼓動が聞こえる。その音に身をゆだねていると、三人の鼓動もまた感じられるようだった。今、誰もが無言なのだなと、俺は改めて思った。四角い火床で俺たち四人は空に嵌め込まれた四つの星のように星座をかたちづくっているのだ。 -
9
「アシュは夢の力を信じているのか」
「信じてはいない。恐ろしいだけだ。青い目の女が父の許にいたのは二日だけだ。父を見たその目で、その青い目で早くもウルクの取り巻きを見ていた。父の脚と顔の大きな傷跡に触れることもなく、二十一人の従者護衛とともに、さっさとウルクへ引き返してしまった。引き返すだけならよい。ウルクとボルシッパの遠い距離があの女を大胆にした。あの女の取り巻きは実に大勢だ。賛美者たちは奴隷と同じだ。違うな、奴隷は命令されたことだけを為すが、若い阿呆どもはお先走りばかりだ。青い目の女は口に出して頼んだわけではない。思いを隠さなかっただけだ。死と対峙したことのない者らがいかに死を弄ぼうと、泥の玉を投げるようなもの。片脚の男一人など、手もなく消してしまえると勝手に思い込む。安物の刺客どもは領地に入り込む前に指笛ひとつで潰された。遠からずそうした輩がうろつくのを知っていたとはいえ、父自らが弓を引くまでもないことだった」
武人の妻が戦傷の夫を疎ましく思い、それを面に出す。青い目がしんと鎮まる。これらのことどもをアシュはどのようにして知ったのか。父キッギアからであろうはずはない。欠けた書板をつなぎ合わせるように、剥がれ落ち隠され歪められた出来事の数々から思い描いたことなのだろうか。自分の言葉に急き立てられ憎しみを募らせているけれど、アシュは自分で狭い檻に入り込み、檻の狭さに自分を歪めているのだと俺は思った。
夢の中、青い空の下で俺には微塵も不安がなかった。熱を抑え、怖れを鎮め、疵を浄めたアシュの尖った胸。泥水から俺を引き上げたアシュの青い目。だから青い目の女を象る言葉の連なりは、アシュの口を借りて別人が語り出したのだと思いたかった。ぶつかり合う四つの青い目が空洞のように窪んで俺の足を掬い、俺はただもがくばかりだ。俺は救い手たちによって時を預けられた。
何も持たない俺は預けられた時を捧げることでしか礼を返せないのだろう。
アシュの身体は機敏に無駄なく動き、言葉は険しくても声は透き通って淀みがない。しかし女偉丈夫の雄々しい見かけの下に脆い土の貯水池があって、自ら生んだ言葉が沈殿して積もり積もってゆき、やがて決壊する。そんなことがあってはならない、させてはならない。本当のことであれ物狂いの果てであれ、内でも外でも一度生まれた言葉は消えない。呪は人を蝕むものだ。呪師たちの面貌はどいつも仮面が剥がれなくなったと見紛うほど尋常ではない。
俺は籠を引き寄せ、短い乾し葡萄の枝をさらに二つに折って火にくべた。火の勢いは変わらなかった。
「馬には乗れるか」アシュが酒の筒を抱えゆっくりと空の盃を満たしながら言った。
「馬にも駱駝にも乗るぞ。父の隊商に連れていかれたから長い距離も厭わない。軍馬はだめだ。俺はただまっすぐ進むだけだ」俺は新たな話に飛びつくように答えた。
「戦車も扱ったことはないのだな」
「そうか。アシュはあれを操れるのか。父上直伝ということだな」
「義足では踏ん張れないから戦場では役立たずだと自分では言うが、父の手綱捌きは今でも並ぶ者がいないだろう。しかし騎射となると、どうしても狂いが出るようだ」
細かな彫を入れたメディアの将軍の箙が不意に目に浮んだ。走り去る戦車の上でサームは小揺るぎもせずに立っていた。
「二頭立ての戦車を御するのは非力な腕ではまったく無理なのか」
敏感な馬のようにアシュが耳を立てた。
「腕力で御するわけではない」
火床の縁から剣を取り出すと焚火越しに俺に手渡し「鞘をはらって肩の高さでまっすぐ構えてみろ。坐ったままでいい。私に横顔を見せるように。いいと言うまで降ろすなよ」とアシュは言った。
「目の前に敵がいるつもりでやるのか」
「できもしないことを言うな。構えていればよい。話を続けたければそうしろ」
訓練というほどのことではないが、父と剣を打ち合ったことがある。十歳になる前だったろう。戦闘用の段平ではなく短刀に近いものだったが、両手で扱うのがやっとだった。腕力ではないと言いながら、アシュは俺の腕力を試しているのだろうか。かなりの時が経ったように感じられた。
「イシュタールのような女戦士になりたいのか、アシュは」構えを崩さず、前を見据えたまま俺は訊いた。
「女戦士が望ではない。イシュタールは男のように強い女神だ。私がなりたいのは男だ。それをよく覚えておいてくれ。お前のような華奢な体を見ると土人形のようにこね直したくなる。初めに見た時は宦官ではないかと思ったからな。鬚もないし」
静かな声音であしらうような口調、それがアシュだ。
「俺の父も鬚は濃くない」
「王子も確かディリムと同じくらいの歳で鬚がない。逞しさは岩と砂ほども違うな。ところで、お前はたぶん勘違いしている。私は母のせいで女が嫌なわけではない」
避けようもなく青い目の母のことに話が戻ってしまうと思ったとたん、アシュが命じた。
「ゆっくりと剣を下ろせ。そして直ぐに元の高さへ、それを三度繰り返せ」
俺は新兵のごとく意図のわからぬまま腕を動かした。
「終わりだ」という声に俺は向き直り、刃を鞘に入れてアシュに返した。
「お前はどう見ても非力な体つきだが、きっとけた違いに筋が柔らかいのだろうな。力のない者がこれを長く持ち上げていようとすると必ず肩に力が入りすぎて早々としこってしまうものなのだ。私には見極められないがディリムのちぐはぐなところに非凡なものが潜んでいるのかもしれない」
「それではアシュ、お父上に頼んでもらえるか。俺にも戦車の御し方を教えてくださるように」
アシュのこの微笑みはどこから生まれたのだろう。染み入る清々しさはここの井戸の水のようだと俺は思った。口許でも頬でも青い目からでもなく、全身からとでもいうべきか。目を落として炎を見つめるアシュの額に残光のように微笑が射している。 -
8
走り降りてくる黒雲が稲光に縁取られ、たちまちもとの闇に戻った。吹く風は水と土の匂いがして、長衣が重く感じられる。
「降ってくるな。この先にある穴蔵でやり過ごそう」
土地勘があるとはいえ、アシュの足取りは闇の中でもためらいがなかった。俺はアシュの背で揺れる髪の音が聞き取れるくらいの近さでついていった。
「父上と覚師が酒宴をしている見張塔だが雨の時はどうするのだ」
「いつもはきっちりと覆われている。酒宴のために開いたのさ」
「それはいい。屋根が動くのか、蓋を取るみたいに」
「あれをつくりあげた者の骨はもうとうに土埃になっているけれど、直に教えを乞いたかったな。事あれば籠城もできるだろう。攻城槌も跳ね返せるにちがいないが、頑丈なだけではない。書板もたくさん残っているぞ。父も私も字は読めないが、ハシース・シン様は何度も長い時間を過ごしていた。読むというのは、それほど面白いことなのか」
「覚師のように食うことを忘れてしまうことはないな。俺の力が足りないせいだろう」
「ここで飛び降りるからな。背丈より少し高いだけだ」とアシュは言い、そのまま真下に身を落とした。
一呼吸おいて覗くと、アシュの姿が見えなかった。やわらかな着地の音を耳にしたばかりだ。目を凝らすと、香油が匂うような気がした。すっかり星明かりがなくなっているので、夜の川に飛び込むような心地だった。俺の足が地につく前に、白い光が真横に走り、斜面を一瞬照らし出した。一面の葡萄樹が人の群れのように見えた。いや、本当に葡萄樹だろうか。
間をおかずに、目の前で夜の獣の重い目蓋が開いたように、あたりが濁った赤い光に浸された。一本一本の葡萄樹が透き通った人の殻をまとい付かせている。目蓋がゆっくりと閉じられたように闇が戻り、すぐに風にのって雨が落ち出した。俺は次に現れるものを見逃すまいと闇を見つめた。
「入れ」と首の後ろでアシュが言った。「そのまま横に四歩移動して屈むと入り口がある」
言われた通りに動くと、土手に小さな穴が穿たれているのがわかった。穴の前にしゃがんで、しばらくの間待ってみたが雨音が強まっていくだけで二度と風景が開くことはなかった。目の中に残った像が俺の気持をざわめかせている。
火打石が鳴り、木の燻る匂いがした。炎が立ち上がると、少し雨の音が遠ざかるようだった。俺は火の前に坐った。着衣は思いのほか濡れていて、湯気が感じられた。
「ここも見張塔と同じか」
「執拗な敵にいつも囲まれていたのだろうな。先の住民はボルシッパと違ってこの地を守ることに工夫を凝らしている。ここは段丘の真ん中あたりで見晴らしがよく街道まで見渡せる場所だ。この奥には烽火台がつくってある。葡萄の酒瓶とオリーブ油もあるぞ。もちろん、われわれが運び込んだものだ。ディリムはやはり水にしておくか」
「やはりということもないが、水を貰うよ」
中壁の奥に貯蔵場所があるのか、アシュが火の場所を離れたので、俺は立ち上がり拳ほどの壁穴から外を覗いてみた。目に入るものはなにもなく、煙る水の勢いが目を洗うだけだった。
編み籠に盛られた干し葡萄と山羊をかたどった素焼きの水差しを火床の端に置き、次にアシュは雪花石膏でつくられた筒を抱えて戻ってきた。俺たちの肘丈くらいで、先端に吠える獅子の彫り物が付いている。杯に注がれた液体は黄金色で、これまで嗅いだことのない芳香がひろがった。
「私は少しこれを飲む。ハシース・シン様によれば酒神の言伝のごとき味だそうだ」
「香を飲むだけでも言伝がわかるな」
「神官みたいに気味の悪い言い方をするな。そもそも書記と神官は似た物同士か」
「どちらも文字を読むのはいっしょだが、神官が何をするのか俺は知らない。俺は文字を学び、ナブ神に遣える者だが書記ではないぞ。なるつもりもない」
「書板の土になった言葉はいわば水のなくなった言葉ではないか。水のないものは死んだものだ」
「刻された言葉は死んだ言葉ではない。眠っているだけだ。必ず目覚める時がくる。読むことがそのまま刻された文字の目覚めにつながっているわけではないが」
アシュは鼻の前に上げた杯越しに俺を見つめた。そよとも動かない眼差しは水鏡と同じだ。アシュの顔に俺の顔が映りこんでいくように思えた。俺は目をはずさないよう努めながら、手にしている乾し葡萄を枝ごと火にくべた。
「ディリム、さっき見張塔で、もっと顔をよく見せてくれと言ったのはどういうわけなのだ」裁き手のような目をしたアシュが小声で言った。
「この炎で今よく見たよ」
「何がわかった」
「聞きたくないのだろう、聞かせたくないのは聞きたくないのと同じだ」
「小理屈を言うな。お前は女のような体で神の戦士のようにふるまい、まっすぐな目をして女々しい口をきく」
杯の縁を噛むようにしてアシュは少しだけ飲むと、残りを火に零した。炎の色が変わりアシュの顔が遠ざかった。
「夢の中で俺は清々しい青に包まれていた。空の青みだと思っていたが、俺の背にあった者の瞳を俺は感じていたわけだ」
「私の眸は母と同じ色だ」アシュは放り投げるように言った。
「アシュの顔が父上と異なっているのは眸の色だけなのだな」
我にもなく、瀬踏みする口調になった。
「父はよく魘される」とアシュが顔を俯けて囁いた。
「殿軍で戦ったのだから、それは惨い有様だったろうな」
「戦の夢ではない。ここからウルクに戻る前、母は夢の種を落としていった」
キッギアの魘される声を聞き、苦しげな顔を目にしたからといって、アシュが父の夢に忍びこめるわけではない。それに夢の指差す先に探し物が見つかることはなく、川にはまる夢を見たからといって、水辺に危険が潜むとはいえないのだ。 -
7
「それだけでは終わらなかったのだ」とアシュが溜息をつくように言った。「腐兵というのを知っているか」
「いや、初めて聞く」
「黄泉の扉の軍兵みたいな奴らだ。薬草でも使っているのだろう、痛みをまったく感じていなかったらしい。腕を落とされても表情も変えず向かってきたそうだ。すべての敵を倒し終えた王の軍はまとい付く蝿を払う気力さえ萎えていた。死者と一緒だと見られていたのか、間近で禿鷲どもが構わず大饗宴をはじめていたくらいだ。だから、そいつら三人が跳びかかってきた時、誰も気付かなかった。身を挺したのはこの時もムシュとギルの二頭。おかげで王は左腕の怪我で済んだ。父はそいつの右手首に切りつけたが、刃こぼれと血ぬめりで斬り落とせなかった。骨が砕けて剣が垂れ下がるのを見た父が王を振り返ると、二人の戦士が王を庇い、一人が傷口を縛っていた。
キッギア、私の剣を使え、という王の声に従って剣を手にし、立ち上がりかけた父に、左手に剣を持ち替えた腐兵が襲いかかった。大きく薙いだ王の剣は腐兵の首を飛ばしていたが、首のない腐兵の剣が父の左足に突き立てられていた。右手首もろとも自分で引きちぎったのだろう、剣の柄には二つの手首があったそうだ。ムシュとギルに阻まれたほかの二人は、自分の剣が馬の腹から抜けなくなったところを切られた。それでも吹きだす血がなくなるまで、折れかかった枝が風に弄られているように体を捩じらせて戦おうとし続けたという。そいつらに敵味方の区別はつかないのだろう。だからこそ、自軍が全滅してから湧き出てきた。近くに操った奴がいるはずだった。探索はもちろん無理で、アッシリア軍は八百十七の屍を鳥獣に喰らわせることになったが、腐兵の秘術を知る奴が少なくとも一人生き延びたということだ」
「手首や指を切り落としてみせる見世物があると聞いたが、そんな目眩ましとは違うわけだな。腐兵という呼び名があるのは、前にも現れていたということか」
「これまで遭遇した兵団もいないし文書の記録もない。アッシリア軍でも初めてだったらしい。知っていたのはハシース・シン様の学び舎の者だぞ。異国人がいるだろう。その者の国の言葉で腐れた兵というらしい。どこを斬られても動じないで、まるで死体が立ち上がるような連中が戦場に現れたことがあったそうだ」
異国人は学び舎に二人いる。一人は俺たちとはまったく違う顔つきで、眸が隠れるほど瞼が厚いせいで表情が見えない。もう一人は俺たちの頭蓋骨の二倍はありそうな鉢を持った男で数式の扱いが群を抜いていた。そいつはもうバビロンの神殿建設に登用されているはずだ。
「腐兵遣いはアッシリア人ではないかもしれない」と俺は言った。「流れ者の妖術師のような奴で、請負が成り立ってから腐兵を仕立てる」
「四年経っているけれど、いつかまた襲ってくると父は言っている」
「俺もそう思う。腐兵遣いは何年かけても契約を果たそうとするに違いない」
地平の彼方が光をおびて震えた。遠い稲妻に誘われたように風が吹き香油の匂いがした。体の痛みは痛みにばかり気持が傾いて体のことを忘れる。香りは体そのものを感じさせるものだなと俺は思った。それゆえにこそ、ひと時体にまとう香のために人は重い銀を購う。憤怒と悲しみが綯い交ぜになったアシュからも香りが立ち上る。しかしアシュはいま土埃と血の臭いだけを感じているだろう。
「麝香草の匂いがしたそうだ。ずいぶん後になって父が思い出したように言ったよ。腐兵にはそぐわないけれど、あたりに充ちていた生臭い戦場の臭いより強く麝香草が匂っていたらしい。皮肉なことに、思い出させたのは母だ。ウルクから母がバビロンにやってきたのは戦闘から百九十三日目のことだった。父が母の姿を見とめる前に、母のまとっていた香が先に届いて腐兵のことを呼び戻してしまった。母もまた足を失った父の姿を初めて目にした。先に帰還した父の兵団の戦士たちはナボポラッサル王から授かった栄誉のことだけを伝えていたようだ。戦の勲を聞くのが大好きな私にはそれでよいが、母は名誉好きの気位の高い女にすぎない。その日の戦で、わが軍は二百七十一名を喪い、ほとんどの馬が戦死した。生還したのは六十九名、父は左足を落とすことになり、王の左腕も以来、肩までしか上げられない。それがどのようなことだったのか、あの人には思い描くことができない。威風あたりを払う凱旋将軍の傍らに立っていたいだけだ」
自分の母への仮借ない言葉がつのっていきそうなので、俺は話を移した。
「ボルシッパの兵は頼りないと言われるのだから、襲撃隊を殲滅させるほど勇猛だった王の一行にボルシッパの守備隊は同行していなかったわけだな」
「援軍も間に合わなかった。というより、異変に気づきようがないのだ。物見という構えがないのだからな。ボルシッパは迅速には動けないし、動かないのをアッシリアは見越していたに決まっている。ボルシッパはあまりにもバビロンに近すぎるというのが父の見方だ。危うくなれば助けが来ると踏んでいて、その計算が染み付いている。数十年前に城壁を囲まれ、餓えに餓えて屈辱を味わったのに。いつまでも兎のように臆病で、兎のように殺戮を呆然と待ちうけ、兎のようにひたすら子作りに励む」
「キッギア殿の娘とすれば当然とはいえ、なかなか手厳しいな。その日のことでボルシッパは王から断罪を受けなかったのか」
「王が怒りをしめしたのはボルシッパの習い性となっている惰弱さにではない。王は言うそうだからな。初陣で失禁する兵士を嗤ってはならない。怖れぬ者など一人としてなく、恥じることではない。しかし二度目は許すな、そいつはただの臆病者だ。王は元々、戦傷兵や寡婦、遺児たちに手厚い。この襲撃戦に斃れた兵、奮戦し凌ぎ生き残った兵たちにもそうだった。父もこの一帯の農園を賜った。恩賞の手配をしている中で、ボルシッパの寡婦と遺児への給付品を差配する役人の不正がみつかった。王は役人と妻の首を刎ね、四人の子どもは悉く奴隷に落とし、住まいは破却させた。ボルシッパの不名誉はこの男を飼っていたことだと言われて、王自ら剣を揮ったそうだ。王が処刑人になるなどあり得ないことだ」
「さもしい目、汚れた手の役人が処罰されるのは納得できる。しかし敵を察知できない守備隊長たちへの咎めがないと、ますます軍紀が緩むのではないのかな」
「城市も人と同じだ。得意、不得意があろう。戦に向かない市もある」
「餓えた狼の鼻息がそこかしこから聞こえているこの時、得意不得意を言っていられるはずもないだろうに。俺には軍のことはよくわからない。猪に不甲斐なく蹴散らされるまで、ボルシッパ軍は見事に動いていると感心して訓練を眺めていたからな。臆病ということでは、猪の腹の横で肝が抜けていた時の俺など、きっと兎なみの目をしていたさ」 -
6
腰を屈めねばならないほど低い穴を潜り抜けると、夜気が身を浸した。井戸の底から星を見ている心地がしていたのは、俺たちが見張塔の中にいたからだった。振り仰ぐと塔の天辺の縁が夜空に触れている。
水をもらった井戸まで塔から五十歩ほどだった。井戸の傍らの木よりもはるかに高い塔が俺の眼に入っていなかったことになる。木の下に入ると密に茂った葉で見える星は十に満たない。
「俺は野から一番近い水路を目指しているつもりだったのに、いつの間にか、この木に呼ばれていた。覚師の言われた通り、俺は正しい道を選んだわけだ。ここはどの辺りになるのかな」
「調練のあったリスムの野からここに辿りつくには馬でも1ベールー(2時間)近くかかる。ディリムが現れた時、日はまだ中天だったから、お前は鬼神にでも駆り立てられていたのだろうな」
アシュは釣瓶を手繰り、零れるほどの水を満たした椀をよこした。おれは一息に飲み干し、「酒より旨いと思う、たぶん」と言った。 アシュは桶の水を少しだけ掌に受け顔をひと拭いした。
「ハシース・シン様と父が話していたが、ディリムは多くの神に愛されているとメディアの将軍が告げたそうだな」
「覚師の耳目はいったいどこに付いているのだろう。何もかも見えている」
「大げさなことを言うな。お前をしっかり見守っているだけだろう。なにしろ秤の扱いを心得ぬ奴だからな」
「見守り、手を差し伸べてくれる人たちに俺はいつでも恵まれている。メディアの将軍もアシュと父上もそうだ。皆、神々が遣わしてくださった人たちだと思える。言い訳になってしまうが、俺が自分を抑えられなかったのは猪のためだ。俺がまだ幼い頃、すぐ近くに住んでいた若者が猪に腹を突かれたことがあった。誰が見ても助かる傷ではなかった。腸が裂かれていたから叫び声で壁も空も揺れるようだった。家族の者が楽にしてやるべきだったが、誰も手をくださなかった。俺の父がいたらためらわなかっただろう。夕刻から夜明けまで命は消え残って、一帯の生き物は眠れぬ夜を明かした。リスムの野で血塗れた猪の牙を見た時、俺のすべてが煮えたぎってしまった。戦ともなれば、両軍幾千幾万の者が同じ苦しみを舐めるだろう。それが間もないことがわかっているのに、俺は今この時だけになってしまった」
かすかに歌声が聞こえてくる。遠い空からのように思えたのは見張塔の内壁を立ちのぼってくるからだろう。意味は聞き取りにくい。
「歩こう」とアシュが言って木の下から出た。アシュと俺は同じ香油の匂いがする。ゆっくりと流れる大きな雲の塊が星々を隠すなか木星マルドゥクの輝きがひときわ目を引いた。塔からの声が途切れ途切れについて来ていたが、やがて聞こえなくなった。
その丘は葡萄畑だった。夜目にも手入れの行き届いているのが見て取れた。葡萄樹は夜も眠らないと俺に語ったのは誰だったか。葡萄の実は眠ったまま膨らんでいくが、葉も枝も眠ることなく伸びた身の丈を確かめつつ日に日を積んでいくと聞いたことがある。火にくべられた葡萄の枝の燻る匂いがしていた。覚師も新月の夜会では焚火に葡萄樹を使うが、その話ははるかに遠い記憶だ。
「ウルクの戦車隊の副官だった父はこの先の街道で殿軍として戦った」
アシュが指差した先も黒々と畑が連なっているようだ。
「ナボポラッサル王も左腕の腱を切られるほどの敗戦の時だ。会戦の規模ではない。密かにナボポラッサル王の首級を狙うアッシリアは一気に片をつける構えの襲撃で小部隊の精鋭だった。それでも王の兵士の二倍を超える軍勢だったという。バビロンまで半日足らずのこの場所だ、長い旅程を経た王の一行にも気の緩みはあったのだろうな。囲みを破るまでに三分の一を失った親衛隊と王は先ほどの井戸まで退いて水を飲んだ。一息入れた王は皮袋に水を詰めさせ動ける全軍、三両の戦車と七十の騎兵を率いて父の許に引き返した。脱出する王に迫る部隊を一兵残らず倒したのを見届けた父の中隊は馬を外した戦車四十台を半円に配して防御陣を敷いていた。戻ってきた王を見て父は歯噛みし血の気が引いたことだろう。生き残りの殿軍が水を摂る間、王は自分の戦車からも同じように馬を外させ円の隙間を埋めた。水を飲んだ後の父は辛うじて立っているだけだったそうだ。洞窟に吹き込む冬の嵐のような風音が自分の喘ぎとは気づかなかったと言っていた」
王の盾となる身がほんの短い間にせよ芯が抜けてしまったのだ。干しあがった喉で暴れる水の恐ろしさを知っていたからキッギアは俺に充分気をつかってくれた。渇きの只中にある者はすでに己を失っているので、水の魔を忘れて不用意に貪る。俺とて父との辛い旅を通して、水の扱いは体で教え込まれていたはずなのだ。
「その後、不思議が起こった。王の戦車を曳いていたのは、ムシュとギルという名の黒馬だったが、二頭は王と父たちの拠っているちっぽけな陣の外を駆け回りはじめた。そして急ごしらえの防御柵を乗り越えようとしているアッシリアの騎兵に体当たりした。二頭の嘶きが合図だったかのように、辺りに散っていた乗り手のいない馬たちが集まり来たって一軍をつくった。防御の円陣が鎌付き戦車の車輪のような攻撃に転じて、近づく騎兵たちを追い払いはじめる。その様に驚いたのは両軍とも同じだったが、ムシュの蹄にアッシリアの騎兵が蹴倒された時、すべてが反転した。勢いを得た王の騎兵が大回りしてアッシリア軍を包み込んだから、小さな壷の中で朱の染料を激しくかき混ぜているような混戦になった。終にはどちらの剣も矛も血糊で武器の体をなさなくなっていた。討たれた者たちは声もなく砂に塗れる。争いは十ゲシュ(40分)程続いて終わった。勝利などではなく、わずかばかり先に相手の方が一人も動かなくなったということだ」
滑るように奔る黒雲が星を覆い隠してゆく。息苦しさが増しているのはアシュの話のせいばかりではなかった。大気が熱い湿り気を帯びている。 -
5
バルナムタルの酒精の香が漂い、ハシース・シン様の声がする。覚師は上機嫌だ。相手の声はくぐもっているので杯を酌み交わしているのは胴真声のバルナムタルではなさそうだ。円く切り取られた夜空の中で数え切れない星が洗い桶の葡萄みたいにひしめいている。寝藁はたっぷりと俺を包んでいる。円い空だと。しつこく絡んでいた臭いも搾りかすのような疲れもなくなっていたので、俺は時と場所を取り違えていたのだ。
慌てて起き上がる前に覚師が言った。「お前はどうも帰るところを忘れるな。しかし着いた場所は正しい。ここの井戸の水は旨い、お前は水探しの勘もあるようだ」
すべてが一気に甦り押し寄せ、俺は頭を垂れた。
「すでに何もかもお聞き及びでしょう。面目ございません」
「たしかに愚かなことをした。余計なことであり、本来であれば咎めも小さくはなかったろう。ところが愚の極みがバビロニアに朗報をもたらしたわけだ。ディリムを救った男、あれはメディアの将軍サームだ。そしてこれなるはもう一人の救い主、キッギア殿」
二人の姿はほとんど影の中で、黒鋼のような義足だけがはっきりと見分けられる。俺は身に何一つ着けておらず、動くと仄かに香油が香った。
「あの後、あなた様を煩わせてしまったのですね」
「ほとんど娘の為したことだ。自分を女と思っておらん娘だから気にするな」キッギアの横顔は星明りの下で石壁に彫られた戦士のようだ。
「同盟するという噂は耳にしましたが、メディアの将軍だったとは。」
また会うこともあろうと言った将軍の声を思い出し、俺は我知らずヒッタイトの鋼の鞘をまさぐっていた。布一つ身につけていないのに、ふくらはぎに革紐で結わえた武器はそのままだった。
「軍の力を測るならバビロンの王の本軍を見ればすむではありませんか。」
「同盟を正式なものにする前に軍の編成を見たいと城市を巡察していたのだ。本心は分からん。バビロンで閲兵を受け、ニップル、シッパルを視察し、このボルシッパを最後に再びバビロンに戻った。ボルシッパ総督に、今日はいいものを見せて戴いた。出向いた甲斐があったというものと実に鄭重に礼を言ったそうだ。同盟は今やどちらにとっても欠かせない情勢だ。それを相手がより切実だと思わせてしまうところが、なかなかのものだ。丸め込まれた、言い負かされたと相手につゆ感じさせないのが交渉だ。ディリムは父御とともに商いの場に控えていたから、そのあたりの駆け引き機微も知らぬわけではなかろう」
皮袋の揺すれる音がし、酒精がひときわ強く香った。
「何をもたらせたにせよ愚の極みでした。アッシリア軍を躍り上がらせることになりかねなかった」
「そう言っている今のディリムがもう一度あの場所に戻ったとしても、お前はまったく同じように振舞うだろう。それがお前の本性だ。将軍サームにはそれが分かった。そのように動くお前を気に入ったのだ。お前の本性に気づく者がその場にいたことが定めとも言える。それをして星の道が数百年に一度出会うような徴と見れば、一国の運命とまで話が広がることになる」
「私がのこのこ出て行こうがどうしようが、もとよりメディアは同盟をなす心積もりだったにちがいありませんから一国の運命とは言えないでしょう。でも、将軍が自らの手で俺を助けてくれた、消えかけた俺の運命を黄泉の扉の前から投げ返してくれたのは数千年に一度の星の巡り合わせのようです」
「私に言わせれば、お前はただの身のほど知らず」
俺の真後ろで女の声がした。振り向くと寝藁の中に人影があった。
「お前、男のくせにまともな筋肉がついていないぞ。それでは狼と呼ばれるアッシリアの矛の前で麦穂のように刈られる。武器だけは不相応にも親父様が賜った剣といい勝負だ。あまりに見事なので研ぎなおしておいた」
「武器だけではないぞ。アシュはお前の爛れかけていた背を自分の身をもって癒してくれたのだ」と言う覚師の声は愉快そうだった。
傷が癒えたばかりではない。俺は今までにないくらい身体が伸びやかに感じられる。
「私の痛みを拭ってくれたということは、あなたがその身に引き受けたということになるのではないか」
「抱きしめていたからといって、お前の傷がこの俺に貼りつくものか。お前、男のくせに酒も飲まないようだな。お前の身体には一滴の酒も入っていないぞ」
「男、女の問題じゃない。俺の分はいつもハシース・シン様が干してくださるのだ」
「ハシース・シン様は特別だ。この方は歩く皮袋だ」
「アシュ、口が過ぎるぞ」キッギアの口調は咎めているのではなく、合いの手のようだ。
「おお、四方世界のみならず、化外の地までのありとあらゆる酒神と懇意になるのが私の夢だ。言葉を知るにはまず地酒からだ。いかなる荒れ野、辺境の地であろうと、人が住む気配はまず鼻が教えてくれる。それは糞の臭いだとよく言われるが、それは違う。酒の香は日々垂れ流される糞などよりはるかに遠くまで生きている人間のことを伝えるのだ。ところでアシュ、酒一滴もないディリムの体の中には何があった」急に真顔になった覚師の様子が眼に見えるようだ。
「大雨の時みたいだったな」アシュは獲物を手繰りよせるように、一言一言呟いた。「音が大きすぎて何も聞こえない、そんなふうだった」
「それは俺の体というより、この天と地のことじゃないか。俺の体は天地を奔る大洪水の一滴だ。天と地の間にはこの世が始まってからの音がなにもかも残っている。風、裂ける岩、瞬き、打ち合う剣、葦笛、翼、熟れる葡萄。俺はいつもそう感じている。そういえば俺はさっき夢を見ていた。アシュ、よく顔を見せてくれ」
アシュが不意に立ち上がった。闇の中でも彼女が素裸なのがわかった。
「ここの井戸の水は酒よりも旨い。汲んでやるからこれを着て一緒に来い。俺たちの背丈は同じだ」
覚師とキッギアは何も言わなかった。 -
4
隊列を動かす兵たちの具足の音や馬のいななき、戦車の車軸の軋みにまじって負傷兵のものらしい呻き声も聞こえた。訓練を統率する部隊長たちにとっては、負傷者も幾人かの死者も見越してのことだったはずだ。学頭は命を落とす兵もいると言ったのだ。訓練で十人の命を召し上げることで、実戦では部隊の足を踏みとどめ全滅を免れることになるのだろう。見境なく飛び出した俺は今命を落とした兵たちの死を無駄にしてしまった。行きかう兵も卒長も部隊長も俺から目を逸らせているように思える。一歩一歩がたった今味わった恐怖と募り来る恥の深い足跡をつくった。荒い息をつくたびに棘の密生した茎が喉を擦る感じがした。 血と泥がこびり付いた腕や脚には手当てのいる怪我はなかったが、猪の瘴気でも浴びたみたいに体中から鼻を刺す臭いがしていた。俺は花の色が残っている草を探して毟り取り手を擦った。脂汗と血と反吐が混ざったような臭いがかえって強まった。自分の棺とともに歩いている気分だ。大きな擦り傷でもあるのだろう、熱風が吹き付けると背中が酷く痛んだ。陽の力は俺を押し返すほどで、強い陽光の下を歩いているのに目の中は昏かった。 漸く長衣を拾いに元の場所へ戻った時には、学頭たちの姿はなかった。振り返ると、展開していた部隊も倒れた猪も跡形なく消え、血の匂いに騒ぐ鳥の影もなかった。暑熱に焙られた黄土には血の痕も見えなかった。背後から二千五百の部隊と十八頭の巨大な猪の骸がなくなるまで気づかなかったとは、どうかしている。一気に駆け抜けた距離を引き返すのに俺はいまどれほどの時を使ったのか。声にならない底なしの自分の悲鳴と幾万の兵の進軍を促す鉦の音のような陽光が俺の耳をいっぱいにしていたのはたしかだ。 長衣とともに放り投げた皮袋の栓がはずれ大半の水がこぼれてしまっていた。熱した水は口をすすぐほどの量しかなかった。持ってきた水をあてにした自分が間違っている。闘いの半分はいつでも水に関わることだ。絶え間なく吹く風と陽のせいで見えないが、水路まで遠すぎることはないはずだ。「坐るな。水場まで歩く」俺は声に出して言った。 渇きを鎮め、体を洗って渡しの船に乗せてもらえるようにしなければならない。 「恥ずべきは自分を憐れむことだ」と父は言った。それを聞いたのは何の折だったのだろう。その時は、意味するところが分からなかったけれど、自分の愚かさと思い上がりに膝折っているいまがそれだ。救われた命は自ら改めて救い直すのだ。 俺は傲慢極まりなかった。ヒッタイトの鋼を使うところなど誰にも気付かれることはないとたかを括っていた。あの異国人は弓を使いつつ俺の手業を見届けていたのだ。そのような鋭い眼で一瞬一瞬を見切っていなければ乱戦のなかで生き延びられはしないのだろう。 俺は父の商いに随いて多くの地を旅し、大商人の館で珍しい写本を見せてもらった。較べる者もいなかったので、そうした折に一度目にした文字を忘れないということが特別なこととは思わなかった。覚師のもとで、各地から集まった書記生と学ぶ間に、皆が新しい文字を覚えるのに多くの時を費やすのを知った。俺は密かに速さを誇っていたわけだ。他の者を侮ることと自分を憐れむことの根は一つだ。
「七番目の櫂を取れ、櫂を取れ。八番目の櫂を取れ、櫂を取れ。九番目の櫂を取れ」 気づかずに同じ詩句を謳い続けていた。膝の運びと韻がぴったりだったのかもしれない。 いつからその大振りな緑の広がりに気づいていたのだろう。俺はなかなか近づいてくれない緑を見つめ、「櫂を取れ」と声を絞り出して歩いていた。 はじめて見る木だ。灰色の幹はほぼ真直ぐで葉は一枚一枚磨きあげたみたいに光を跳ね返している。葉陰の縁にある井戸は小さく、桶をつないである柱も杖みたいに貧弱だ。住まいも大きくはないが、裏手には家畜の気配がある。 切り揃えた葦で組んだ扉越しに声をかけようとするのを計っていたように人が現れた。片足が義足だった。俺の体は前のめりになっていたせいで、顔よりも先に足が目に入ったのだ。男の右目の縁を抉り傷が走っていた。眼が救われたのが僥倖としか言いようのない深さだ。男が黙って指さした木の根元に俺は崩折れた。水の音に体が震える。汲み上げた水桶から男は小さな椀に水を入れ俺に差し出した。椀の底に唇を湿らすほどの水があるだけだった。男と俺は数回椀をやり取りした。俺の体を気づかって水の量を抑えているのだと分かるまで、ずいぶんと恨みがましく浅ましい目つきをしていたにちがいない。 体の隅々まで水が行きわたった安堵はつかの間で、膝を引き寄せ立ち上がる気力もなくなっていた。水を恵んでくれた男は、礼を言う前に家の中へ戻ってしまっていた。男の体つきは戦士、静まりかえった眼差しは俺の知っている医師と同じものだ。父は大きな隊商を組むときは必ず医師を伴った。バビロニア人ではなかったが、腕のたつ医師は商いの地でも大いに重宝がられたから出自など問う者はいない。その医師は畏敬をこめた渾名で疫病の見者バルナムタルと呼ばれていた。強い酒精があれば怪我人の半分は救えると幾つもの皮袋を用意させていたけれど、半分は自分で呑むのだと言われていた。俺が覚師と出立することになった時、はじめの二日間は父の隊商と共に移動した。二晩ともハシース・シンとバルナムタルは酒神が寝込んで後も呑み続けたという。 戻ってきた男はもう一度椀に水を入れ掌の木の実のような褐色の粒を見せた。 「もうすぐお前は熱が出はじめる。これを飲んでおけばひどくならずに済む」 やはりバルナムタルの眼だ。俺は言われるとおりにした。水を飲み終えたらすぐに歩きなおすと心決めしていたのに、背の幹を支えに上向くのが精一杯だ。俺は萎れた花だ。風が吹くたびに葉陰の網に揺すられるようだった。俺は漁られた魚だ。糞の大玉にしがみついた糞ころがしが俺の足元をゆっくりと回転してゆく。ご苦労なことだ。聖なる甲虫と崇める国もあるという。光の方へ。甲虫は爪に力をこめ、すべての脚爪に力をこめ光の方へ回転する。体が揺れる。俺の行く先は光の方だ。そうすればこの寒さは収まる。震えを抑えようと俺は爪に力をこめた。 -
3
光のせいなのか俺の答のためなのか、眉をひそめたグラの見かけは、ひと炙りした麦粉のように瞬きの間に変わっていた。覚師たちと出会った時のラズリ婆様はこの横顔を朝焼けの中にさらしていたかもしれないという気がした。
「ディリムはどこで夕陽を見るの」その声音はもとのグラだった。
「文書倉の屋根だよ。心配ない、覚師もよく酒壷を抱えて上がってくる。ここだけの話だがハシース・シン様が心底崇めているのはナブ神よりも麦酒の女神ニンカシなんだ」
グラは声をたてずに笑い、上掛けをたたみながら「先に帰る」と言った。「ディリムはあとから」と立とうとする俺を小声で制した。
星を浴びてたゆたっていた運河の水はいま麦穂の呼びかけに応えようとしている。ありとあらゆるものが、ゆったりとした朝の身じろぎのなかだ。城市を要に運河と麦畑と果樹園が目地のかぎり広がり、朝もやに溶けている。
カルデア人の占い通り豊作が三年続いている。望外の幸いは影を呼ぶが、いま誰もが案じているのは凶作の記憶ではなく戦の気配だった。この三季にわたって、わが軍勢とアッシリアとは一度も大きな矢合わせがなかった。両軍は獅子のように目を据え、唸りをあげて間合いをはかりながら砂ぼこりを巻き上げるだけだったという。秤はかすかに揺れながら均衡していたのだ。戦闘がなかったとはいえ、軍旅を解かれた兵士の大半が目を血走らせていた。
ボルシッパの兵は弱いといわれている。それは遍く知れ渡ったことなので、アッシリア軍が生贄の手始めにこの市を狙ってくるだろうという噂はすでに日々の挨拶となっている。
弱兵だというのは本当だ。十一人の書記生と兵の訓練を見に行ったときのことだ。大楯を持つ槍兵と軽装の弓兵が太鼓と角笛の合図に合わせて移動を繰り返すたびに土埃がふんだんに巻き上がった。兵が走り革と鉄が匂う。いっせいに射られた矢は降り注ぐ白い光を斬るようだった。俺はそれまで並足で行軍する兵しか見たことがなかったので、眼にするすべての動きは機敏でありながら重々しく、頼もしいものに思えた。
「はじまるぞ」と俺たちを連れてきた年長の学頭が言った。
兵が大きく動き矩形の囲いをつくった。構えは三段で、楯が隙間なく寄せられその間から長槍が突き出された。開かれた一辺を大葦の束で覆われた囲いが塞いでいた。軽装歩兵たちが走りよって葦束を取り除けた。猪の檻は十八だった。丘に着いたときから猪の強い匂いがしていたので気にかかっていたのだ。猪は狩るより生け捕るほうが難しいはずだ。
「戦車相手の訓練だ。命を落とす兵も出るそうだ」学頭の声が上ずっていた。
十三頭の猪が囲いの中央まで勢いよく飛び出し、四頭は檻の前に止まり、一頭は檻から出ようとしなかった。与えられた中庭を十三頭の猪は小走りに行き来を繰り返していた。途方にくれているように見えた。楯の壁に不意に突きかかっていったのは檻の中に残っていた一頭だった。兵士たちの槍先は猪の巨体に向かわず、地を削り空を泳いだ。拳ほどの土塊が山崩れを起こすという。十八頭の猪は黒灰色の濁流となって跳ね回り槍に向かって突進し、無理やり楯の隙間に鼻面を押し入れた。六頭が胴や背に槍を突き立てたまま走りまわっている。まったく動かなくなった猪は七頭だ。倒れた兵士の数より少ない。
突き崩した兵団をそのままにして逃げ去る猪は一頭もいなかった。猪の一頭一頭が復讐神のとり憑いたような目で腰のひけた兵たちをねめつけると、怯えた男たちの気息が低い雨雲のようにたちこめた。軍長の怒声は乱れを煽るばかりだった。二千五百の兵士が十一頭の猪に包囲されている。猪十八頭で崩れる兵団など何の役にたつのだ。
わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。高みにある隼の眼、巣に帰る蜜蜂の眼を。
俺は轍にはまった戦車の車輪、血濡れた大牙を見た。そして俺は長衣を脱ぎ捨てた。
わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。北の天を走る流れ星の脚、七番目の月、聖なる丘の月の草原を駆けるガゼルの脚を。
俺は斜面を駆け下りた。つい十日前までは白や青や黄や紅色の小さな花でいっぱいだった斜面はことごとく枯れ草になっている。俺は枯れ草に覆われた斜面を駆け下りた。
わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。暗夜に轟く雷鳴の声を、あめんどうの花を啄ばんで鳴く小鳥の声を。
俺はこめかみが割れるほどの声を発した。犠牲者を突き倒さんとする牙をこちらに向けさせるため声を発した。猪の濁った片目が俺を捕らえた。憤怒も憎しみもない目だ。
わが父ビルドゥは言った。お前はもたない。獅子の額を貫く槍を投ずる肩を、城壁を抜かんとする敵兵を追い落とす腕を。
俺はもたない。重い武器を揮う軍神の肩と腕を。槍も剣も楯ももたない俺は十一頭の猪の二十一の目の中へ走りこんだ。
それゆえ、われはお前に授けようとわが父ビルドゥは言った。ヒッタイトの鋼を。
俺はもつ、目と脚と声と葦筆と見紛うヒッタイトの鋼の武器を。
背に浅く刺さった槍を揺らせて地を掻いている猪の鼻先で俺は横に跳び、そいつの右側に従者のように並び立っていた大猪の首の下に滑り入った。ヒッタイトの鋼をふくら脛の鞘から抜き、俺は猪の喉に鋼を突き立て引き抜き、巨体が崩折れる前に腹の下から身を回転させ、次の一頭の両足の間に潜り込んで身をずり上げ首の下を刺した。抜け出る前に蹄が地を滑るのが目に入った。前脚の剛毛の一本一本がはっきり見えた。腹の沈むのが早く、下から抜けきる前に俺は踝を挟まれてしまった。
息の抜けた悲鳴ともつかない掛け声を上げながら兵たちが倒れた猪の腹に槍の穂先を向けてきた。歯の根の合わぬ兵たちに土埃にまみれた俺と黒灰色の猪とは見分けがつかないだろう。俺は味方の弱兵の槍を浴びるのだ。黒い水に全身が浸されたような大きすぎる後悔の思いに声も出なかった。こんなにも無様な死を自ら招いてしまった。この時に呑みこんだ無念の思いと恥ずかしさは後になって何倍もの強さで俺を締め上げることになった。
鼻先に真っ赤に融けた光が走り、間近に雷が落ちたような感じがした。
「少年、名は」俺は呆然としたままその声を聞いた。戦車から俺を見下ろしている救い主の顔は背にした陽光で赤黒く翳っていた。雷鳴のように聞こえたのは、男が振るった鞭だったと後で知った。男は戦車を乗り入れ俺と猪を刺そうとしていた槍をその鞭で叩き落としたのだった。そうする前に男が半弓から射た矢はことごとく三頭の猪の額に刺さっていたという。
「ナブ神の僕、ディリムと申します」喉が干上がっていて嗄れた声しか出なかった。「あなた様のお力添えなくば、私はこの場で果てておりました」
「見事な書記振りではないか。お前の筆の刻みは余人の及ぶところではない。お前は一つの神に仕え、二つ、いやそれ以上かもしれぬが、多くの神々に護られているらしい」男の話し方は異国人のようだった。被り物も胸甲も見たことがないものだ。
「あなた様も私にとってその神々のお一人でございます」
「馬鹿なことを申すな。おそらくふだんのお前であればそんなことは言わぬであろう。わが国ではお前のような若者を徒に死なせるようなことはせぬ。お前とはまた会うことになろう」
猪の腹に挟まれている足を引くと、力を込めるまでもなく抜くことができた。俺はまったくもって我を忘れていたわけだ。俺は戦車の車輪の端に這いより「お言葉、染み入ります。お会いできる日を」と頭を垂れた。
異国の男は頭上で鞭を振るうと御者の肩を叩き、戦車を発進させた。 -
2
風がいきなり立ち上がり、傍らの無花果の枝を叩いた。気づくと目の前にグラの姿があった。俺の影から湧きでたように思えた。グラの顔は頬の内に星を入れているみたいに小さな光を発していた。
「今しがたお前のお婆様のことを考えていた」俺は無花果の幹に背をもたせた。
グラは抱えていた小鉢を差し出した。温めた山羊の乳だった。身体が冷え切っていたのがわかった。垂らしてある蜂蜜もありがたかった。俺は大きく二口飲み、鉢をグラの口元にもっていった。一度首を振ったが、俺がさらに勧めると小さく二口飲んだ。
「グラが乳を搾るのか」
「山羊は好きじゃない。臭くて、ずるくて、いじきたない」
「山羊の乳はうまい。酪乳もな。お婆様の体の具合が悪くなければ少し話をさせてもらいたいと思っている」
「婆様はディリムを気に入っている。ディリムの会いたい時が会える時だ」グラは俺に横顔を向けたまま言った。
俺はラズリ婆様と言葉を交わしたことはほとんどない。会う時はいつも覚師が一緒で、俺は二人の話を聞いているだけだ。たしかに婆様の眼差しは温かかった。
「婆様は人相見をする。ディリムがここに来たのが十三歳、そして長い旅を終えたばかりだった。それはあしたのすべてが蕾のように人の顔に宿る時。大事なのはディリムが顕れたのがその時だったということよ」にわかに大人びたグラの口調が託宣のように聞こえた。
グラは向き直り俺の手に小鉢を戻した。ラズリ婆様の長子、鍛冶職人エピヌーの三女グラは俺より二歳と七ヶ月若い。覚師と旅立つことになった日の姉のことを俺は思い出した。「もうあんたの姉さんではなくなるのよ」と姉は壁を見据えたまま言った。
俺は空を見上げた。星見の力は姉メレルがはるかに優っていた。俺たちはよく夜空に星を三つ選び、その中の星を数えあった。ある夜俺が七十八数えた時、メレルは百十一だった。
「ディリムはバビロンへ行くのでしょう。どうして新年祭に大神官ではなくハシース・シン様が呼ばれるの。それに系図のある神官でもないディリムまで」グラの声は今また幼かった。
グラと同じように訝る俺に覚師は「王の名はナブ神に守られているからな」とはぐらかすだけだった。バビロンの解放者ナボポラッサル王の名は「ナブ神は子を守る」という意味だ。
「俺は供をして船に乗れとだけ言われている。グラはいつでもこんなに早く起きているのか」
「ディリムはいつも夜が明けてから起きるね。今日はどうしたの」
ハシース・シンの学び舎に入って十三の月が巡る間、たしかに俺は夜明け前に起きだしたことがなかった。
「夢をみた」と俺は空を見上げたまま言った。
「ディリムはふだん夢をみないのか」
「毎晩みている」
「今日は特別な夢だったということだね。話さなくていい。夢占師だけよ、人の夢を聞けるのは」
「占は商いのようなものだ」とわが父は言った。「問う者と答える者、問うた者にとって答えに大いなる価値があると思えたら大いなる代価を払う。占に肩入れするわけだ。そしてことが動く。占は梃子の石だ。商いと違うのは不本意な答えも買わねばならんということだ。いずれにせよ高い買物になる」
「わたしは夜明けが好きだから」
「俺は夕暮れが好きだ。西の空がクロカスの花の色に変わっていくのを眺めていると、心が透き通ってくる」
「夕暮れは蝙蝠を連れてくる。私は夜明けが好き」
「グラの気に入りの場所を教えてくれ。そこで夜明けを見ることにしよう。冷えるぞ、外套を着てこい」 グラが胸を弾ませるのがわかった。俺の手から小鉢を取ると、荒い布地の長衣をたくしあげてラズリ婆様の住まいへ走った。そしてすぐに上掛けを抱えて戻ってきたグラは、もどかしそうに首を振ると門の外へと足を早めた。急いているのだろう、グラは無言だった。文書倉を擁するニサバの丘は四囲ともゆるやかな勾配をなしている。北隣の丘は倍以上の高さをもった円錐台だ。俺たちは水路に沿って五百歩ほど北へ歩いた。二つの丘の間を切る隘路に入ると、城壁の下を歩いているようだ。暗いうちに通るのは初めてのことだった。北の丘の上り口に入るころには薄まった空に星が溶け始めた。
グラの足取りはまるで岩兎だ。踏み固められた道だったが、急な足元は雨の名残で滑りやすかった。登りきった丘の上には酒船が据え置かれていた。いかなる請願のためにこれほど巨大な石塊が運び上げられたのだろう。傍らに、かつて雷に打たれたのか焦げ跡のついたアカシアらしい木が一本あった。使われなくなって長い時を経ているはずの酒船から、ほのかに葡萄の匂いがした。
迫り上がった東の岩棚からグラが俺を呼んだ。岩棚の下は小さな窪地で、グラが上掛けをひろげ、くるんでいた皮袋とパン、干し杏と干し無花果を並べていた。
日輪を迎えるのにこの上ない場所だ。俺たちは天空を行く船の舳先にいるのだ。
すべてが目覚めようとしている。大地と川と空の高みにあるなべての生き物たちの身じろぎが伝わってくる。草が露を飲み、ニゴイが胸びれを揺らし、鳥が羽を擦り合わせる。荘厳なざわめきだ。やがて火打石が鳴り、竃に火が焚かれるだろう。ひき潰した麦粉が焼かれ、羊たちは牧夫を待ち焦がれる。ゆるやかに蛇行する大河の向こうの城壁は黒い塊で、消え行く星の光を受けて鈍く揺れているのは常夜番の槍の穂先なのだろう。
鑿の一打ちのように地の彼方に赤い刻点が顕れ、時をおかず金色の火箭が地平を奔った。つかの間すべての音が途絶えたように思えた。
俺たちの見知らぬ土地を夜通し巡歴した太陽の神シャマシュはいま眠りにつこうとしている。これからとてつもなく深い灼熱の夢を見るのだ。
俺は皮袋の葡萄酒を垂らし、パンをちぎり、干し杏と干し無花果を空へ抛った。そして曙光に呼びかけた。
「ルー、ルー、ルー。われらが古都を照らす光よ。御身がわが双眸に刻す白き言葉をわれ見ることあたわず。されど御身を名づけさせ給え。御身が齎す今日一日の、日々の、そして永久の神秘を称えまつらん。
御身のまなざしの下にわれらは集い、商い、涙し、食らう。御身の名はもの言わぬ瞳。
御身の吐息で大地は乾く。汝の暑熱が育むもの、それは葡萄樹。御身の名は生命の木。
御身の腕で百千の煉瓦が固まる。御身の名は不朽の館。
御身の歌声で牛と驢馬と羊たち、そして馬と駱駝たちが番う。御身の名は豊饒のシンバル。
御身の跳躍は花々を目覚めさせる。御身の名は第二の月の祝祭。
俺ははじめにシュメールの言葉で唱え、もう一度同じことをアッカドの言葉で捧げた。俺たちが覚師ハシース・シンに言われているのがこのことだ。
「シュメールの言葉なくしてわれらアッカドの言葉はない。心して喪われた先人の言葉を残すのだ。粘土板の上にだけへばり付いていてはならぬ。写しに写し、ひたすら筆写することで字を学ぶ書記たちは言葉から離れてゆく。城壁に釘付けされる王族の屍のように文字は干からび亡霊となり風に運び去られる。謳い続けよ。唱え続けよ」
俺はもう一度供物を捧げ、新しい名を捧げた。
「もの言わぬ瞳のために。生命の木のために。不朽の館のために。豊饒のシンバルのために。第二の月の祝祭のために」
「ディリム」朝日に顔を向けたままグラが言った。「あなたの本当の名は」
「それこそ」と俺は答えた。「ラズリ婆様に伺いたいことだ」 -
1
この文字は読めない。
覚えているのはそう思ったことだけだ。その刻文を俺はたしかに見ていた。読み解こうとずいぶん長い間見つめていたはずだ。書き出しの楔はどちらを向いていたのか。夢は降り初めの雨粒のようにかき消えてしまった。そもそも楔文字だったのかも実のところはっきりしない。消えてしまったことで、謎をかけられているように思えてならなかった。もちろん、どんな夢も謎だとはいえるが。
壁に穿たれた七つの小窓はまだ真黒だ。夜明けまで間がありそうだが、もう眠りは戻ってこないだろう。
俺は闇に目をならしてから、荷担ぎの柳の枝で二回ずつサンダルを叩いた。このニサバの丘の館に入って二十日ばかり過ぎた日の朝、サンダルに潜んでいた蠍を踏み潰してからの習いだ。刺された痛みは蜂にやられたほどのものだったが、そのすぐ後から高熱に打ちのめされた。どこまでも堕ちていく夢を見続け、冥界に引き込まれるのだと俺は心底怯えてしまった。
羊革の半外套を着て中庭に出てみると、四隅のなつめ椰子の根元は黒い陰の中にあった。明けの星イナンナはまだ姿をみせていない。二日前に終夜降りつづけた雨で大気は澄んでいた。雨とともに腸を揺さぶるほどの雷がしつこく吠えたけれど、水位標を脅かすほどの降りではなかった。
粘土の書板に触れば消えた文字を呼び出せるかもしれないと思い、俺は母屋の裏の菜園を抜けて文書倉へ向かった。わが覚師ハシース・シンの館は書板を納める倉が人の住処よりはるかに大きい。壁も厚く床には焼き締めた煉瓦が敷かれている。石榴の種ひとつ落ちていないこの倉に鼠がはびこることはないけれど、長脚の蜘蛛がやたらに蠢いている。灯壷を掲げて文書倉に入ると、無数の長脚が陽炎のように揺らめき立ち、逃げ遅れた奴が掘り込まれた楔文字に足を取られたりする。奴らのえさはきっと灯りの油なのだ。夢の中でも刻文に追われ踏み迷っている俺は長脚蜘蛛そのものではないか。
ニサバの丘にあった家々を破砕し火をかけ数多の品々を持ち去ったアッシリア兵たちは、叡智の神ナブ賛歌が刻まれた石柱を見落としていった。対岸のボルシッパの城市が築き直された後も丘に移り住む者はなく、語り起こす者もいなくなって久しいこの地はやがて毒蛇の住まう丘と呼び習わされ、食う草の乏しくなった山羊さえも近づこうとしなかったという。
「自ら隠れたのだろうな」と覚師は言った。閃緑岩の石柱は堰きとめられた水路の中にあったのだ。「だれも妙だとは思わなかったのか。蛇穴の山からあれほどけたたましい蛙の鳴き声がするはずはなかろうに」覚師は酒器から泡立つ麦酒を地に振りまくと、葦筆の尻で巧みに蛇と蛙の絵を描いた。そして大げさな身振りで耳に手をあてた。外ではジャッカルもたじろぐほどの大音量で蛙が鳴いていた。
真水の井戸も枯れてはいなかったのだ。ナブ神は自ら隠れ、時がくるまで丘にもまた偽りの呪いをかけたのかもしれない。
打ち捨てられたニサバの丘にやってきたのは覚師と五人の男たちと三頭の牝牛と二頭の牡牛、騾馬が四頭だった。彼らが到着した翌朝女が一人丘へやってきた。すでに寡婦となっていたラズリだった。覚師の一行が焚いた夜の火を見たからではなく、新月と満月になる日の朝、ラズリは欠かさず丘に来ていたのだ。二十一年前の新月となるその日、丘の上で声を発した者はいなかった。約束された儀式のように六人の男と一人の女は無言で出会い別れた。繋がれていない驢馬だけがラズリの腰に鼻面を寄せ、水路の縁に捧げ物をするのを見守っていた。
翌日から六人の男たちは椰子の皮をはぎ綱に編み大きな籠をこしらえると、水路から賛歌の石柱を牡牛に曳かせ引っ張り上げた。満月を迎える日のことで、二度目となるラズリは連れてきた子羊を手際よく屠り肉を切り分けた。肉と椰子酒と乾葡萄をナブの言葉に捧げると、六人の男と一人の女は共に同じ物を食い飲んだ。
先のボルシッパの総督は忘れられていた丘に文書倉を建造するというハシース・シンの願いをよしとし、煉瓦職人と二十本の杉材を供与した。覚師は倉を建てる四隅にナブ神の名を聖刻した釘を埋め、三月の間に城壁と見紛う部厚い壁を立ち上げた。大きさこそ大神官と二十七人の書記が居並ぶ市内の神殿図書館に劣るが、上の海の彼方あるいは東の峡谷を越えた化外の地から伝播したという文書はアッシリアのニネヴェが誇る考古文書館をも凌ぐという。
五十の青銅の鋲を打ち込んだ文書倉の扉はいつも半開きになっている。ここは昼夜を問わず出入りが自由なのだ。そのため扉の前に鎮座する双面神像の口が油受けとなって一晩中火が点っている。大柱を曲がったところで俺は先客に気づいた。上床の石壁に油煙が泳いでいる。ナブの石柱を納めた祭壇のあたりだ。師は明後日まで城内におられる予定だから、学び舎の仲間なのだろう。俺は後ずさりし外へ出、腰丈ほどの裏塀に沿って歩いた。星が泡立ち大地はいっそう冷え込んできた。 -
原田 直子 (信愛書店、高円寺文庫センター運営)「春の庭」
年があらたまって七草のころにいつもなつかしく思い出すかたがあります。
知り合ってまもなくのお正月に、遠出のできないそのかたに、と 干支のちいさなお人形を浅草で求めて差し上げたことがあったのです。
そのことから干支がいっしょだということがわかっていっきに親しみを 覚えるようになりました。
そのかたとは4回りちがい、私が48歳でそのかたは96歳のお正月でした。うすでの杯でとても上等なお屠蘇を進めてくださるので、それではと 薫り高いお神酒をいただいていると、そのあいだをずっと両の手を 合わせてなにか小さくつぶやきながら拝んでくださるのです。
それまでの私の人生の2倍をはるかに生きてこられた、それだけで 十分に仙女のような風格をお持ちだというのに、古風なしぐさで 客人をもてなすとはこういうことだ、と身をもって教えてくださいました。
「あなた、100年なんてあっというまですよ」
そういわれたのは99歳になられたころでした。故郷米澤の名君上杉鷹山公の一代記を語って聞かせてくださった ときのことです。
質素倹約を徹底したために、嫁入りの衣裳でさえも黒い木綿の着物を 仕立てるのが慣わしであったけれど、それではあまりに娘がふびんだと 裏地にそっと紅絹を忍ばせたそうです、と。
そのおはなしはおばあさまからじかに聞いたことです、といわれたときに 100年そして200年という時の流れを一気にさかのぼるような 驚きをかんじました。
江戸時代、といえばよその国のことのようにかんじていたものが 急に身近な暮らしのように思えてきたのもふしぎでした。また、どこでもお屋敷のまわりには有用な木を生垣にすることが 奨励された、というお話もあったのですが、その木はなんという名前 か思い出せなくてあとで調べてみたことがあります。
足軽の家などではそうでもなかったようでしたが、といわれるように 武家の家ではとくに食用になるような樹木を身近に生垣などに したとのことです。
いまどきの便利な検索システムですぐわかるはず、とおもったのですが いわゆる公式の上杉鷹山物語の中で語り伝えられているのはどれも 「ウコギ」というもので、たしかに新芽がおいしいとも書かれています。
けれど私がお聞きしたのは”赤い実がなって、甘酸っぱいその実を おやつに食べるのが楽しみでした”というように「ウコギ」では なかったのです。生垣になって、しかも食べられる赤い実がつくもの、を探してみると みつかりました。
「イチイ」または「アララギ」とよばれるもので、以前は都内のふつうの 家にも生垣で見かけることもありました。なるほど便利な世の中です。
ウコギもイチイもアララギも、きれいな画像とともにすぐに目の前に 浮かんでくれるのです。そうしてなんだかわかったような気分に浸らせてくれるし、手軽で この上なく便利です。
けれどweb上に氾濫する情報というのは、いったい誰がどこで 発信しているものやら、ほんとうのことは誰にもわかりません。
上杉鷹山公が生垣に、と奨励したのはウコギである、ということを だれも疑いもせずに引用しているようにみえます。でも私はその土地の人たちがこころから鷹山公を敬愛し、誇りに 思っていつまでも語り伝えているという生きた姿にふれて 尊敬できる名君を戴いて暮らすことの幸せ、をうらやましくおもいました。
100歳になる直前の暮れに静かに旅立って行かれたそのかたは 俳句を作られる方でしたが、なかでも一度聞いただけで忘れられない 作品があるので、ここにご紹介させていただこうとおもいます。
山茶花やどなたに会いしほほ染めて
庵を結んで、といった趣きの離れに続く庭にはちいさな花が絶える ことなく、なかでもみごとな福寿草の群生は主のいなくなった庭で 黄金色に輝いているのでした。
てふ、蝶といううつくしい響きのお名前をもっていらしたそのかたは 重荷からときはなたれて軽やかに故郷に向かって羽を広げて旅に 出かけられたのだ、そうおもうとさびしさもやわらぎます。
生き方名人、といいたいような風格のあるてふさんでした。
小鳥が鳴いてくれるし、すきな花がいつも咲いてくれるので さびしいことはありません、といわれたその笑顔と温かな声が なつかしく思い出されます。
ふと立ち止まって、足が前に進まなくなってしまった、そのようにかんじるときに 浮かぶのがてふさんの面影です。そして長生きもわるくない、新しい年を迎えるたびにそうおもえるのも やはりてふさんのおかげかもしれません。