ウル ナナム

  • 58

    キナムの体が俺に寄りかかってきた。こいつが足元をふらつかせるのは初めてのことだ。全軍が停止しているから俺も慌てて手綱を引いたのだろう。叱咤の声や鞭音が聞こえ、兵や馬の混乱が伝わってくる。またしても前日のように探索兵が倒れたのではなく、難所に差しかかった戦車が壊れたのかもしれない。苛立ちを露わにアシュが小走りで脇を抜け、戦車長とフラシムが後に続いた。フラシムだけが弓を携えた。

    ここは挟み撃ちにはおあつらえ向きの場所だ。切り抜けるとすれば後方になるだろう。戦車もなんとか廻せる。メディア弓兵の六人がまだ夜営した場に居残って物見についている。夜番での弓兵は馬の尻尾を結び合わせた紐を部隊の外側に張り巡らし銅片を垂らしていた。一夜の塁壁も侮りがたい連中だ。「夜の獣十六、敵の斥候二、間抜けな味方一」効果を尋ねた俺に弓師が囁き、「戯言です。一度も鳴ったことはありません」と付け加えていた。

    兵の動き回る音がひときわ大きくなった。戦車に何事かあったのなら、アシュたちの糾問叱責は部隊長の面目を失わせるものだろう。キッギア戦車隊が傑出しているのは乗り手たちの技量は当然だが、戦車のつくりに工夫があるからだ。他の邦にはない頑丈な車軸と柔らかな轅。だからこそ万一となれば破却する。王子たちの戦車は同じつくりではないにしても、敗走軍でないものが戦車を放擲するわけにはいかない。担い台を手当てするか荷車に積むことになり、この狭い街道でたっぷり無駄な時を過ごすのだ。俺の背丈に合わせて青衣を仕立てるような入念な下準備をしておきながら、命にかかわる護衛部隊の手配や戦車の点検はぞんざい。衣と戦車、施す手は畢竟同じもののはずだ。

    昨夜眠ろうとした俺の耳元でアシュの声がしたのだ。「聞こえなかったか、夜を剥がすくらいの私の大声が。綾織の潜りを付けた王家の天幕を立てながら、谷の入り口に一人の夜番もいないという有様だったからな。それでいて後方には防柵があった。我らの眼前に柵を据え、獅子の待つ夜の門は開け放し。不行き届きをしかと懲らしておいた。というわけで長居はしなかった。安心したか。お前には珍しく不機嫌な面をしていたぞ」

    後方への防御が俺への当てつけではなく本気であっても構いはしないが、もう一方を無防備に晒すとは何としたことだろう。二百を超える供回りは王子自らの選り抜きではなく、后妃側近からのお仕着せか。騎兵百人を率いる長に経験の浅い者がついているはずはない。軍制に詳しくはないが副官も数人いるだろう。警護の差配など王子の命を待つまでもないことで、拙い夜営にこそ理由がありそうだ。お追従を囁く側近の口はおそらく刃を呑んでいる。后妃に侍る女官だか宦官が言い置いたのだ。随いていくだけでよい、王としての采配を学ぶ旅ゆえ口出し無用、多少の失敗には目をつむり気長にと。逞しく実直な百人長にはまっとうな言葉の背に隠された企みなど疑いようがなかったのだろう。アッカド王家の出自たる后妃がどのようなお方か俺は知らないが、豪胆だが物堅いナボポラッサル王は今のカドネツァル王子の半身にはいないのだ。おまけに青衣の誰一人忠告もできない。神殿で王子は誇らかにのたまわっていたではないか、諌める気概胆力をもつ者がいてほしいのだと、戦士でありかつ抽んでる技量を具える者こそと。

    しかし取り巻きの青衣どもと悪態を並べても、罠に立ち向かえるのはベルヌスの弓やウッビブの大剣なのだ。この俺は兵として役にたたない。ヒッタイトの鋼はこの身を護るのが精一杯でキナムを救うのも覚束ない。弓も槍も剣もまともに扱えず、御のみの俺にできるのは逃げることだ。荒野で生き延びるためにラズリ様が剣を振るったように俺も闘う術を早く身に付けておくべきだった。成熟の前に未熟の分け前を頂戴する、と南の邦の警句が云う。何一つ為さぬまま死に行く怠け者を戒める言葉だ。罠を仕掛ける者は好機を待っている。生きるのに未熟な獲物は必ず逃げ遅れる。

    メディア弓兵は草原のカゼルだ。休息しながら耳が立っている。降りて一休みしておくようにキナムに言い、俺は戦車の引き革に捩れや傷が入っていないか指腹を辿らせた。車輪が踏んでいるのは地肌に這う棘だらけの草だった。水路の中にいるように思えたのは草木がまったく目に入らなかったからだ。降り積もった光の粒が水をくるんでひんやりと感じられたからだ。道は均されている。このすぐ先から戦車や荷車を傾がせる険阻な道がはじまるとは思えないほどだ。長い間に踏み固められた街道ではなく、人の手が入っているにちがいない。王族や都市王たちが儀式用の四頭立て戦車に乗り謁見に訪れた王の道。

    城壁無用と思われていたこの離宮に、あるとき凶徒共が押し寄せた。腐肉の匂いを振りまく異邦の神がその歯でなにもかも貪り食い、この地に生まれ立った神々、そして歌も跡形もなくなった。この街道の下、道の先、岩屑の陰には何もない。古人は粘土板にではなく、この谷に書き遺した。ラズリ様に見つけられるまで神像がその身を溶かしたように自らを魔法にかけたのだ。わが身を隠しながら、隠されているものは必ず見出されると信じていたにちがいない。

    上の空といった様子で岩肌を見ているキナムに声をかけると、ゆっくりと顔を振り向けてきた。俺に応えるためではなく、流れる綿毛を追う目をしている。

    「井戸はあるのだろうか、この道には」と尋ね、思い浮かんだことを話した。「どんなふうにこの谷を眺めてみても青足鳥の由来が見えてこない。異邦の珍鳥なのか名前も聞き覚えがない。こうは考えられないか。青足鳥は滅びた都城の語り部の歌の中でだけ飛んでいたのだと。青足鳥の鳴き声を聞き姿を見たのは、この谷間離宮に集った者たちだったと」

    キナムは頭上の窄まった谷の裂け目を見上げた。自分に倣えば自分が見ているものを同じように見られるのだと言っているのか。真直ぐに投げ上げられた神の槍のように青足鳥が翔けあがっていくのが見えるのか。

    キナムは俺の体に背を預けてしゃがむと、象牙のような左手を俺の甲にあて、「ここには ありません あなたの 見たいものは」と俺の掌に爪を使って書いた。一文字一文字尖筆で刻するように書いた。キナムは書いたのだ。見たものではなく、見たいものと。掌で消える文字、仄かに笑みが生まれかけているキナムの顔、そこには何もないけれど、咎められていると俺は思った。

    父は言った、覚師も言ったはずだ。見たいものを見たと思い込むことで過ちは始まると。それが傲慢ということなのだろう。それでも俺には感じられる、かつてあったものがことごとく消え去った後、俺にその痕跡を垣間見せようとしているものがあると。俺の見たいものとは何だろう。それはここにないものだ。永遠に立ち去ったもの、明日の連なりから訪れてくるもの。

  • 57

    「膝を貸せ、ディリム」アシュがいきなり俺の腿に頭を乗せてきた。「何をしている、こういうときはお前の手を私の髪や腰におくものだ」小ばかにしたアシュの声に被さって誰何の声が聞こえ、程なく見張りの戦車兵に伴われてウッビブが現れた。ウッビブの左目尻から頬髯まで葡萄酒色の痣がひろがっている。あの晩なぜ俺は気づかなかったのだろう。こいつの痣は月の光で滲み出したり消えたりするのか。アシュと俺の姿を見ながら見まいとし誰とも目を合わせまいとするウッビブ。王宮の宴席で見せた豪放で陽気な熱は干上がっている。異邦への伝令使になった気分なのだろう。
    「アシュ様、カドネツァル王子がご招命です」
    皆押し黙っている。ウッビブの言は夜に溶け誰の耳にも届かなかったかのようだ。仮借ない無言。アシュの頭は変わらず俺の腿の上にある。
    ウッビブは言葉を解さぬ犬となって咥えてきた言葉を吐き出した。奴はそう考えたかった。渉ではなく命なのだから自分は吐き出しただけだと。恥じるところはない。私は咥えてきた命を置き、言葉の命ずるものを咥えて帰るのだと。
    キッギア戦車隊はナボポラッサル王の命にのみ従う。メディア弓兵はいま俺の命にのみ従う。アシュは誰の命にも従わない。そして俺はすでに命の及ぶ外にいる。
    「夜伽でもせよと申されたか」耐えきれず踏み出しかけたウッビブを制するように、アシュは弾みもつけず立ち上がっていた。腿から頭の重みがなくなったのを感じるより先にアシュの声が聞こえた気がする。
    「アーバ、供をせよ。矢は一本で良い」ウッビブには目をくれず、アシュは戦車の防柵の方へ歩き出している。アーバはアッカドの言葉を解する。奴の口元に笑みが生まれかけ左手は弓を掴んでいたのだ。俺はしかしメディアの言葉でアシュの命をなぞった。アーバは膝立ちで一礼し畏まった面持ちで箙から一本の矢を抜いた。見張りの戦車兵とアシュ、アーバが一列になってさっさと進み始めるのを使者ウッビブが大股で追いかけた。抜き放つのも難儀そうな長剣が足元の邪魔をしている。後宮門警護の衛士の剣ではないか、役に立たぬ代物だ。ウッビブは気の毒な役回りだ。恥辱の矛先が何処に向かうといえば俺しかないのだろう。
    ツァルム戦車長も多才なフラシムもメディア兵も穏やかな目で暗い火を見つめている。獅子狩りの途上に罠と考えているクシオスたちは、王子率いる部隊と俺たちが何ゆえ別れて行軍しているのかまでは知らない。作戦のためでないことは瞭然だが。俺だけが怒気を扱いかねて息を荒げている。切り離されてもなお堪えて縋るような弁え、忠誠心など俺にはない。つまるところ、俺の行く先は罠が現れたところから始まるわけだ。この馬鹿げた行軍のまま罠に備えねばならない。カドネツァル王子も同じなのだ。王子たる自分に靡かず、背後から手勢を従えて付かず離れず進んでくる者に苛立ち刺々しい言葉をのぼらせているのだろう。
    炎の音がした。キナムが枝を足しているところだった。交代の順に当たっていたらしいアーバの代わりを指示するクシオスに俺は自分が行こうと伝え、ツァルムの了解をもらった。アーバめ、生涯の誉れとでも言いたげだったな。まことにアスティアデスの血縁なのか。

    焚火後の灰を集めるのも火を熾した者の役目だが、俺が羊皮に夢を記していたのでキナムが引き受けた。キナムの傍らで灰を入れる袋を広げていたのはアーバだった。昨夜、俺が見張り番から戻ったときにはアシュとアーバはもう炎の落ちた焚火の前に敷き皮を置き眠っていた。俺も従者キナムの用意してくれた敷き皮に横になり、夢に送られて目覚めたのだ。そして六日ぶりの夢記に導かれた。当分は粘土板ではなく羊皮を使うことになる。心得たもので、キナムは貴重な皮を束にして持ってきていた。
    痩せ牛が川を渉るのを俺は見ていた。牛追いの姿はなかった。鼻づらまで水を被り、左岸から右岸へと大きく斜めに流されながらも、痩せ牛はけな気な感じで泳いでいた。血の痕のような染みが背を覆っており不吉だと目を背ける者もいれば、瑞兆とはしゃぐ声もあった。どこに俺はいたのか。顔に撥ねる水がうるさかった。血の痕のついた痩せ牛は俺だったのか。
    夢底に沈みかけていた気がかりが記している途中で蘇ってきた。牛となった俺の脚を掴んできたものがあったのだ。正体がわからずもどかしかったが、あれは人間の手だった。牛の脚を捕らえていたのは俺の手だったか。牛は、牡牛はアッシリア王家の象徴だ。
    「徴の読み方はひとつではない、幾通りもある。徴を読め、兆しを見逃すな」覚師ハシース・シンは繰り返し俺たちに言ったものだ。
    夢の後姿は藪の棘だ。棘に気を奪われて、俺は長い間何も目に入らないまま行軍していたようだ。行く手は天空から大斧の一撃を受けたような裂け目で、尾羽というより蛇の口だ。青足鳥の尾羽の谷とはアッカドの呼び名ではないだろう。古の名をそのまま呼び変えたため、かくも言いづらい名となったにちがいない。馬一頭が精一杯かと見えた道幅は往還する荷駄が充分擦れ違える。ツァルムは王子の部隊の最後尾との隔たりを矢の距離一つに詰めている。車軸の心配をするほどの揺れはまだない。気にかかるのは伏兵ではなく街道そのものだ。青足鳥とやらは異邦の地から飛び来たって草木が根付くのを拒んでいるのか、枯れ草も見当たらない。夜営の場所には水場があり、陽を濾すほど葉を広げる木も育ち、草が朝露を乗せていた。いま振り向けば昨夜我らの傍らにあった木がまだ見えるはずだ。それが夢を跨いだように景色が一変している。言葉であればそれも珍しくはない。丘を一つ越えただけで、いきなり話されている言葉が変わり通じ合わなくなることがある。しかし一木一草生えない荒地に前触れ無く入り込むことはない。
    野に魔法をかけると云ったな。岩が光っているのではない。谷の亀裂いっぱいに光が溜まっているのだ。古街道は人馬のために開かれた道とは思えず、水路にでも潜り込んだようだ。水の道、風の道だ。昨夜の焚火の火の粉は真上に立ち昇るだけだった。盛大に燃えていたはずの王子の所からも火の粉は流れ飛んでこなかった。風の道は大扉を閉め切っていたのだ。見上げた先にある灰緑色の広がりは果たして朝の空なのかさえ覚束ない。
    俺の目は前方に広がっていることどもをそのまま映している。しかし目に映っているものを必ず見ているわけではない。二年前に刻んだ粘土板の文を思い出したり、夢の底を探ったり、ラズリ様の語りの最中に湧き出た荒野の様子を浮かべ直したりしているとき、俺は前方に広がっているものを見ていない。
    一方この裂け目に刻まれていること、この地が思い浮かべていること、もしかしたらいずれ現れ出ることが俺の目に映りだすとき、俺はどこにいるのか。今ここにないものを見ている俺はどこにいるのか。目だけが、ただ目だけが時のなかを飛ぶのだろうか。
    行軍する誰もが油断なく耳目を尖らせている。それでも奇態な道を進んでいるとは感じていないらしい。俺一人、皆と異なる景色を見ている。ベルヌスの耳が古人の歌を聴くように、身は皆と共にありながら俺の目だけが四百年を遡り、あるいは八百年先がけてこの場所を見ている。俺は時の井戸釣瓶に乗って激しく上下しているのだ。

  • 56

    王子の部隊は露営の準備をはじめたようだ。ツァルム戦車長が隊列を止めて待機させた。青足鳥の尾羽の谷を抱える岩塊が黒々と行く手を覆っている。残照が岩ツツジの茂みにすっかり溶け込み影が濃くなってから、「ちぐはぐな行軍でしたが、一日分の距離はなんとか稼いだようですね」と戦車長は下馬を指示した。ついに一日中、王子からの伝令はこなかったことになる。俺たちは街道に蓋をする形で夜営することになりそうだ。
    ツァルムは馬を外した五台の戦車を行く手に向けて弓形に並べると、王子の部隊近くにあるはずの水場まで同乗の弓兵、メディアの弓師二名を連れて水汲みに向った。二百五十人を超える王の部隊は人声や物音も大きい。正面に立ち塞がる岩塊に撥ねているのかもしれない。
    後詰にあたる場所を定めに戻るメディア兵たちにアシュも同行した。城壁から一日の距離で夜襲は考えにくいが、あり得ない場所に仕掛けられるから罠となる。俺は火熾しの準備だ。父ビルドゥと過ごした日々の半分は商隊に従う旅で、その大半が野営だった。覚師に預けられる二年前からは、囲んで喰い眠るための大きな火と不寝番の小さな火をつくるのを任せられていた。土漠や岩場や枯れ野があった。皆が囲みやすいこと、眠りやすいこと、その二つだけが場所を定める決め手なのだが、それだけではないようだ。「いい火だ」と父に褒められたときほど嬉しいことはなかったけれど、「そこは相応しくない」と場所を移させる理由はいつもわからなかった。
    場所を決めるのは今でも難しい。街道は緩やかな斜面の途中を縫っているので、皆で円く囲える焚き火の場所は見当たらなかった。地に手を触れ、空に顔を回らせ、風を嗅ぎながら俺はジャッカルのようにあたりをうろつく。あいつは時を跨ぎこえる。ジャッカルに倣うのだ。星が集まってくるころ、ようやく俺は古道からかなり離れた処に火をつくる平場をみつけた。すでに跡形もないが、古道の往来が盛んだったとき人寄りがあったに違いない。俺は四方に拝礼し、火を入れる場所に息を吹き込んだ。枯れ草と鉄粉と頬の薬草が匂う。気息を入れた処にキナムが火種の麦穂の籾殻を敷いた。香ばしい煙が立ち、縄を綯いあげるように炎が立ってゆく。
    不意に茂みがざわめき立った。風が砂礫を巻き上げる。俺は火を庇って身を屈めた。風は俺を通り過ぎただけだ。外からくる事どもはすべて惑わし、警告などではない。今は耳の裡でふるえるものだけに気を凝らしていなければならない。
    再び火が踊りだしたとき足音がした。「見つけましたな、申し分のない場所を」戦車長は静かに革袋を下ろした。王子の部隊のことは何も話さなかった。厳しい表情ではない。俺はメディア兵から借りた銅鍋に水を張り、ヒヨコマメを入れ、塩を削り落した。煮立ってしばらくしてから乾し肉を裂く。
    火を見ながら考えた。尾羽の谷の木道は挟み撃ちではなく、我らを早く通させるために置かれたのではないか。ナボポラッサル王が王宮に戻って不審を抱き、増援の部隊を急行させる前に通過させ、王宮からできるだけ遠い地点まで導く。ツァルムが先発させた偵察部隊は青足鳥の尾羽の谷の口を出ても直ぐには止らず、半日目配りしながら進んだ。気配はなかった。何者にも行き会わなかった。フラシムはそこまで確かめて、薬売りとなって戻ってきたのだ。待ち伏せはさらに先の地点、不穏なのは次の夜営地あたりか。とはいえ何故途中からなのだろう。それではこの古街道をただ一本の幹とする大商人の一団、その者らが木道を企て、今その気長なもくろみの途中にあるならばどうか。いや商いは道を選ばない、難路を厭わない。時を縮めるために道をつくるのはやはり兵を動かすためだ。
    木道が敷かれたのは、前方からの軍を進退させやすいためと考えるのが一番無理はない。そして我がバビロニア兵をガレ場に封じる挟撃ならば、後方からの部隊は今城壁の間近にいるはずだ。帰順の荘園が怪しからぬ構えを取っていたけれど、あの場所に大勢の兵を籠めておくのは無謀だ。急を告げに駆け戻る早馬は一頭か二頭、襲撃部隊に呼応して秘かに葬るくらいはやってのけられるが。後方から寡兵をもってするなら火を使うだろう。キッギア戦車隊は夜戦に火で勝利したのだ。
    不遜にもイシャルに倣って后妃に悪態をつきながら思い巡らせてもみた。獅子狩りは后妃の思いつきで準備は破れ目ばかり、そのため兎穴が罠に見えてしまったのだとは考えられないか。罠に誘い込まれているわけではなく杜撰なため足元が危ういだけだと。なんのことはない、急造の大部隊がよってたかって不器用な矢を射たて貧相な獅子一頭を持ち帰ることになる。そして途中までの木道が謎のまま残る。堂々巡りだ。病み犬のように自分の尻尾を噛もうとしている。浅知恵を捏ねてもまともな推量とはならない。惑いは手足を縛る。「罠でしょう」と言下に断じ、焦れもせずに行軍するクシオスのようでありたいものだ。
    馬に餌を与える弓兵たちの穏やかな声と馬の歯噛みが縒り合わさって聞えてくる。王子の部隊のざわめきは間遠になっていた。前方に二人、来し方に三人の警護を置いて、残りの兵たちが火を囲んだ。アシュははじめの衛士の一人として詰めたようだ。キッギア戦車隊は焼き物の底に皮を張って欠けにくくした碗を使う。碗が兵の数に足りないので、喰い終えた者は次の者へと回した。俺とキナムを除いて火を囲む全員が終わると、二人と三人が見張りの者との交代のために立った。手元を見つめ炎を眺め、皆静かに口を動かした。戦車兵と弓兵の言葉が通わないからではない。行軍での食事はそれぞれの祈りとともにあるからだ。空になった鍋を火から離すと、弓兵の一人が袋から酪のような塊を取り出し小刀で切り分けながら皆に配った。ナディアが選んだ菓子の味だった。
    良い炎は人を結び合わせる。陽の下にて炎の前にて、と盟約の言葉にもあるではないか。楽の音もまた炎のように人を引き寄せる。フラシムの弦ははじめて聴く。父の隊でも七弦や縦笛を夜営で繁く耳にした。父が自ら奏することがないからか、俺は弦を手にしたことがないし、学び舎でも楽は無縁だった。
    フラシムのはじめの爪弾きに俺は浚われていた。神に捧げる楽の音、俺の讃など何ほどのこともない。夜を震わせ、はじめの蕾が弾けたとき、それを感じたとき、俺は花盛りの大樹の下にいた。葉むらは風に気づかず静まりかえり、夜空が星々を従えて頭上間近に降りている。一つひとつの音を惜しむかのように弦が弾かれる。一音一音がかけがえのない供物だ。雫は連なり流れとなる。流れは伏流し倍して現れ出る。震えながら立ち昇り、水輪のように遠ざかる。かけがえのない供物を神々も我らも葡萄粒のように賞味する。
    そしてフラシムは無造作に歌いだした。卑猥で滑稽な言葉がけたたましく野放図に捩れていく。惚れ薬を手に入れた宿屋女房の右往左往。フラシムは薬売りと女房、言い寄られる若者、女房の魂胆を盗み聞いた気弱な亭主の声を使い分け、二人の掛け合いを時には四つの声を捏ね合わせている。メディアの言葉に置き換えていくのはとても無理だ。無理だが弓兵たちの口元は緩んでいる。苛烈な軍神でさえ肩から鉞を下ろすにちがいない。
    やがて女房ら三人は寝入り、薬売り一人が去っていく。「皆々様、この私嘘は売りませぬ。売るのは良き夢、いささかの逆夢。薬は嘘をつきませぬ」
    フラシムが竪琴を置いたとき、焚火からも月光からも身を隠してしまったように見えた。

  • 55

    退けられた凶に向かうカドネツァル王子の供揃えは多かった。騎兵はメディア弓師の三倍、荷車が十五台、大弓と長槍の歩兵もそれぞれ五十人が連なっている。王子の乗る戦車の両隣には矢防ぎを左腕に付け短槍を握る兵と弓兵、ベルヌスら青衣たちには弓兵が一人同乗し、手綱は自分たちで握っていた。王子と青衣以外の四台の随行戦車の御はとりわけ巧み兵とは見えない。獅子の探索隊の者がそのまま道案内となっているのだろう、先頭を行く三人の男は疲労が濃くそろって顔色がよくない。
    声かけも会釈もなく通り過ぎていく王子の隊を、気がかりがあるのか、キナムは首を回らせて追っていた。最後尾の歩兵を恭しく見送ってしばらくの間、戦車長は我らの隊列を動かさなかった。矢の距離を五つほど空けてから我らが動きはじめたころ、一帯はすっかり明るみ、朝の湿り気を押し分けて先行軍の埃が匂った。王子の隊列は急いでいる。急がねば獅子の群れが遠ざかってしまうと顔色の悪い連中が煽り立てているかのように、荷車の車輪が激しく弾む音が届いてくる。
    道は進みやすく、あまり使われない旧道とは思えないほどだ。右手には少しずつ起伏を変える段丘が続き、ヒラ豆ほどの小粒の黄色い花をつけた草が目路の先まで覆っている。左手のゆるやかな斜面の奥で光る水の帯。川柳の樹幹も見えるので、ユフラテの支流ではなく枝水路かもしれない。
    「俺に伝えておきたいことがあるなら遠慮するな」キナムは俺を見上げ頷いたが、伝書板を取り出すことはなかった。俺は続けて言った。「お前は父上スハー殿のことをラズリ様かハシース・シンから聞いたことがあるか」前を見つめたままの顎は動かない。
    「俺はラズリ様から少しだけ荒野の流浪のことを伺った。苛烈な光、凍てつく風のなかをよくぞ生きてこられたと驚くばかりだ。しかし、生き抜く意志だけでは天の勘気から逃れられはしない。人が人を見出す力、それこそがこの世の不思議の際たるものだ。ラズリ様とあの人のことはもちろんだが、俺が惹かれたのはお前の父上のことだ。迷子と名乗ったのか、名付けられたのか。迷子スハーの類稀なる導き手の一言ひとことを俺は聞きたい。思い出せることは何でも書いておいてもらいたいのだ。人は明日という日がいつまでも待っていると思い込んでしまうというな。今している頼みごともまた、明日がこの車輪のように止らずに回り続けてくれるのを疑いたくないからだろう」俺はひとり言を発しているようなものだった。半歩下がって俺の半歩先を読む従者キナムは俺の左横に立っていながら、今は異なる時の中にいるかのようだ。スハーの子は二つの時を一つに生きるのだろう。それでよい。ベルドゥの子、ディリムはどうする。長駆せよ、と己に命じたいところだ。
    周囲はわずかずつ色合いが変わっていった。草を這わせていた土に岩塊が混ざりはじめ、水音が遠ざかり消え、土埃が増えた。老いていく人のようだ。日々会っていれば変わりように気づかない。そしていつの間にか変わり果てている。
    王子の隊は時折動きを止めた。徒歩の兵のための休息とは見えない。早くも戦車に異変が出はじめているのだろうかと危ぶんだが、三箇所目で理由がわかった。反吐だ。速足といっても熱風の季とはちがい根を上げる行軍ではない。戦場にあっては負傷者を隊列から離さない。しかし軍旅の落伍者は捨て置くことになっているので、繰り返される休止は探索行で疲労の極みにある先頭の者たちのためかと思えた。水場に着き隊列が解ける様子が聞こえてくるまでの間、六度の短い停止があった。
    旧道が通い路でないのは本当だ。陽が真上を過ぎ西に流れはじめるまで我らを追い越していく者、擦れ違う者はいなかった。行く手から最初に現れたのは、薬売りに姿を変えたキッギア戦車隊の兵だった。俺に乾し葉を譲ってくれた若い男だ。先行部隊は駆け続け青足鳥の尾羽の谷を抜けたという。兵の知らせは奇妙なものだった。尾羽の谷の出口から半分ほど手前まで渡河用の筏に似た丸太組が岩場に敷かれていて、その上を踏み通れば難儀は一切なかった。
    「筏といっても一つが兵士二人で運べるほどの大きさです。最近つくられたものではありませんが、置かれたのはそれほど以前ではないように思えます」駆け続けてきたにちがいないが疲れは見えず、すぐにも馳せ戻ることができそうな声だった。疲れ知らずの乾し果か丸薬でも噛んできたのだろう。
    「さて、どう考えたものか。この旧道を通るものはほんのわずかだ。軍の中隊規模の移動はあったかもしれないが、人手をかけてガレ場に橋をかける手間など取りはしない。おあつらえ向きに過ぎる
    戦車長が険しい目で前方を見やった。
    この旧道に入るのが決められたのは昨日で、罠を整える時間はない。いや罠は以前から仕掛けられていた。そして昨日、強引に旧道が選ばれたということか。
    「青足鳥の尾羽の谷は道の両側に兵を伏せておけるのですか」薬売りの頭巾を取り、戦車兵の甲に被り直している男に俺は尋ねた。
    「効きましたね」自分の頬を叩いて嬉しそうに笑ってから兵は口調を改めた。「岩の裂け目のような谷ですから駆け下りてくるのは無理でしょう。襲うつもりなら前後からの挟撃しかありません。こちら側から追い上げて、後退しかかったところを木道から攻め立てる」
    「護衛の兵たちだが、人数はあっても王子をお守りするにはまったく心もとない。王が帰られた後なら、間違えなく別な部隊を付けただろう。陰謀方にとってはメディア騎兵の同行は予定外かもしれないが
    無言だったアシュがツァルムの横に立って言った。
    「王子の隊列と擦れ違うとき、毒消しを求められましたよ」首から提げた革袋の一つを振る兵に「フラシム、隊列の様子はどうだった。病人は一人か」とツァルム戦車長が訊いた。
    「しゃがみこんでいたのは一人のようでした。水あたりや熱病ってことはないと思います」
    「途中で反吐を見たが
    「反吐といっても、しばらく何も喰っちゃいないでしょう、水気しか吐いていない。あの面では馬に乗せるのは酷だ。少々休ませたとしても行軍は適わないと思いますよ、私は
    俺はクシオスを呼び、分かっていることを残らず伝え、メディア兵たちの意見を聞きたいと話した。クシオスは弓兵たちの輪からすぐに戻ってきて「罠でしょう」と平然と言った。判断や具申も一任されているのだろう。「カドネツァル王子の獅子狩りがいつ決まったにせよ、その時から動き出した陰謀小細工と見ます。御国の混乱を待望しているのはアッシリアだけではございますまい。唆しに折れる心には何が餌となるのか思いも寄らぬもの
    「領内であろうと、思いもかけぬ厄介ごとが巡らされていることもある」俺はアスティヤデスの言葉を思い出して慄然とした。メディア弓兵が警護の助けになるとも言ったのだ。
    クシオスの言葉を皆に伝えると、「獅子狩りはつい先だって、新年祭がはじまる二日前のお達しだった。十日前であっても我々は不審など覚えなかった」と呟いたきりツァルムは押し黙った。
    わずか十日前だったのか。王座に懸かる獅子の毛皮を纏う夢見でもあったか。信じたいことのみを信じる王妃に夢を流し込むのはたやすいことだろう。
    戦車長が飲み込んだ言葉を拾い出すようにアシュが続けた。「ディリムを連れていったことはないけれど、父の領地から馬で三、四日のあたりに獅子のふぐりとも呼ばれる場所がある。黄金なすエトロクの丘と謳われた所だ。ふぐりなどと云われるのだから以前は獅子の繁殖地だったのだろうよ。獅子狩りと聞いたとき我々は、そしておそらく王もエトロクの丘を思った。思い込んでしまった。王子が探索隊を手配したと聞き首を傾げはしたが、容易ならぬ事態とまでは見なかった」
    「この道を取った探索隊だけが戻ってきたからだな」遠ざかっていく王子の部隊の先に俺は目を凝らした。新年祭の七日間を巧みに突いたのだ。王の眼が離れ、何もかもが手薄になる空白の七日を間に挟んだ。
    「野に魔法をかけると私たちの歌にあります」と言ったクシオスの目も街道の奥に投げられている。俺がアッカドの言葉に直すのを待ってクシオスは続けた。「恋の罠を仕掛ける女の歌、悲しい歌です」

  • 54

    王子たちの進む街道は西端に定まったとの知らせを受けて、キッギア将軍配下の戦車隊からは日没を待たずに二台の戦車とすべての荷駄、駱駝使い、護衛の軽装騎兵を先発させていた。早出したのは、青足鳥の尾羽の谷を戦車隊が大過なく抜けきる方策を探っておくためだ。八年前の様子と変わりなければ、おそらく同じであろうが、隊全部が立ち往生しかねない。
    合流したメディアの弓兵はそれぞれが替え馬を二頭ずつ連れており、振り分けにした荷袋を運ぶ馬が八頭、乳を搾るための山羊も三頭続いている。皆、輪鎖の模様を縫いこんだ白布で頭を包み、黒の革鎧で胸と胴を守っていた。月光に映え、馬上よりも王宮の宴席が似つかわしく思えたが、アスティヤデスに召命されはじめて弓師たちに見えた晩、この者たちがどのようないでたちだったのか、一向に思い出せなかった。
    我らは街道の口で王子たちを迎える。時と処の指令を何一つ受けずに行く手で待ち構える俺たちを目にして、王子は訝るだろうか、いかにして察知したのかと。
    ツァルム戦車長がアシュに一礼し手綱を振った。アシュに促され戦車を発進させて間もなく俺は目を見張った。両腕を垂らしたまま隣に立つキナムが床台に釘打たれた木像のように動かなかったからだ。馬上での曲乗りさえやってのけそうな腰の据わりをしている。稚気と思慮が一つに住まうハシース・シンの顔が浮かんだ。正しい星の下に出る術を知るスハーの子キナムは、覚師にとって捏ね上げ甲斐のある少年だったろう。
    調練場を擁しているためか一帯には鍛冶場が連なっている。しばらく炭と金気が漂う中を進んだが、キナムにとっては甲を砕いた事故の日を思い出す不愉快な匂いにちがいない。キナムの伯父エピヌーが武具を扱わないというのは表向きで、高官や部隊長の注文には応じ出来映えの評判も高いようだ。エピヌー自身が刀工の長となって火の色を検分し仕上げの槌を打つという。ハムリが俺のもつヒッタイトの鋼を欲しがったのは、刃を鍛える鍛冶職人としての興味だったとは思えないが。
    グラの嫁ぎ先はバビロンの鍛冶職と聞いていたが、鍛冶屋は都城全体で数十箇所あるはずだ、ここで目を凝らしても詮無い。新年祭の讃を唱えるのが俺だと言ったグラ。あいつはどこで俺の声を耳にしたのだろう。まだボルシッパのラズリ様の許にいて、自分の言葉通りになったのを気づいていないかもしれない。兄が妹の嫁入り先を差配するのは当たり前のことだし、まして相手は同業の者。それでも魂胆を疑ってしまうのは、ハムリの何もかもが俺を苛立たせるからだ。唾を吐くような音を潜らせて話しかけてきたはじめの日、奴の下唇は冷笑を宿したまま形を変えることはなかった。俺は気持を隠しはしなかった。そしてハムリは嫌悪の目を、時によって怯えの目を糧にする。己が相手の胸に芽生えさせる虫唾が奴を駆り立てるのだ。
    街道に着くまでに六箇所の荘園があった。どれも帰順した各地の都督たちが拝領した土地で、広大な果樹園を持っている。番小屋に篝火が置かれ、家宰らしき男たちが火の後に立ち覚束ない腰つきで目を泳がせている。見慣れないメディア兵の出現に日中ならば警戒するだろうが、真夜中の兵の通過は稀なのか。
    街道近くひときわ高い土塀を廻らせた居館には灯りがなかった。しかし息を殺して隊列を伺う人の気配があり、屋根に伏せる者たちの武器が月を受けている。荘園の守備にしては大げさなことだ。帰順をどう考えればよいのか、俺にはよくわからない。裏切り離反は、もっとも強き者たち、そしてこころ弱き者たちからはじまる。双方が誠を疑い探り合っているのだろうか。イシン王ヤシュジュブの声と顔が思い浮かんだ。ヤシュジュブの帰順は心底からのものにちがいない。ナボポラッサル王と自分との力の差を十分に測ったうえで腰を折り要職についた。度外れた忠誠心を証しだてるため、現王位を脅かす徴を暴き、種を暴き割り潰していく。ヤシュジュブからすれば咎なき者はいない。名指した者にこう言うのだ「裏切りの種が割れようとしている。自分で気づいておらぬだけだ」と。この俺を簒奪者とはじめに指差したのがヤシュジュブなのだ。王子はそのとき俺を疑いもせず試しもせず、ヤシュジュブを宥めた。同じ言葉が母から洩らされたとき、疑心のふいごに烈風が入ったのだ。母を知らぬ俺にはその力が読めない。審問官と王妃、王国の要にある二人から俺は不届きな料簡を抱く者と糾されている。明後日には帰城するナボポラッサル王にもまた、后たる人は同じことを告げるだろう。由緒を誇るアッカド王家の気位高き正后の言を剛の御方はどう処するのか。万一討手を差し向けられたら、俺は荒野の娘リリトゥの孫キナムとともに荒野に逃げる。
    街道口にはアカシアの古木が枝を広げており、根元に腰丈ほどの石像が埋まっていた。鑿痕は磨り減っているが、バビロニアのものでもアッシリアの手になるものでもなさそうだ。俺たちは西に傾いた月光のつくるアカシアの枝影の下に入り、王子の到着を待つことにした。前方に三騎、後に五騎の弓兵が見張りについた。指示の声は聞こえなかった。
    「精兵ですね」下馬して居並ぶメディア弓兵を見てツァルム戦車長が言った。街道は枝道と云える程度の幅だ。今は廃れ果てた交易地に通じていた道の遠い名残かもしれない。人跡が少なければ、大きな獅子の群れが動いていることもあるだろう。俺は下車し、アシュの戦車に近づいた。踝に夜明け前の冷気が流れる。掻き傷にことのほか効があると、戦車隊の一人が譲ってくれた乾し葉のおかげで頬の籠り熱は引いていた。
    「獅子狩りとキッギア戦車隊での訓練は后妃様が言い出したことなのかい」
    「訓練は王の意向だ。麦の種蒔きのころ王自ら父の荘園に立ち寄った。ディリムに手ほどきしたことを聞いてのことかもしれない。父はお断りした
    街道に目を向けたままアシュは答えた。
    「理由を知っているのか、アシュは」
    「知りたければ父に直に尋ねればよい。数日後に控えているのは訓練などではない。考えてもみろ、ディリムは何日私と共に走り回ったか」
    「俺は騎乗の仕方も知らなかった
    「なまくらも百日打てば剣らしきものになるということだ。こんどのアッシリアとの戦は駆け引きなしで平地での会戦で決着をつける、お互いがそう望んでいる。そのような死地で点検を怠る者たちを走らせることはできない。ナボポラッサル王ご自身がそのことをよくわかっておいでだ。動く城壁と云われる重装歩兵の堅陣を前にすると、馬たちも進むのをためらうそうだからな」ゆっくりと顔を振り向け声を落してアシュは続けた「私ははじめて父の隊に同行が許されたのだ。王子の親衛隊から外れたお前も一緒だろう」
    「額を称えよう、その日までに」俺の声は涙を含んでかすれていた。
    「冷えてきたな。夜が明ける」額を東の空に向けてアシュが言った。

  • 53

    「ディリム、必ず帰ってきて。約束してくれなきゃ駄目。だから花打ちをさせて。勇者を送り出すには何の花が相応しいのか知らないから、途中でハジルに手折ってもらったタマリスクよ。クルグリンナでは花打ちできないものね」イシャルは半泣きで言い、淡い赤の花房をつけた枝をハジルから受け取った。
    花打ちは本来、出陣を前にしての儀式、還らぬ覚悟の戦士が無事凱旋帰還することを願ってのものだ。どんな花が選ばれるのか俺も知らない。新年祭で平手打ちを受ける王は涙を流さねばならないが、戦士の涙は許されない。そして花打ちは頬から血の滲むのが好しとされるらしいが、イシャルの手でそこまでは無理だろう。
    「うんざりすることばかりで、人の心など信じられなくなりかけておりました。ここまで来てくださったこと、思いもかけない賜り物。おとめごイシャル様の花打ち、謹んでお受けいたします
    俺はイシャルの前で両膝をつき顎を上げた。
    いくつもの色の光が目の中で弾けた。涙も出てしまっただろう。花枝とイシャルの力を俺はみくびりすぎていた。イシャルの顔つきからすれば、頬に血が走っているのも確かだ。すぐに顔半分が熱くなり疼きだした。
    「どなたか水を」イシャルの声はすっかりうろたえている。
    「このままでよいのです。姫様は見事な花打ちをなされました」
    木の鏃も痛かったが、花枝が生んだ痛みは燃えながら息づいている。俺は立ち上がった。花枝の痛みが一緒に立ち上がる。イシャルは小さかった。俺と変わって跪いたのかと思えるほどだ。右手にもっているタマリスクの枝は大きかった。イシャルと俺のあいだに散り敷いた花粒が光を集めている。
    「時をつくってくださいましたよ、イシャル姫にまたお会いするための。あなたが私の肩に乗っていた邪気を祓ってくださったのです」
    口を曲げて泣き出すのを堪えていたイシャルが挑むように眼尻を据えた。水差しをもち手首に布を垂らしたキナムが進み出てきたのだ。首尾のよい侍人はイシャルの前で片膝をついた。あの子は隠し事があるとイシャルは言っていた。苛立ち、不審、イシャルが一息に飲み込んだのは何だったのか。タマリスクの花枝で、俺の血を吸った花枝でイシャルはキナムの頬をそっと撫で、垂れたままの左腕を肩から摩りおろした。キナムは俺とは真反対だ。思いを面に出すことがない、出すまいと心決めしている。仕えるとは、そういうことであろう。思いのままになど臣民には許されない。キナムも俺も否応なくバビロニア王国の臣民なのだ。ベルヌスたちが臆病なわけではない。衝には向かぬとカドネツァル王子に評された俺は、アスティヤデスの召命を受け得意顔だったろうか。
    キナムから目を離さずに花枝をハジルに戻し、油断なく水差しと布を取ると、イシャルは三度に分けて布に水を滲み込ませ、俺の頬に当てた。仕草は幼く、眼差しは大人びている。手元に戻した布を見る目が驚きに揺れ、幼い娘に返ったのは、血の痕が大きかったからだろう。
    「イシャル姫様、ご心配なされませんよう。キッギア将軍は将兵残らずの帰還こそ最大の勝利と常々申しております。いつどこで何が起ころうと、敗走の憂き目に会おうと、共に還るために逃げるのです。ましてやディリムはわが戦車隊に欠けてはならぬ者」
    これまで身動きひとつなく控えていた戦車隊のなかからツァルム戦車長が言上した。強兵の静けさは、殻を堅くし鼓動を消すのではなく、気配も熱も解き放ってしまう。メディア弓師も同様だった。俺はアシュたちを取り次いだ。
    「イシャル姫様、父王が片腕と恃むキッギア将軍の戦車長ツァルム殿と部隊の方々です。皆、父君と供に戦われています。そしてご息女アシュ様
    「皆様、取り乱し騒ぎ立ててお恥ずかしいことです。南中を待たずに朝の花を枯死させてしまう后妃の声が私を走らせました。戦に出るのではないとわかっていても、いくつもいくつも企みが埋められているように考えてしまって。カドゥリ兄様の半身があの后妃からできあがっているなんて信じられないことです。その半分のために愚にもつかない耳打ちを信じたんだわ。でも、こうして喚く私も后妃と同じね
    「父王は比類なきお方」とアシュが高々と言った。「強国アッシリアに対し、父王と共に戦うは武人の誉れ。カドネツァル王子の半身は四方世界を統べる高名な父王でできあがっております。姫様の半身もまた同じ。ディリムを護るのは、僭越な申しようながら、兄王子のお名を汚さぬことでもあります」
    「おっしゃる通り、こんなことは兄様のためにも父王のためにもいいことじゃありません。皆様方のお心遣い染み入ります」
    ハジルがイシャルに身を寄せ、一言囁いた。帰城を促したのだろう。それを見たキナムが膝をずらせてイシャルの正面に進み深く拝礼すると、花打ちを受けた頬と垂れた左腕を右手で擦り、もう一度体を屈めた。キナムもまた一身をもってと、イシャルに伝えようとしているのか、あるいは花打ちを授かった感謝なのか。水面に映る顔を確かめるように、イシャルもそっとキナムに向って腰を落した。隠し事を咎める目ではないが、キナムが何者なのか決めかねているのだろう。声はかけなかった。俺の頬を拭った布を渡すと驢馬まで小走りし、臣下の作法に則って長い拝礼をした。去っていく二人は一度も振り返らなかった。
    俺の顔を目にした戦車隊の面々は驚きを隠さず、そして愉快そうに口を揃えた。「小さき姫君ながら、天晴れな振舞でしたな。そのような花枝の痕は初めて見ました。アシュ様でも敵いますまい」「父上にも報告できるぞ。ディリムが花打ちで涙したと」「俺の真後ろにいながら何を言うか」「メディア弓兵たちもたまげるだろうよ」「正直に言うさ、勇者の徴だと。しかし、そんなに目立つ痕なのか
    「お前は痛くないのか」キナムの差し出した小壺の香油をアシュが俺の頬いっぱいに塗りのばしたので、タマリスクの花粉とクミンの香油の匂いが入り混じり、傷のひきつれが火照りだした。少しでも冷気が欲しくなったが、天幕の外も変わらなかった。
    馬を繋げばすぐに進発できるように整えられた戦車が傾きはじめた陽を集めている。夜の狩りに向う獅子たちも、このように蹲っているのだろうか。俺に用意された戦車を一巡りし、左右の車輪と車軸を掌と拳で触れ辿った。楡の木を使った車軸と柳でできた車輪が柔らかく力強く俺に応えたように感じられた。俺は車体に背を凭せて空を見上げた。顔を動かす度に頬の腫れが熾火のように燃え音をたてる。出発の刻にはきっと酷い面つきになっているにちがいない。天晴れな姫君だ。
    アシュが短剣の鞘で傷がない頬に触れた。「父上に似ていたぞ、戦車と話す仕草が。お互いを鼓舞するように、そして鎮めるように。それよりも武器を手放すな、どこにいようとだ」
    俺は起き上がり、短剣を帯に挿して訊いた。「犬どもはいつもこんなに吼えるのか」
    「犬だって刺客に仕立てられる。毒を塗った刃を咥えさせるというぞ」
    「花枝のほうがずっと恐ろしいさ。ツァルム殿の言葉、イシャル姫を落ち着かせるためとはいえ、嬉しかったよ」
    「戦車長は父上に頼んだのだ。二十日間ディリムを預からせてくれと。お前の目が欲しいと」
    「俺はそれほど遠目が利かない。アシュも知っているじゃないか」
    アシュが俺の一台向こうにある戦車に上がり、両手で車体の前覆いを掴んで言った。「遠目ではない」
    声とともに光が震える。内側から輝くのだ、アシュの額は。灯りの絶えた神廊でタシュメートゥーの神像が発光していたように。
    「樹上の目、櫓の目、丘の上の目さ。ディリムは目を飛ばすことができる。はじめの調練のとき、丘からお前の御を見ていて気づいたそうだ。お前に見えているものは他の者とは違っている。お前の目はまるで戦車長が立っているのと同じ高みにあって、隅々まで見渡しているかのようだと」
    「それは先ほどの矢合わせではじめて起こったことだ。ボルシッパでは高みどころか馬の鼻先さえ見えていなかった」
    「お前の力に気づいた戦車長の方が不思議だ。目利きは井戸掘りみたいなものだな。ディリム自身でさえ兆しも覚えなかった奥深い水脈を嗅ぎつけたのだからな」
    「アシュだって俺を父上に取り次いでくれたではないか。火の前で試されたぞ」
    「宦官に見紛うお前を推挙したのは私の目によってではない。それは多分あの場所の力さ」
    「あの穴蔵へはもう一度行きたいとずっと思っていた。いま気づいた。この剣はアシュが持っていた」
    「一度目にした武器は覚えておくものだ。運命に連れられてではなく、不注意で死なぬために」

  • 52

    内臓占いのバルゥ神官による託宣は「西方は凶」と出たという。四方面に遣わされた狩場の探索隊で帰還し知らせをもたらしたのは、キッギアの荘園からは最も遠い西よりの地のものだった。「未だかつて見たことがない群れの大きさ」と告げられカドネツァル王子は宣した。「三方面の者共はあてにならん。遠地の西端の隊の目と足を称えよう。早出すれば、費やす旅程を取り戻せよう」
    バルゥ神官は目を伏せて引き下がり、凶を示した牡牛の肝臓の皿を嗅ぎつけた犬に投げ与えようとしながらも怒りを抑えて詰め所に戻り、いつものように粘土をこね、占いの元となった臓を象った。そして凶兆の棚へ並べ置いた。
    王子たちが囲む占いの場に立会い、その後は神官の影に入るほどの間近で探り続けた結果を天幕の外から言上した影の声は四人だった。一人は老女だろう。この者たちは自ら目にしたことを語っているのではない。音と音の間に溝があって聞きづらいのは、粘土板を指読みしているからだ。探索と報告は別の者が担っていることになる。長い時間をかけて王宮深く入り込んだ者たちが大勢いるに違いない。王宮には列柱や壁の中に人一人潜める穴があるなどと噂されるのはこのような連中が泳ぎまわっているからだ。王の許可なく探りの目を張り巡らすのは無理だから、周到に耳目を配したのは覚師なのだろう。王子を探っている理由はわからないが。
    アシュもキッギア麾下の者たちも、寄せられた知らせの出所などまったく気にせず、目指すことになる西方の地形について話しはじめた。戦車長たちにとっては、王子を何事もなく迎え入れるのが最優先の任務だからか。外郭の掘割を過ぎて半日ほどで道はいきなり狭い古道と変わるらしい。そして二日目の行程で、青足鳥の尾羽と呼ばれるガレ谷に入る。
    谷は徒歩でも四半日の短い距離だが、戦車や荷車の二輪には不向きの隘路となるのだ。通ったことがあるのは最古参の戦車長ツァルムだけだった。八年前、侵入してきた正体不明の小部隊を追捕しようとしていたときのことだ。
    「敵は駱駝兵が中核で、ガレ場で引き離され補足できなかったのです。我々は馬を曳いていかねばなりませんでした。戦車となれば担ぐ破目になりかねません。輜重隊の荷も同じことになるでしょう。王子の偵察隊は戦車の行軍をまったく考慮に入れていないのでしょうかね。獅子狩りの前に掌が豆だらけになりますよ。八年で地形が動き岩塊が流れ去っているのを祈るほかありません

    「荷はこれ以上増やしたくないところですが、石切用の荒縄と棕櫚莚を用意していきましょう
    アシュは戦車長たちを見回した。
    「空荷の駱駝も五、六頭連れていきます。凶など踏みしだいて行けという王子の気負いはともかく、凶兆よりも手強いのが尖り石の隘路ですからね
    鷹揚に苦笑まじりにツァルム戦車長が答えた。
    出立に関わる知らせが一つも戦車隊に伝えられないのは、この俺がここにいるという、ただそれだけのことからなのか。随いてくるなら勝手にせよと。傲慢にも足らない児戯ではないか。俺への疎ましさが昂じつめたとしても、バビロニア軍の要となる軍団長に対して、かくも敬意を欠いた仕儀は王子とはいえ、いや王子だからこそ慎むべきだろう。少なくとも今はまだ無官者の寄せ集めの小隊こそ随いていく者たちなのだ。
    吹き寄せ積もる怒りの粒に息を奪われかけていた俺は、キナムに肘を捉まれ、そのまま曳かれるように天幕の外に出た。戦車の縁で砕ける散光をまともに受けて目がくらみ、姿より先に声が届いた。
    「間に合った。ディリムに言いたかったの、カドリ兄様は間違っている。ドゥッガさんもベルヌスのことを酷く怒っているけれど、ベルヌスたちはしょうがないわ、臆病かもしれないけれど、家来なんですもの。耳打ちを真に受けた兄様よ、馬鹿なのは。焚きつけたのはあいつだわ」
    埃と陽の匂いをまとったイシャル姫を驢馬に乗せてきたのは片腕のハジルだった。
    「早耳のイシャル姫様、あいつなどと言ってはいけません。山羊の目やにどもでしょう

    「それは手下の方。都合の悪い話を誰よりも早くご注進するのが覚えを確かにする術だと知っている官女たち。あの女たちは黄泉の使い魔より始末が悪いの。目やにまみれのご注進をたっぷり寄進された元締めがカドゥリ兄様を迷わせたんだわ。マルドゥク神の信任寵愛を享けるのは、長子たるあなたです。あの声ばかりが大きい粘土板使いを近づけてはなりません。己は王の落し胤とまで吹聴していると聞きましたよ」イシャルは声音まで変えてまくしたてた。
    王妃を元締めとはイシャルらしい言い様だ。俺がまったく迂闊だった。関心事は我が子の即位のみとなった后であれば、ものみな疑心を軸に回っている。落し胤ときたわけだ。一粒の毒麦だ。一夜にして伸び立ち、食された。俺ははっきりと簒奪者と見做されている。始末の悪い使い魔を自在に操つる奴の狙いは目論み通りに運んだのだ。王が知れば、すでに知っているだろうが、呵呵大笑し、俺の落し胤など珍しくもないと言い放つだろう。しかしカドネツァル王子が示した動揺についてはどうなのだろう。買い被り見誤っていたか。俺こそ、ナボポラッサル王の長子という冠の眩さで判断を誤ったのだろう。衣冠に膝折るとき、我らは自ずと王国の臣下となる。我らは王国と王国を横切っていくものだ、と父ビルドゥは言った。
    同盟軍を得てもなお、バビロニアは優位を取ったわけではない。内紛は時を捨てることだ。我らにそのような時はない。ない時を蝕む後宮のから騒ぎ。際どい衝や血反吐にまみれる調練の積み重ねが、凝り固まった后の一念で砂に還されてはならない。ナボポラッサル王が耳目を幾重にも張り巡らせたのは憂いよりも怒りであったろう。
    メディア騎兵をキッギア将軍に目通りさせたら、俺は王宮から遠く離れようと思いなしていたが、落し胤と目されては無理となった。遠方の闇は濃い。遠くにあれば忘れられるわけではない。むしろ逆だ。何をしでかすかと疑いは際限なく溢れる。あらゆる方位が俺には凶だということだ。俺は真水だ。饐えた革袋を被せられるのは御免だ。

  • 51

    帰路の途中までメディア王子に同道しているナボポラッサル王が王宮に戻り次第、軍旅は発せられる。新年祭明けとはいえ、輜重隊の召集はすでにおこなわれ、北門のあたりは怒声駄獣の軋りで熱を帯びているだろう。調練場には底籠った城内からの音も間遠に聞こえてくるだけだ。アシュと戦車、それだけがある。白く光る空と地。空と地が反り返り、大波を映しあい、俺の足元を浚いはじめる。夢に橋が架かる。遠い思い出なのか、予感なのか。砂と光だ。砂と光の中から滲み出ようとしているものを俺は待つ。足指の間を流れる砂音が聞こえていた。聞こえていたか。戦車とアシュだけを見ていたことなどなかった。なかったのに覚えがあると感じるのはなぜだ。耳にはない砂音。砂は埋める。砂は忘れさせる。
    「掌なぞ見つめやがって、爺むさい仕草をするな」胸の矢痕に拳を当てアシュが言った。誰かに聞かれるのを避けるような小声だった。
    「木の鏃はこれほど痛かったかな
    「お前の胸が膨らんだせいだ」
    「そうか、アシュは痛かったのだな、俺より」俺もアシュの手首を掴んだ。アシュの軽口と手首のしなやかな肌触りが俺を砂音から救い出す。
    「それよりディリム、王子と取り巻きの戦車を見ているのは誰だ」
    「俺は知らない。今度の旅程ではキッギア様から遣わされた方が付くのではないのか」
    「私と一緒に来た五車の誰も命を受けていない。父の隊の者が見ていれば戦車を直させる。あの車輪に気づかぬようでは、率い手としては無論、御も許されない。全部を見たわけではないが、二台は駄目だ。獅子狩りを無事に終えるのは無理だろうな。もっと早いかもしれない。今のお前には難しいが、なんとか気づかせろ」
    「やっかいだな。寵など俺には無用だが、剥奪されたとなると誰一人近づいてこない。徴つきを遠ざけるみたいにな。讃を謳った直後引き入れられ、翌朝には蹴りだされたのだから寵とも云えないがね。アシュは俺が謳った讃を聞いたかい」
    「父の兵と一緒だった。皆すぐに分かったよ、降ってくるのがディリムの声だと。そうだな、あれもディリムであり、ディリムをはるかに超えていた。シャマシュ神に紛う声と身を震わせる街の者も大勢いた」
    「神殿の讃にせよ、先ほどの御のときでも、俺は我を忘れていたわけじゃない。大きな力が俺の裡に入ったのなら、俺はたちどころに、まったき光の中に鎖されていたはずだ。自分がどのようなものなのか、ますます心許なくなっている」
    「お前があやういのは持っているもの以上に大きく見られてしまうからだよ
    「その通りさ。先ほどのクシオスの言など、アシュはともかく俺には当たらん」
    「いや、今日の御には私も大いに昂ぶった。あの御にして私もいつにない力をもったのだ。そうでなければ、二人ともメディア騎兵たちに真っ赤にされていたさ。軍神の降臨だよ。なぜなら、矢合わせの前に二人で追い乗りをしたときの御、あれが牛使い並みのディリムの技だからな
    「そして間の悪いことに、俺のものではない力をたっぷりと見られてしまったわけだ。それにしてもだ、カドネツァル王子が世継ぎに相応しいのは邦中疑う者はいない。王子自身、脅かす者なしと豪語していた。三日のうちに四万を動員する王が父。それを同盟軍とはいえ、異邦の気まぐれ一つで大転びするのは、俺にはまったく合点がいかない」
    「その異邦からの名指しゆえなのさ。バビロニア内であれば、ディリムがどれほど声高く誉めそやされようと、並びなき武勇と一身に喝采を受けようとも、王子たる己と競いあうものではなかった。召し寄せれば、人もまた己を飾る宝玉の一個となる。しかし異邦の手が掴むのはより強く輝く者だ。メディア王子の思惑がどうだったにせよ、比べられたうえで、退けられたと感じたのだろう。権高な寵姫の嫉妬みたいなものさ。もがいても詮無い、気弱になるな。事あれば、私がこの胸で盾になってやるさ。早くその矢痕を流せ」
    水場の手桶の一つを俺に放り、自分は木樋からの流水を両手で受けて首筋を洗いはじめたとき、キナムが姿をあらわした。
    「貴顕に仕える侍人のごとくではないか」水差しと手拭を受け取ってアシュが笑った。
    俺にも手拭を渡してから、キナムは帯に挟んでいた小さな木片を差し出した。
    「知らせを受けたのか」と問う俺にキナムは首を振った。
    「出発は明朝だそうだ」と木片にある報せをアシュに伝え、赤く染まった手拭を丁寧に漱いだ
    「ハシース・シン様に見込まれているだけのことはあるな、キナム。ディリムよりよほど首尾がよいではないか。幼さ、頼りなさは見かけだけか
    覚師とてあらゆる事に合わせて網を広げておけるはずもなかろう。確かにキナムは正しい星の下に出る術を体得しているのだ。スハーの血、エリュシティの瞳。そうだ、幼さは見かけだけだろう。エリュシティの子なのだから、俺よりずっと年嵩のはずだ。
    「キナム、俺の横に乗れ。メディア兵たちに伝えよう。あいつらなら今すぐにでも発てるだろうが。アシュ、この街にも父上の穀倉はあるかい。糧食の手配は我らの領分だ
    「弓師の部隊はバビロニアの穀を頼りにしてはいないだろうが、整えておこう。お世継ぎはやたらと逸っているな。ディリム以上にあやうい。明日では戦車の修理が間に合わないし、我らが予備を牽いていく訳にもいかない。獅子を見つけたらお前の戦車に乗せてやれ」
    「その栄誉はアシュに譲ることにしよう。着替えておけよ。困ったもので、目が導かれる
    「導かれるままでよいではないか」
    「いや、俺が第一に見ていたいのはアシュの額だ」言葉通りアシュの額を見据えてから、手綱を取りキナムを促した。
    「変な奴だな、胸より額か。キナム、我らはいつもこんな気の抜けたやり取りをしている訳ではないぞ」
    「変ではない。アシュの額は美しい」
    「では、讃をつくれ。私の額の美しさとやらをバビロン中に喧伝するのだ」アシュは戦車を押し出すように車輪を蹴った。
    さっきのメディア兵との乱戦の中でも讃を想った。神殿で謳ううちに、俺の耳裡が耕されたのだ。昼夜を共にするこの旅程の間にアシュの額を謳いあげてみよう。

  • 50

    クシオスの三隊目は闘気を見せず、三騎ずつ四列で俺たちに向ってくる。並足だ。矢を番えようともしていない。閲兵の場に進み入るようにも両者を隔てる川を渉ろうとしているようにも思われた。
    前触れなしに視界が変わった。砕いた骨片が白く撥ねる訓練場全体が、十二人の騎兵の顔が、そして俺の隣にいるアシュの目までがつぶさに現れている。俺の眼窩に別な生き物の目が嵌め込まれたのか。ガゼルの、川魚の、岩燕の目。何もかもが一度に見えてしまうぞ。眸なきもの、あの一所から動かぬ香柏に俺たちに見えない眸があるとすれば、周りはこのように見えているのかもしれない。根と幹、そして一つひとつの葉に眸を潜めているのであれば。
    俺は手綱を振って戦車の馬を跳躍させた。光の筒となって中空を穿つ十二本の矢。車輪が地に触れる前にアシュが一矢放ち、残り矢は双方十一本ずつとなった。
    クシオスが発した二音の短い号令で、馬群が縦横に行き交いはじめた。それぞれが勝手に馬慣らしをしているような動きだ。矢合わせの只中とは思えない。鳴き交わす鳥のようであり、石切り場の谺のようであり、嵐の先駆けのようでもあるメディア人たちの符牒の声。弓師たちはいっせいに矢を射掛ける時を待っているのか、つくっているのか。回転の向きや速度を小刻みに変えながら伸び縮みする騎兵の広がりに呑まれぬよう、俺は戦車を高架台の下に寄せた。それだけのことで視界が揺れ、額が沸騰している。掌には軋む手綱。戦車の台座を踏みしめる両足。しかし俺の目は唸りを発して回る石投げの袋だ。肩上から俺たちを見下ろすカドネツァル王子たちも俺の視野にある。アシュは微笑んでいる、微笑んでいる。俺の目はどこに付いている。これで御するのは無理だ。地割れの縁で爪立っているような今の俺は腐れた車軸より始末が悪い。会戦の最中にこの目を嵌め込まれたら、尾を噛もうとする狂い犬となって潰走のきっかけをつくるだろう。
    ほぼ同時に十頭が歩みを止めた。動かぬ騎兵は騎兵ではない。騎兵として馬を走らせているのはクシオス一人だ。クシオスは囮であり、こちらの出方で最後の射手となるのだろう。前後二頭ずつとなったメディア騎兵をつなぐ線はちぐはぐだ。なんの形になぞらえよう。暢気な思いがよぎった。麦刈り鎌だな。麦刈り鎌が二本並べ置かれている。今放てば、アシュの矢は前の五人とも楽に仕留めるはずだ。アシュは若い弓師たちの策を見ているのだ。メディア人たちにも、アシュが待つという確信があるのだ。策の行方を楽しんでいるアシュは俺の異変に勘付いているのだろうか。
    異変のはじまりは神殿の讃だ。いかように張り上げても、俺の声がドゥッガの窯まで届くはずがない。大風の背に乗ってあまねき渡った俺の讃。そして宮殿では耳だった。万匹の蜜蜂を使者として音を集め言葉をつくり、耳の裡に運び入れ積み上げた。タシュメートゥー神が俺の夢を飲んでいったように、あずかり知らぬ力が俺の喉に耳に目にひととき宿りする。俺は力を使う者ではない。はじめて駱駝の背に乗った幼子のように翻弄されるだけだ。
    天碧を背に中空で旋回する鷹の目をもつ俺は、若い弓師たちの策に気づいた。思いもかけないことだが、馬を止めている処から推せばそれしかない。五頭の脚の下にはいずれも落ちた矢がある。前に置かれた麦刈り鎌は盾だ。後列の五騎が体勢を崩して落ちている矢を拾い、二矢を持つ時をつくるための盾。「二本しかないと考えるな」というアシュの言を弓兵たちは策としたのだ。馬上の者たちが典礼に則っているかのように、ゆっくりと矢を番えた。
    俺は自分の動きを空の高みから見ている。クシオスが後列の鎌の刃先に馬首を向けた。戦車を斜行させ、俺は一気に前列の鎌との距離を縮め、鎌の柄から反転して二列の間に割り入った。五頭の鼻先を薙ぐように走り抜ける間に、アシュは十本の矢を悉く手投げして弓師たちの胸と背に赤を印し、残った一矢を番えた。その間に息継ぎひとつなかった。メディア騎兵たちの短い呻き、馬たちの歯噛み、アシュの矢音の中で、俺はこの場の讃を刻みたいと胸弾ませている。我知らず謳っていたか。
    撃たれる自分を見るのは奇妙なものだ。避けられないと気づいたのは、痛みで息を詰まらせた後だったように思えた。それが一本だけ放たれた矢だった。クシオスの左胸も赤く染まっている。
    「相撃ちではないぞ。お前たちの勝ちだ。見事な一矢だったぞ
    俺はアシュの言葉をすぐに大声で伝えた。俺が矢を受けたとき、アシュの矢はまだクシオスを捉えていなかったのだ。三十六人の騎兵たちが駆け寄り、戦車上の俺たちを左右から供奉するように包んで片膝をついた。赤く印された胸と背を眺め渡すと、アシュの弓の技量に息を呑んだ。神軍の一翼に並ぶこともできるだろう。
    痛みのせいか、俺はいつもの視界を取り戻していたが、高架台からの眼差しは赤く染まった俺の胸を刳り抜くほどに感じられる。弓師たちが伏しているのは女神と見紛う射手に対してだが、かの人はそう見ないのだ。
    「心強い味方を得たものだな、我らが邦は。お前たちを鍛えた長にお目にかかりたいものだ」
    「ディリム様はすでに。アスティヤデス王子なれば」
    「何だと、王子が直々に調練されるのか」
    「殿は戦車を御されませんが。戦車も騎馬隊も指揮されるのはサーム将軍だけです」
    「ご覧いただければよかったな、お前たちの戦ぶりを」姉の目を見せてアシュが言い顎を上げたとき、まなじりが翳った。
    「アスティヤデス王子、サーム将軍のお目に間違えはございませんでした。我が王子にこそ、お二人の姿を」
    若輩どころではない。年回りこそ青衣たちと変わりないが、クシオスはメディア王子の副官の一人だろう。王子の意を体している。
    「今日明日、痛みは残る。井戸釣瓶が辛いぞ。水汲み役は気の毒だな」と告げ、騎兵を解散させた。振り向くと、高架台に残っているのはベルヌス一人だった。言っておきたいことがあるような気がしたが、ベルヌスは俺の目をはぐらかすように背を向けた。木の実の匂いが咽るようだ。アシュと二人して全身を赤く染めていたころには気にならなかった染料の匂いだ。水場に向う弓師たちの馬音が遠ざかっていく。馬柵に繋いだ俺の戦車と二頭の馬が逝きて還らぬ乗り手を待っているかのようだ。

  • 49

    先手に配された十二人がバルスを先頭に左手に短弓を携えそれぞれの馬に跨った。一人ひとりの顔の見分けはつくけれど、俺の目の力では的にした丸が遠霞している。右手を振り下ろし開戦の合図をすると、弓兵たちは左右に割れ俺たちを包み込む動きを取った。発進の命を出さずにアシュが続けざまに放った矢で二人のメディア兵がのけぞり動きを止めた。鉄鏃の代わりに重い木片を付けた矢を身に受けると、目の中で光が弾けるように痛み、その後数日は痣が消えないことになる。
    俺が右方向に戦車を捩り、側面をさらす形で直進させると、六本の矢が後を抜けていった。弓師たちの読みより戦車が速いのだろう。左から展開してくるメディア兵と擦れ違いながらアシュは二矢を放ち、背後から追ってくる者たち五人を次々と捉え脱落させた。残る三騎に対しては鞭のように戦車を進退させる中で勝負をつけたアシュはすぐに全員を集めた。
    「外から見ていた二隊三隊の者たちははっきり気づいたと思う。戦車上の射手は後を取られても追っ手に向き合って矢を放てる。騎兵も肩越しに打てるが、ずっと的を定めにくい。まだそれを知らぬから少しの油断があらわれたということだ。二隊目の者は我らが矢を拾い集める間に作戦を練り直しておけ」
    一矢も放たなかった者、一矢を残している弓兵から残り矢を受け取り、調練場に散らばる矢を探すアシュと俺を、王子と傍らに侍る八人が揃って高架台の最前列に並び、言葉を交し合う様子もなく見下ろしている。高官らしいもう一組の三人は顔を寄せ頷きあっているようだ。俺が膝下の兵の武力をことさら誇示していると思われるのは必定だ。若いメディア兵が目を見張る動きを展開するほど、カドネツァル王子は奪われたものの大きさに歯噛みすることになる。
    戦の行方は流れ矢一本で回転する。勝利を掴みかけていた手がいきなり敵の手に変わる早さは妖魔の誑かしのごとくだという。アッシリアとの会戦は三度の望月を待たずに始まる。拮抗する敵に当たる前にメディア王子が同盟国に内紛混乱の囁きを洩らしていったとはやはり解せない。そもそも魂胆などなかったのかもしれない。かの邦では、無名無官の若輩を称揚してみせることが相手邦への尊崇で、ナポボラッサル王は敬意とそのまま受け取ったが、カドネツァル王子は自分を軽く遇されたと感じた。度量を示すつもりのあれやこれやの言葉は王に倣っているだけの借り物で、己の狭量を突きつけられ度を失ったのかもしれない。
    「王子として生まれたゆえ、指先ひとつで事も人も我が物となる、思い通りとなる。簡単すぎる。父はそうではなかった。私もそうであってはならぬ。必要とあれば私に異を唱えよ。獅子狩りは丁度よい。私が王子であることを認めぬ獅子は決して容赦してくれないからな」そう話した翌朝、王子は俺を斥け、キナムと俺は王宮の居場所を失った。旅の備えで天幕に移る日だったから不都合はないが、俺の行くところすべてに王子の苛立ちが臭っている。青衣の八人が今どのように考えているにせよ、王子に異を唱える者はいなかった。生焼けの煉瓦で神殿は築けず、半煮えの男に王国を統べることはできないと思うが、王子の心内を覗き決めつけるのは俺の傲慢さであろう。思いが顔に表れると云われた俺だ。狭量を暴き、恨み憤激を引き出してしまったのは俺の浅慮。さしずめ俺は手負いの獅子だが、俺は獅子のようにではなく、野兎のように、砂蛇のように、鶉のように首を竦め身を潜めてキッギア将軍の許へ逃げ込まなければならない。猪の牙なれば、愚かな最期となっても自分ゆえだったが、獅子狩りの後矢で果てたとあっては、無念の歯噛みで冥府が俺の住処となろう。悋気は死してなお生き残る。冥府の彷徨人の多くは舌を呑み込むほどの悋気の叫びのまま逝った者たちだという。悋気は永劫の冥府へ真直ぐ繋がっている。悋気で屠られた者もまた同じ沼でもがくのだろうか。
    開戦の合図を受けると、第二隊は一気に駆け寄せてきた。手綱を握らず矢を番えたままの突進だったが、決着は第一隊の時より早く、俺たちの間近を襲ったのは、戦車の縁を滑った矢と、拳三つ分の頭上を走った矢がそれぞれ一本だけだった。
    「一車に対して大隊同士の戦法を仕掛けて功を奏するのは難しかろう。三百の敵があれば、三百の掃射が十分生きようが」
    戦車に乗ったまま作戦の是非を説くアシュに「畏れながら」と痛みを堪えながらの顔つきでアーバが言った。「いつも使う鉄鏃なれば、外さぬ矢が何本かあったはずかと。この場で使えぬことは承知でお尋ねいたします」
    王族だからなのか、アーバの口調には臆するところがない。アシュは下車して矢を二本拾い、アーバに差し出して言った。「その通りだ。それゆえお前たちには二本ずつ渡したのだ。一矢使えば矢先を見つけられよう。お前の矢継ぎの速さは見事だった。しかし指は矢を覚えていたはずなのに、その速さに頼って息を乱した」
    アスティヤデスに似たところは一切ないアーバの目が隠しようもなく輝いた。
    「そしてもう一つ、この調練場は戦車の方に利がある。凹凸が一切なく平地だからな。戦車はガレ場にはまったく向かないし、隘路や溝にも阻まれる。お前たちのように応変に手綱を捌けなくなる。戦車の利は二人ということだ。お互いを護りあって乱軍の間を縫い回れる、それも御の腕次第。今のディリムに私の命を預けたくはないので、お前たちの矢を浴びるのは我らにとっても格好の機会なのだ。知を尽くせ、この戦いは自分に二本しかないと考えるな。二十四本を使って一本が必中すればよいのだ」
    俺はアシュの思いを壊さぬようメディアの言葉を選び伝えたかった。その口調は、アシュを引き継いで俺を鍛え上げたキッギア将軍を思い起こさせた。将軍は容赦ないが見下すことはなかったのだ。俺もまたこの若者たちのように小さく頷きながらキッギア将軍の言葉を聞いていたのだろう。メディア騎兵たちが見せる己の未熟を愧じるゆえの気負いと王子から直に選び出された小隊にいることの誇りの香りをアシュは好んでいる。騎兵たちもまた、バビロニア王国随一のキッギア将軍の一人娘と知って畏まっているのではなく、アシュから発せられる苛烈な武の眩さに圧倒されているのだ。

  • 48

    遠巻きに見ていたメディアの弓師たちが一様に言問い顔で近づいてきた。汗はなかったが、刈り込んだ髪から日なたの匂いがした。調練場をいっぱいに使って二頭立て戦車を御するアシュに若者たちは気を奪われている。メディアでは尚武の女を見ることはないのだろうか。
    俺は自分の戦車に乗り、引き具を確かめてから「あの人は私の戦車の師だ、見ていよ」と言い、アシュの方へ馬を駆った。数十日も戦車に乗っていなかったから、車軸の軋み、足裏に伝わる揺れ、掌に食い込む手綱の感触に我知らず大きな掛け声が出た。アシュの戦車に並びかけ、初めのころの調練法にしたがって並足で併走し、速足でもう二周、全速力でのすれ違いを五回おこなった。小さな渦をつくる接近戦を試すと、三度反転しただけでアシュに後を取られていた。
    「ディリム、親父殿に見せられんぞ」
    久方ぶりの叱責さえ心地よかった。
    「確かに。たった三回でやられるとは」
    「一度で首尾を決められたが、あの者たちの手前、抜いてやったのだ」
    「そうか、それさえも気づかなかったよ」
    二千の大隊どうしの戦闘訓練ができると云われる調練場はバビロンの南門から十スタジオン(約1.8キロ)ほどで、四囲を日干し煉瓦で囲繞し、さらに五列の樹木帯と水路で囲ってある。明後日の出発のための荷駄も近くに集められ、メディア弓師たちも天幕を移してきていた。調練場を見渡せるよう組まれている高架台に寛衣姿のベルヌスたちが見えた。カドネツァル王子は来ていないようだ。
    俺は居並ぶ弓師たちの前に戦車を寄せ、「我が師アシュがお前たちの馬追いを見たいと言っている。クシオス、すぐにやってみよ」上気した顔つきの騎馬弓兵たちを煽り立てるように命じた。王族が自らの食い物を分かつことがメディアでは玉璽を賜るのと同じ重さがあるようだった。年回りが変わらぬ異国の俺に対し、弓師たちは額づくばかりにへりくだっている。高架台と向き合う側の壁近くまで戦車を移すアシュについて俺も早朝の影が伸びる木の影の下に入った。馬柵に向って走る姿にもメディア騎兵隊の厳格な統率が見て取れる。
    「馬を使わずとも素軽い奴らだな」アシュには珍しいやわらかな口調だった。
    馬群の先頭はバルス、最後尾にクシオスがいる。若者たちは巡り方を違えながら並足で調練場を四回ずつ走らせた。三十六頭は長い布が風に乗っているようにゆったりと流れていた。やがて馬群は二つに分かれ、三隊に割れて伸び縮みを繰り返した。矢を取り番える速さは息を呑むほどで、馬の腹と兵の背にある箙のどちらから引き抜いたかさえ見逃していた。予備兵の手練さえ侮りがたいとすれば、本隊が駆け回る戦場の様はどうなるのだろう。
    「ディリム、私の左に」俺に御を務めるようアシュは言い「試してみるぞ、ディリムの力のほどを。未熟者なれば留守居役としてもらおう。カドネツァル王子もご覧だからな」と真顔で付け加えた。俺はアシュの命じるまま、横隊をつくっている弓師たちの馬を掠める近さに戦車を寄せ、反転して背後を駆け抜けた。若者も馬も間近を戦車に走られるのは初めてなのだろう、正面に戦車を出したとき、メディアの馬の半分が落ち着かない動きを残していた。横隊の真ん中に戦車を突っ切らせ「取り囲んでみよ」と怒鳴ると、何人かが怯まずに馬首を返し、追う態勢を取ってきた。馬群を廻して包囲しようとクシオスが発する声は集散の符丁らしく、たちまち乱れが収まった。俺が遁走の態で調練場の北角に向けて突進し急反転すると、慣れない馬と乗り手は大きく左右に傾いで道をあけた。それでも寄せてこようとする幾頭かの騎兵を車体で小突くように振り払ったが、メディアの馬を傷つけずに終えるのが俺の技量の精一杯だ。俺は二度クシオスの進路を斜めに横切って前進を阻み、一気に北角に封じ込んだ。戦車から降り、クシオスに話しかけるアシュの言葉を俺は取り次いだ。
    「戦車の動きはわかってもらえただろう。矢合わせを所望したい。兵をまとめて東の馬柵の前に」
    「ディリム様、馬たちを守ってくださりありがとうございました」荒い息のままクシオスは一礼した。
    「当たり前だ。メディアの天秤では馬一頭、兵二十と聞いたからな。見ての通り俺も必死だった。お互いよい訓練になる、今一度手合わせしよう」
    戦車に戻ってアシュは拳で左胸を叩いた。赤染料を塗った矢を使うのだ。ボルシッパでは何日もの間、訓練の後は全身に散った染料を洗わねばならなかった。「しっかりしろ、このままでは染み付いて落とせなくなるぞ」とアシュは毒づき、俺の横で裸の胸を擦った。二人とも上半身裸で戦車を乗り回したのだ。
    諸肌になった俺の胸と左肩甲骨の下にアシュは消し炭で丸を書くと「ディリムの気が散って御の手元が狂うとまずい。私の的はここだ」と言い、乳房に巻いた白布の上に自分で丸を書き背を向けた。
    「そのまま伝えろよ」と言うアシュには従わず、メディア人たちにそれぞれ的を書かせ、盥の赤い水に漬けた矢を二本ずつ配った。
    「十二名ずつの隊をつくるのだ。お前たちの矢が私たちどちらかの的に赤を印したら、そこで勝だ。その前に的に当てられた者、二本とも矢を外した者はすぐに下馬して離れろ。アシュが持つ十二本のうち一本でも外せば、そのときもお前たちが勝を取る」
    「あの方はどんな揺れのなかでも一度も車体に手を触れず、腕を組んだままだった。よほど気を引き締めてかからぬと大恥をさらすぞ」模擬戦の準備で上っ調子になりかけた仲間を諌めるバルスの声を後に、俺たちは高架台の下へ歩いた。櫓にはアシュの言ったように王子の姿も見える。王子や九人と離れた場所に数人の男たちが立っていた。王宮とは違い、厳しい誰何があるわけではないが、王子の近くに平然と控えているのだから王家に連なる人々かもしれない。アシュと俺は膝を折って拝礼した。思った通り、上からの言葉かけはなかった。
    バビロニアとしては、メディア王子の懇請に異を唱えるのは無理だったろう。カドネツァル王子を飛び越えて俺がアスティヤデス直属の兵を預かる大権を持ったことは、あれやこれやの憶測を走らせた。なによりもカドネツァル王子が不快を隠さず、口を極めての俺への賛辞が瞬く間に覆った。メディアから第一に望まれたことが俺の罪。王子が磊落さを示すのは、己の望むものが満たされたうえでのことだ。不興の元が王子とあっては、ドゥッガの忠告も空しい。アスティヤデスは同盟国の中枢を値踏みするつもりで、メディアに関わりがある俺を利用しているのかもしれない。戦勝国として並び立ったときの世継ぎの器量をはかることぐらいはやってのけよう。
    砂漠で月光に照らされるごとく、俺は逃げ場もなく這い回ることになる。意に沿わぬ将を死地に遣わせ葬る話は文書にも数多ある。獅子狩りの中で後矢を打たれ、メディアに救われた命がメディアの思惑で奪われることになるのか。
    「御曹司はなかなかに分かりやすいな。ディリム、こんなことで血迷うなよ。メディア人たちの勇武は噂通りだ。メディア王子はたばかったな。こいつらは若いが、少なくとも六人に兵を率いる才がありそうだ。どのような目で見られていようと、我らは戦車を楽しめばよい。それだけの値打ちはある」
    アシュの言に押され、俺は手綱を取った。死に場所は選べないが、戦いは俺の手の中にある。

  • 47

    広間の賑わいが増していた。戦の帰趨を握る者の居場所は片時も見失ってはならないのに、アスティヤデスの姿が見えない。野放図な飲み食いが礼に適う新年際にありながら、アスティヤデスは寛ぎを妨げるのだ。あの男はメディア王宮の中にあっても異邦の王子のようであり続けているのかもしれない。構えを解くなと言ったはずのウッビブからして、今は武器など握れぬ脂にまみれた手をしている。酒盃を持っていないのはベルヌスだけだ。
    溜息がひとつ出た。この小さな息のたった一日の連なりのなかで、俺はナブー神の讃を謳い、メディア王子に揺さぶられている。昨日は陽炎の向こうだが、昨日が遠いのは募ってきた空腹のせいかもしれない。俺は今日の讃のために一昼夜の食絶ちをした。二日間で腹に入れたものはドゥッガの仕事場での一掴みの乾し果だけだ。娘が運んでくるものを待つつもりで、ウッビブが取り分けてくれた炙り肉を断ったものの、いったん気になると空腹が剥がれなくなった。「腹の中で顎が吼えるぜ」船乗りたちの言い草を思い出した。「喰えるときを手放すな」メディア語で呟いてみると、七日喰っていない者のように舌がもつれている。見苦しいことだな、ディリム、腹減らしが食い物に溺れているではないか。
    焼き菓子の匂いからだろう、「それでは簡単すぎる」と覚師に反論したナディンが思い出され、砂煙の向こうから寄せてくるアッシリア軍の鉄塊が額の内で脈打つ気がした。
    「ナディア、前にも口にしたことがあるのか、これを」両手で高い脚付きの銀器を運んできた娘を俺はナディンに寄せた名で呼んでいた。娘は俺の問いに答えず、「アスティヤデス王子があなた様をご召命になりました」とメディア語で言い、銀器を差し出した。菓子を載せた器は武具のように重かった。腹減らしのままアスティヤデスと相対したくはなかったが、娘は葦原に射す曙光のように、ためらうことなく人群れの間を歩いていく。俺は供物を捧げる儀礼神官の姿でメディア王子に拝謁することになるのか。
    水路のように連なる灯皿の炎を受けて、王族たちの袖口を飾る金糸銀糸、大皿に埋め込まれた玉が煌めく。肉汁と酒精、香料が満ち、俺たち自身が大鍋に投げ込まれているようだ。浮かべているわけではなかろうが、八本櫂船の横腹に水の揺らめきが映っていた。船板は宴のためにつくられた模造船とは思えない部厚い材だ。艫近くの潜りから板橋を渡り入ると、甲板への階があるだけの平間には毛羽立てた敷き皮が重ねられていた。あちこちに若い男や女の腰を抱えて蠢く貴顕たちの姿が見えた。その間を俺は焼き菓子を抱えて縫い進んだのだ。ナディアと名づけた娘の足取りは変わらなかった。夜の冷気が額に流れ、菓子の香りが強まった。望楼に出たらしい。娘は器を受け取って数歩動き、膝を折って銀器を捧げた。アスティヤデスの右眼と鼻梁だけが見えた。錐に積まれた焼き菓子が発光しているかのようだ。
    「宴のたける前にお主に頼んでおきたいことがあってな。カドネツァル殿にはもちろん許しを得てある。ここに控える者たち、この度率いてきた弓師部隊に属する年少の予備兵だが、お主に預けたい」
    「お家来集の気配をまったく感じませんでした」いきなり用向きを切り出したアスティヤデスに俺は驚きを隠さずに言った。カドネツァル王子を囲む俺たち九人より遥かに厳しい調練を潜ってきた連中がここにいる。若き力に恵まれていないだと。儀礼上の謙遜どころではない、わが方の未熟を嗤われているのだ。
    「新年祭後、王子とともに獅子狩りに出かけ、さらに将軍のもとで戦車の技を練ずると聞いた。こやつらに戦車の動きを見せておきたいがアッカド語を解せぬ。そこでお主との同道を乞うたのだ。皆大地を歩くより先に馬の背に乗ると云われる部族の出自、馬上の弓なればいずれ比類なき者共となろう。しかしな、ひとつことのみの練磨は片手を縛り片目を塞ぐともいう。命に従って駆けるとはいえ、騎兵は己の判断で進退せねばならん。何事も見知っておくに如くはない。差し出がましいが、領内であろうと思いもかけぬ厄介ごとが巡らされていることもある。多少とも警護の助けにはなろう

    メディア王子は小声で、ほとんど囁くように話していたのだと気づいた。ひととき遠ざかっていた空腹が立ち戻り、腹鳴りがしそうだったからだ。空腹だけが真だ。この腹減らしゆえに、俺は同じ時の連なりの中にあると辛うじて信じることができる。父に連れられた二度目の東への旅で出会った舞踏占い師のことを思い出す。彼奴は一回転する度に仮面を付け替えていた。狂鳥の、毒蛇の、馬鹿笑いの、爛れた目鼻の仮面。俺はあの旋回する占い師のように時をおかずに異なる仮面を被せられている。我らの命運は一夜にして一瞬にして変転する。王国の姫ラズリ様が荒野の娘となって光暈の下をさまよったごとく、俺の口が唱えた讃はオリーブを叩く竿のように新たな顔を一時に降りかからせた。我がバビロニア王子、イシャル姫、煉瓦積みのドゥッガ、アスティヤデス、すべては今日一日の中でのことだ。空腹だけが今の俺を正気に繋ぎとめてくれる。
    「御下命とあれば是非もございません。これほどの鋭気をもつ同輩にお供できるとあれば、私のほうこそ受けること大でありましょう。光栄なる仰せと存じます」本心から応えたが、戦車のことならメディアにはあのサームがいる。今夜耳にしたばかりの獅子狩りにかこつけて思い付きを装っているが、王子が仕掛けた罠はこの俺一人を待っていた。ナディアと名づけた娘もまたあらかじめ俺に配されていたと疑えるが、客人の身で人を宰領することは無理だろう。いや無理のあるところこそ、アスティヤデスの本領なのか。
    「訝しそうな顔をするな。お主は私の臣ではない。どう答えても咎めは受けぬ」
    アスティヤデスが身を起こす前に背後の者たちが立ち上がり横隊となっていた。革と草の匂いが流れた。アスティヤデスは俺の肩を抱き、立ち並ぶ若者に一人ずつ見えさせた。篝火は遠かったけれど、夜闇が一人ひとりの貌だけを絞り出すかのようだった。俺は名乗りを受ける度にその名を声に出した。二度ずつ繰り返される異国の名は讃の朗誦のように俺の気持ちを昂ぶらせた。若者たちは三十六人だった。メディアの騎馬弓兵は剣や斧を振るうことがないのか誰もが細身だった。
    アスティヤデスは腰を下ろし「指図はクシオス、そしてバルスに伝えてもらいたい。アーバは私の末弟だ」と付け加えた。アーバは最も年少に見える三人のうちの一人だ。弟と云われてもアスティヤデスに似たところはないように思える。メディアは王族太守の出であっても、兵に混じって兵として遇されるのだろうか。メディアを束ねるキュアクサレス王が弓師の部族の出とは聞いていないから、アーバは異母兄弟かもしれない。
    微かな風が水輪をつくるように円座が組まれ弓師たちは一様に膝を立てた。ナディアと名付けた娘が銀器を中におくと、俺の隣にいたクシオスが菓子を取り、左回りに順を追って菓子を取った。食事の作法も部隊の進退の決め事を思わせた。目前の仇敵アッシリアほどには新しく契りを結んだ邦のことを俺は知らない。騎兵の短弓と武勲歌くらいだ。最後に左隣のアスティヤデスが二つの菓子を取り、ナディアと名付けた娘に一つを渡した。残りを二つに割り、その半分を俺に取るように促した。メディア王子が手に残った菓子を口に入れても誰一人自分の分を食べようとしない。どうやら首領手ずから分け与えられたものが口に入れられるまで、他の者は食べ始めないらしい。この俺に対して礼を失することになるようだ。この円座は新年祭の無礼講を離れて軍旅の始まりを感じさせた。

  • 46

    「ディリムがアスティヤデスに返したのはメディア語だったのかい」
    一番達者なメディア語を話したリシャの問い、どこの国ともつかぬ言葉を使ったのは俺の迷いではなかったのだ。
    「ディリムはこう言ったのさ」いきなりハンムが俺の発した呪文を一言も違えず繰り返した。俺の耳にあの言葉を注ぎ入れたのはハンムだったと考えたくなるほどだ。他の者の口から聞くと、呪文ではなく厳かな聖句のようにも思える。音の粒のいくつかは、アッカドにもメディアにも、そして俺が知る言葉のどれにもない柔らかく鼻に抜けていくものだった。戸惑う俺を宥めるようにハンムが言った。
    「俺は粘土板だよ。人の話がそのまま刻まれて消えない、忘れない。人にできないことをする者は異能と持ち上げられるが、俺の力は何の役にも立たん。婆様の話では、この妙な技は我が一族の女にだけ顕れてきたものらしい。俺が持ってしまったせいなのか、姉にも二人の妹にも出てこなかった。益になりはしないのに我が家の女たちは不満で、俺の咎みたいに言い続けていたな」
    「役に立たんとばかりは言えないぞ。代々とは怪しからんよ。益はなくとも意味があるかもしれない。ハンムは子をなして、その力を伝えるべきだな。五代か九代先に意味が開くこともある」ベルヌスは自分の耳に湧く哀歌のことを思っているのだろう。イシン王ヤシュジュブを「粘土板のごとき男」と王子は言ったけれど、人の言葉を丸ごと聞き写してしまうハンムこそ粘土板だ。
    「ちょうど花嫁候補がお出ましだ。あれなるおとめごにハンムはどんな飲み物を所望したのだ」
    「わからん。メディア王子と同じものだ」シャギルの軽口にハンムはぶっきらぼうに答えた。
    アスティヤデスは手振りを交えて巨漢に話しかけている。間に二人の男がいるので小声ではないはずだが、宴席は人声に充ちていて、離れた者の声に耳を寄せるのはとても無理だ。
    「聞き取れるのか、あんなに離れていて
    「耳を立てればな。しかし、これまた益のないことさ。メディア語だったのだろうか。俺についた娘はわかったようだったな」
    飲み物に合わせるのか、アスティヤデスとハンムの酒盃は同じ色形のようだ。俺たちは皆、自分に手渡されたものではなく、ハンムの盃の方に顔を寄せていた。酒精の香りではなく、薬草らしき青苦い匂いがした。煎じ薬か、と誰もが訝った。舌先を浸したハンムは「まさに」と顔をしかめた。「まったくもって分からぬお人だ。たぶらかされた気分だが、宴の前に乱れ止めを入れておくのがメディア王子の習いかもしれない。わが方も心得て用意してあったわけだからな

    当のアスティヤデスは、ひと啜りした後一気に盃を上げ、運び手の娘に戻している。
    味も香もない真水を半分ほど飲み、俺は薔薇色の大理石の碗を娘に差し出した。「私はディリムという者だ。お前のことは何と呼べば良いのかな」。
    「名づけてくださるままに」と目を伏せ、娘は受け取った盃を含んだ。
    「難しいことを言う。それでは、お前が口にしたいものを取ってきておくれ。戻るまでに名を考えておこう
    娘が幼子のように目を輝かせた。新しい名のためではなく、食ってみたい料理があるのだろう。見知らぬ男にかしずかせるために厳格な作法を埋め込まれているはずなのに、無防備な喜びようだ。娘の撥ねる髪を見て眉根の開く心地がした。呪の澱で、俺は肩を強張らせ渋面をこしらえていたにちがいない。
    「さて、仏頂面をさらしていても詮無いことだ」いちばん口の重そうなウッビブが切り出した。「気まぐれだとしても、アスティヤデス殿は我らを留め置いたのを忘れはしないだろう。構えを解いているとカドネツァル王子に恥をかかせてしまうぞ。かく云う俺が一番危ないがね。アスティヤデス王子のメディア語にアッカド語で応える勇気はないからな
    いや、九人のなかで誰よりもこの俺が危い。どちらに飛んでしまうのか定めがたい弓弦を俺は構えているのだ。
    「ディリム、俺の家は攻城部隊の束ねの四代目、ベルヌスの家とは真反対の役目ということになる。攻城兵は敵の言葉を覚えておくのさ。危険な反撃に気づくこともできるし、城兵を罵倒し続けていれば肝は縮まない。メディア語よりアッシリア語を知るに精一杯なのさ」
    四人の運び手が運んでいる料理を載せた長板をウッビブは樹上の実をもぐように易々と抱え取り、俺たちの間に置いた。
    「まずはしっかり喰っておこう。五十日もすれば俺たちの何人かは、いや下手をすれば皆もろとも冥府落ちかもしれぬ戦だ。喰えるとき、飲めるとき、眠れるときを手放さないのが生き残りの術のすべてだと云うぞ」
    顔を隠すほどの炙り肉の塊に歯を当て喰いちぎるウッビブの様は獅子もかくやだ。
    「お前の歯ならフンババと渡り合えるな。香柏の幹だろうと齧り倒せる」「ナボポラッサル王はこいつが八歳くらいの時の肉の喰いぶりをいたく喜ばれてな」青衣の連中もそれぞれ長板に手を伸ばしながら言い立てた。
    「頑丈な顎は大戦士の証さ」
    「ウッビブの歯は骨砕きだけじゃない。こいつはね、ディリム、このフンババ並みの歯で獣の骨を伐り削り穴を穿って笛にしちまうのさ。その骨笛の音色は、駄獣も鳥も砂嵐さえも黙らせる」
    「羊飼いの笛だって羊を眠らせる。砂嵐はともかく、耳傾けてくれる樹はあるな。いずれにしても俺が次に吹くのはニネベの城壁の上だ」
    ニネベを思い描いてだろう、皆が遠い目になった。ニネベが難攻というのは当たらない。アッシリアの二代に渡っての王は野戦で大敗し城壁を囲まれることはなかったからだ。
    アッシリア重装歩兵の盾は重い。表面の鉄板の厚みはバビロニアと変わりないのだが、その内に牛革を貼り青銅の薄板を合わせている。遠矢では貫けず、四方から囲い込まれても、全身を覆うほどの盾が城壁となる。覚師ハシース・シンは百六十人の百人隊長を一つに押し包めばと言ったが、それこそがアッシリア軍の本領ではないのか。
    青衣の九人はカドネツァル王子の旗下に入り、この俺は書記として傍らに侍することになりそうだ。俺は怖じているのだろうか。怖じては戦の行方を見失い、書記を全うできない。全軍怖気づき敗走がはじまっても、書記たるもの高丘の城砦に立つ如く構えているのだ、と覚師は言われた。書記の役割は生き延びて記すことに尽きるのだから、最後に退き先を駆ける者であれと。

  • 45

    儀礼の手順を違えずにことが運んでいる。メディアの戯れ歌はどこに行ったのだ。俺はあらぬ方に無駄矢を放ったのではなく、そもそも矢をつがえてはいなかったということか。メディア王子を前にして、俺はメディア王子の夢を見ていたのかもしれない。こうして立ったまま。その証にアスティヤデスのいでたちが初め見た時と今ではすっかり変わっているではないか。
    ベルヌスが強く袖を引いていた。何度もそうしていたのだろう、「どうした、行くぞ」と声を強めた。俺は目を伏せ、ベルヌスの背の青衣だけを見つめた。俺にだけ従者がつけられたのは、俺が我を失う者だからか。
    「慌てて下がらずともよい」アスティヤデスの呼びかけはメディア語だった。「皆、私とさして変わらぬ年回り。王よ、共に宴を楽しませてくだされ。先ほど申し上げた通り、わが国には盃を交わすに足る若き戦士がとんとおりませぬ。この方々の率直な物言いは誠に愉快。ぜひお許しいただきたい」
    率直な物言いだと。俺はメディア王子に翻弄され虚仮にされているぞ。
    「戦勝の無礼講ならともかく、この晴れの日に膝下に加えていただけるとはまたとない誉。有難くお受けして若殿のお話を存分に聞かせていただくとよい」ナボポラッサル王の口調は鷹揚で満足げだ。カドネツァル王子も恭しく語を継いだ。
    「アスティヤデス王子、私からも御礼申し上げます。お目通りだけと考えておりましたが、この者たちへのお声掛け、決戦を前にしての大いなる励みとなりましょう」
    顔を上げたとき、王と王太子の奥にイシン王ヤシュジュブの姿が目に入った。この朝、神殿で執拗に俺を弄った葉叢に潜む鳥獣のような目は俺を咎めるどころか、目の前の俺に気づいてさえいないようだ。とはいえ、アスティヤデスに加えて、ヤシュジュブにこの身を曝すのは気重だった。
    ナボポラッサル王とアスティヤデスが肩を並べ、カドネツァル王子はメディアの太守の一人かもしれない初老の男と連れ立った。身の置き場を掴めないメディア王子の護衛は無粋というより滑稽だった。アスティヤデスから推して、実の護衛は別にいるのだろう。青衣の九人も似たようなものだ。気後れて奥へは進めず囲い場の羊となった。
    次の間に卓はなかった。敷き重ねられた毛皮と絨毯に肘掛台と長枕が置かれている。壁際には給仕人らしい娘たちが控えていた。小さく固まって腰を下ろした俺たちの許へも手洗いの盥をもつ娘がやってきた。行き惑う様子もなく、一人ひとりの前に進み盥を差し出した。手水には花が一輪、浮かべられている。クロッカスだ。花も一人ひとり違うのか、左右の水には別な花が浮いていた。クロッカスはありふれた花。そして、俺たちへの厚遇もたった今決められたことだ。何の不思議もないはずなのに、俺に向かってだけ仕掛けられた罠を予感してしまう。俺は魅入られている。魅入られているから罠なのだ。夢から出て、また新たな夢に踏み入り、俺は夢の峡谷で立ち尽くしている。娘の左腕に垂らされている手布で水を切るとき、「お飲み物は」と娘が訊いた。娘の面立ちは遠国のものだ。
    「真水を」俺は手水から花を掴みあげて応えた。
    「真水」聞き覚えのない語という顔で俺を見つめ、娘は繰り返した。眉を寄せたのは宴席で水を所望する者などいないからか、水と云わずに真水と頼んだからなのか。
    いっせいに手水の盥を下げ戻る娘たちは皆白い寛衣をつけている。水面の花が異なっていたように、腰の帯と髪を束ねる布色がまちまちのようだ。大広間には大勢の飾り立てた婦人が集まっていたが、王族の宴は男たちだけだ。
    奥の緞帳が二人の半裸の少女によって開かれると、八本の櫂が突き出た船が姿を現した。またしても櫂か。俺は耳を澄ませた。耳の奥処はひそやかで、聞こえてくるのは船の甲板に立つ楽人たちが奏でる竪琴の爪弾きだった。瀬音と紛う弦は異邦のものだろう。船上も皆少女たちだった。舳先と艫の灯は一抱えほどの石盤に据えられた銅造りの蛇で、炎は蛇の口から吹き出されるように燃えている。両舷でもそれぞれ五基の松明が火の粉を飛ばしていた。
    「せいぜい百五十人ってところだ。新年祭の大宴にしてはこじんまりだな」というシャギルの呟きにアッドゥが返した。「だからこそ畏れ多いのだぞ。我ら全員がここに招き入れられたことで、目を剝いているお歴々は四人や五人ではなかろう。前の広間に立つだけでも、官も功もない我らには出すぎたことなのだ。我らはカドネツァル王子に名指されただけだ。そして、メディア王子の気まぐれに乗せられて、こんな場違いな宴席に呼ばれてしまった」
    「今日は誰であろうと、城門も王宮も出入り御免だろう。とにかくアスティヤデス殿は上機嫌だったではないか
    シャギルは畏まった様子もなく、膝立ちになって、両国の王族や友邦の太守たちを眺め渡している。
    「上機嫌だったかな。ディリム、君はどう思う。メディア王子の具申を誘いだしたのはディリムの言葉だったのは確かだ」束ね役のカハターンがアスティヤデスを盗み見るようにしながら言った。
    「俺たちのやり取りを覚えているか」
    「やり取りと言っても、話していたのはもっぱらディリムだったろう。俺のメディア語は聞いての通りまったくの付け焼刃だ。君が何を話したのか、実のところさっぱりわからなかったよ」
    俺にだけ聞こえていた声があり、俺一人が話していたとしても、俺がアスティヤデスに発した言葉は皆の耳にも入ったわけだ。
    「いささか竦んでいたのだろうな。覚えていないのだ、何を言ったのか」
    「声は堂々としていたぞ。神殿の讃と少しも変わっていなかった。それまで大儀そうだったメディア王子も身を乗り出してきたからな
    俺の隣にいたベルヌスはアスティヤデスの表情を辿れただろう。
    「そうだ。そして王子は上機嫌に笑ったのさ。あの船の上で十七弦琴を奏でている娘の唇には及ばないがな」シャギルはメディア王子ほどに遠目が利くのだろう。俺には口元はともかく弦の数までは見極められない。
    「メディア王子の方は不敵な笑いというのさ」ワラドが口を挟んだ。
    「だから上機嫌だろうが。気位の高いお方は不敵にしか笑わんものさ」
    声を潜めているとはいえ、露骨に主賓の品定めは具合悪かろうと気になったが、若輩の一団に向けられる目はなさそうだ。俺の気がかりヤシュジュブも、あの者が気をかけ探るべきは、いまだに腹を括りきれていない君候の心根だろう。そしてその君候や大総督たちの関心はバビロニアとメディアの同盟に信をおけるかどうかなのだ。終いには歓呼を引き出したとはいえ、列席者たちがアスティヤデスをどのように見たのか、俺には見当がつかない。

  • 44

    ナボポラッサル王の動きは必中の矢のごとくだった。意表を衝かれた三人の護衛は面目を喪った。王はアスティヤデスの護衛たちを薄刃で剥がすように身を入れて、メディア長子の肩を抱いたのだ。黒鋼と見えていた三人の男たちは煤だったわけだ。アスティヤデスはしかし、自若としている。小心ゆえの護りではないということを、むろんナボポラッサル王は承知なのだろう。
    「いと限りなきメディア王国からの献上品の数々は神々もご照覧。そして何よりも両国の勝ち鬨とともに頂戴できるという函を一刻も早くご披露頂きたいもの。さあれば、無朽の同盟を今ひとたび寿ぎ、狂愚の王門を共に打ち砕きましょうぞ」
    ナボポラッサル王の大音声に広間は漸くにして歓呼で応えた。どよめきの最中、カドネツァル王子が右腕を差し伸ばした。俺たちの方にだ。隊伍を動かすような鋭さに幻惑されたのだろう、護衛たちは失態の後のせいか、目を剝いて身構えた。
    「随いてきてくれ」カハターンが囁き声で命じた。カハターン、シャギル、リシャ、アッドゥ、ウッビブ、ワラド、ハンム、ベルヌス。俺たち青衣の九人が切り裂いていく人群れは、この世のすべての色糸を刺し込んだ絨毯のように見えた。湧き出た真水の流れとなって行き澱むことなく、俺たちは両国の王族の前に居並んだ。
    「この者たち、ご覧の通りの若輩。なれど、遠からず王太子カドネツァルの耳となり、盾となる者共。よろしくお導きくだされ」王がメディアの言葉で言った。ナボポラッサル王の手はまだアスティヤデスの肩にある。
    正対するアスティヤデスは遠目よりはるかに精悍だった。メディア長子の頬から顎を包む髭は雲間隠れの残照を浴びているような赤。第一日目の月を思わせる薄い唇は不遜で、もの皆冷笑してかかっているように見えた。両の目は涼やかで少女を思わせる。メディア王子はどこに潜んでいるのだろう。酷薄でも無垢でもない、まったく別の男がいるはずだ。
    「カドネツァル王子の目に止った美丈夫たちか、さすがに良い好みでおられる」
    アスティヤデスは変わらずメディアの言葉で言った。濁りを掻き立てる口調も同じだ。青衣の皆は同盟国の言葉をすでに学んでいるのだろう、弓弦がしごかれたように体のこわばりが感じられた。
    「皆、名乗りをあげよ」王の命はアッカド語だった。リシャとワラドの二人以外は覚束ないメディア語を使った。一人ひとりに頷き返すアスティヤデスは無表情だった。最後に俺が名乗ろうとすると、先にアスティヤデスが口を開いた。
    「柱の奥にいるときからお主のことはわかったぞ。サームの語りは簡にして要ばかりではない。姿形、見目まで引き出される」
    騎馬の民はそれほどの目をもっているものなのか。俺はメディア王子の目も口も捕まえられなかったのだ。アスティヤデスの言に気圧されてしまい、下問に応えるような畏まった口ぶりになってしまった。
    「思いもよらぬ仰せで言葉もございません。私がこうして御前に立っていられますのも、サーム殿の鞭の一閃ゆえ。授かりましたこの身をもって貴国と邦国バビロニアの聖道の魁となることこそわが願いにございます」
    俺がメディアの言葉で言上する間、先ほど聞こえていた、覚えのない四つほどの語が風笛のように耳を旋った。アスティヤデスの唇は俺を嘲い、双眸は俺を慈しんでいる。今日まで聞き覚えのなかったメディアの言葉が俺の耳の裡を叩き続ける。メディアの言葉に挟まっていても、メディア語とはかぎらないが。他の音は一切聞こえなかった。同盟国の名代に向かって、俺の口は我にもあらず、どんな意味を負っているのか思い及ばぬ、広言をはばかる呪詛かもしれない言葉を吐き出していた。メディア王子の口元が陰り眸が消え、眼窩だけになったように見えた。アスティヤデスが溜息ほどの小声で言った。小声だけれど俺を縛り、両の目を虜にした。
    「明日、裏切るだろう、白鷲は白鷲を」
    三人の護衛に動きはなかった。アスティヤデスだけが知る歌なのだろうか。のっぴきならない険路へ自分を引き込んだと感じながら、俺はもう一度知らない言葉を継いでいた。自分を抑えられないのではない。俺はただ、俺の口にする言葉を聞いている。ナボポラッサル王さえ口を挟まないのは、メディア王子と俺が何を言い交わしているのか掴みきれないからだ。両国の誰もがわかっていないのだ。
    「天の友なる鷲よ、天の友なる鷲よ、我が弓手を怖れよ」アスティヤデスが発した言葉は、聞こえていた歌にはないものだ。俺もまた、アスティヤデスの言葉を小声で繰り返した。そして、間をおかずに水輪が広がるように耳に寄せてきた言葉を口に乗せていた。
    「汝が手、矢をつがえんとするそのとき、汝は矢の行方を知らず。矢、放たれしそのとき、汝は知る。すでにことは決せりと」どこの国の言葉を俺は使っているのか。まったく知らない言葉だったが、意味はわかる。ラズリ様の許で、はじめて聞いた赤い砂の国の言葉の意をたちどころにして知ったように。
    アスティヤデスのちぐはぐだった唇と目は、落日を浮かべる西の空と青鋼色の智慧を宿す東の空が大天をつくるように、二つながら一つになっていた。それは、思いがけないことのようにも、かつて辿り読んだ粘土板をもう一度手にしているふうにも思えた。瞬き三つほどのあいだのことで、アスティヤデスは元の王子の顔に戻った。
    「実に見事な網さばきで漁されたものだ、バビロニア王太子殿は。さても両刃の鉞と畏怖される大王の御曹司なればこそ。青き衣のこの者たち、美しいだけの侍人でないことは、しかと胸に抉りこまれましたぞ」長じてから学んだものとは思えないアッカド語でメディア王子は言った。アスティヤデスは肩におかれているナボポラッサル王の手を左手でゆるやかに払い、大きな仕草で右手を伸ばして盃を取った。それを見て素早く膝を折ったカハターンに倣い、俺たちも卓の前で膝をつき頭を垂れた。盃が卓を叩く音に続いたメディア王子の声は広間を揺るがせた。伝令を使わずとも乱戦の最中にある兵を動かせる声だ。俺の耳に余所者が宿るように、メディア王子の喉にバビロニア人の神託祭司が住まって奏上を引き受けているかのようだ。
    「若き兵の力こそ貴国バビロニアの礎。及ばぬところ多々ある中、わがメディアに足らぬものは若き力。羨ましくはあれど、嘆いても詮なきこと。猛き血を誇る方々に侮られぬよう、我が精兵一万六千騎、さらに鍛え上げて神軍の御前に参ずるでありましょう。栄えあれマルドゥーク神、共に栄えあれ大天の光輪アフラ・マズダ
    雫を受けた干天のように、広間から「栄えあれ」の気焔が上がり、鼓が打ち鳴らされた。泥を撥ね散らせてバビロニア人の顔をしかめさせていたメディア王子は、一転、神にその名を呼ばれた者となって衆目を浴びている。

  • 43

    俺たちは先頭を行くカハターンについて王宮広間の横手に回り、罌粟の花色の焼成煉瓦を廻らせた壁の前に並び立った。壁に半ば埋め込まれた化粧柱の龕灯にはすでに明かりが入っていた。火の番人は肩脱ぎの屈強な連中だ。参集した貴顕は六百人を超えているにちがいない。贅と技を凝らした衣装宝玉が沸騰している。俺たち九人が身に付けた青衣は広間の熱気に紛れることなく静まっているだろう。
    広間の人群れは、咲き乱れた花がてんでに風に捩れているように見えた。皿の運び手や給仕人は花群を滑る蝶。酒器を背負った少年たちも注ぎ手の少女とともに軽やかに流れている。イシャルが悪戯心を起こして紛れ込んでいそうな年回りの少女たちだ。
    俺は貴顕の習いに疎い。額に金粉を塗るような太守総督が集う宴は初めてだ。人声が聞こえてこないのは、王が出御するまで言葉を交わしてはならないとの黙契があるのだろうか。身に着けた重い布や溢れ零れる料理を持て余して、誰もが気だるそうな口元をしている。熱気を醸しているのはお歴々ではなく、椰子の筏に乗った羊の炙り肉だ。切り分けられた肉塊が細身の櫂によって供されている。
    上の海と下の海を統べる王に俺は蹤いて行くのだ。櫂は俺の台石。櫂は武器になり、鋤にもできる。しかし決して皿にはならない。
    「これだけ大勢の寄り集まりの中で、不機嫌な面を曝しているのはお主だけだぞ。大人気ないことよ
    覚師を思わせる苦言は、覚師ではなく芳しい若木の声だった。見渡しても、俺に向けられている目はない。近くには青衣の仲間と火の番人がいるだけだ。驢馬たる俺の耳にさらに声が流れ込む。
    「書記にして戦車を曳く者であるお主が何ゆえに見かけの役割に拘る。櫂は櫂か。櫂を取れと謳ったお主が櫂はただ櫂であれというのか。それでは深淵に触れることは叶わぬ」
    櫂のことを言うからには、今ほどの俺の目の行方に気づいている。思いがそのまま顔に出ると云われた俺だ。高所の梁、四十歩離れた化粧柱の後ろからでも俺の苛立ちは読めるだろう。しかし思いを掴めても、ただ一人の耳に言葉を注ぐことはできない。
    ありえぬことが起こったとき、それは俺が夢の中にいるということだ。夢のはじまりを知ることはできない。人は門を潜るように夢に入るのではない。いつもすでに夢の中にいるのだ。
    俺は櫂だ。濁流に咬みつき、浅瀬を這い登り、水を切って進んでいるのを感じるだけだ。ハシース・シンは俺の漕ぎ手。覚師が俺を皿の代わりにしたとはき、頑なに身を傾け肉片を振り落とそう。「大人気ないのう」と詰ることもなく、覚師は呵呵大笑するように思える。
    肉片を届ける漕ぎ手の技は実に見事だ。差し伸ばされる櫂は、犇く耳飾りや髭を擦ることなく蔓のようにうねり、ときに傾き、それでも肉片は落ちることがない。俺が倣おうとしても肉を取り落としてしまうだろうから、抗ったことにはならないわけだ。
    若木の声がまた聞こえてきた。「火の妹よ。赤馬は巴旦杏の実に隠したぞ。青牛を塩の道へ放つのだ。黒羊に縞蛇を踏ませよう。………………。明日、裏切るだろう、白鷲は白鷲を」メディアの言葉だ。俺の知らない語も挟まっている。呪文なのか、合言葉なのか、俺には意味が取れない。メディア人の夢の岸辺に打ち上げられたか。夢は水脈、見知らぬ者とも繋がる。
    「火の風よ。白馬は糸杉から現れた。赤牛は薬師から遠ざけよ。青羊は明けの星見ることあたわず。………………。新月を待たずに裏切るだろう。黒鷲は黒鷲を」言葉が回っているから、戯れ歌とも思える。今バビロンに来着しているメディア人の総勢は数百人だろう。この広間にも少なからず混じっているはずで、すでに酔言を洩らしている者がいるかもしれない。櫂は間違いなく俺一人に向けられた言葉だったが、メディアの歌が流れ込むのは何故だ。ベルヌスが夢で哀歌を聞くように俺の耳が名指されたのだろうか。
    王宮広間最奥の銅葺き円柱の両翼から九人ずつ喇叭手が現れ、すぐに頬を膨らませた。俺の耳は鳴り渡っているだろう喇叭ではなくメディアの呪文を聞き続けたが、王たちの入場とともにメディアの言葉はかき消えた。
    大卓の左側に着いたのはバビロニア王族と大祭司、そして紫衣のカルデア王。卓の右半分を占めるメディアの客人の中心アスティヤデスは長と一目でわかるいでたちだった。純白の長衣に金の肩掛けと帯、被り物は紫と金の尖り帽。アスティヤデスを囲い込んで立つ三人の男は腰の短剣に手を添えて悪びれる様子もない。同盟国とはいえ、気を許してはいないとの構えをこれみよがしに取るのは、彼の邦の習いなのか、それともメディア長子の剣呑な質からくることなのか。メディアからの一行にサームは見当たらなかった。
    わが邦の女王、姫君、女官たちは、中央の卓を斜め後ろから見下ろす壇上で重なり合っている。綴れ織りの天蓋がつくる深い影で一人ひとりの顔は見分けられなかったけれど、イシャルのような幼き者が混じっているとも思えない。
    銀の酒器を抱えた献酌官がナボポラッサル王とアスティヤデスの金盃を満たした。王は二言三言メディアの王子に声をかけ、一気に干して卓に盃を伏せた。アスティヤデスは縁に唇を付けただけで、盃を傾けなかった。アスティヤデスが俺と同じように酒を口にしないのだとしても、メディア王名代の振る舞いに、バビロニアの重臣連は不快だろう。
    アスティヤデスは盃を置き、盾なす男の後ろに侍している男から玉を鋳込んだような函を受け取った。
    「ナボポラッサル大王はじめ皆々様から頂戴した品々は、一望叶わず窮まり知らず、この王宮の天辺を抜くことでありましょう」アスティヤデスの声は鋭く甲高かった。
    「われらがお応えするのは、到底適わぬことなれど、能うかぎりの品々を広げ参らそう。金の種枡を三百、銀の種枡を五百、駿馬五十頭、牡牛二百頭、牝牛三百頭、舞姫七十人、楽人七十人、青輝石の大甕が二十、東国の布が百巻、宝剣百振り、オリーブ油を三百甕、十二種の玉を鋳込んだ皿を二百枚、香柏五十柱。そして最後に、われらからの進物はこの匡の中、ニネベの閂が解かれた時、ご当地王家に捧げることをお誓い申す」
    アスティヤデスは最後までメディアの言葉を使った。彼の地の礼法はわからないが、バビロニアでは無作法と謗られるのだ。アスティヤデスがまったくアッカドの言葉を解さないのならば、代読させれば礼には則っている。ナボポラッサル王とカドネツァル王子は通詞を介さずにアスティヤデスと話を交わしていたようだが、メディアの言葉は敵地ファラオの言葉より遠い。邦人も異邦の客人も大半は聞き分けられないだろう。贈答の数々は豪気だけれど、ほとんどのバビロニア人がそれを味わっていない。

  • 42

    イシャルは背中に負ぶさってすぐ、俺の二つのつむじに指を当てた。三人だけの秘密にしておきなさい、というドゥッガの声は有無を言わせぬものだったな。ベルヌスについて小走りで一層に向かう間、衛兵の姿を見かけることはなく、篝火台の傍らに立つ火守りの少年奴隷たちばかりが目に付いた。篝火の炎は時折柱を抱いて激しく揺らめく。途中に階は一つもなく、半円を描くように大きく斜面を回った後、急勾配の下りとなって平土間に着いた。水路があるのか、速い水音が聞こえ、鉄が匂う。ベルヌスは外明かりを背にする方へ進み、三度壁の間を折れた。外からの光は弱く、角壁ごとに片膝を立てて器を捧げる切り株のような石像があり、皿の中で細い油芯が燃えている。
    「ここがディリムの居室になる。両隣は無人だ。私たちはもう一つ先のマルギッタという域に住まっている」
    削り出しの板戸が内側に開かれていて、床煉瓦の模様がおぼろに見て取れた。
    「マルギッタって、星のことよね」イシャルが背から降り、ベルヌスに尋ねた。
    「そうです。マルギッタ・サンプ、北斗の大星です」
    「この域の名前は」
    「まだ名付けられていません」
    「誰が名前を決めるの」
    「北斗星と呼ぶようにしたのは、王子です」
    「お前は」奥の間との仕切り壁の前に控えている少年を見て、俺は大声を出していた。「キナム、誰がお前を召し寄せたのか」唖然としてしまい、奴に返事が適わないことに気が回らなかったのだ。
    ハシース・シンから聞いていないのかと王子は云われたが、声が出ず、片手も使えないキナムを覚師は差配したのか。もとより俺には従者など不要だが、キナムとて王子の供廻りとなる俺に仕えるのは難しかろう。
    「私も詳しいことは知らないが、この者と一緒に来た女が顧問官宛の伝書板と印章を持っていたそうだ。私は今から早馬になって姫を離宮前まで送る。君が身に着けるものは整えてある。戻ったら一緒に王子の許だ。もちろん今はマルギッタにおいでにならない」
    イシャルはベルヌスの長衣で身を隠すようにして、キナムを見やっている。険しいというより訝しげな面持ちだ。跪いていたキナムが目を上げた。イシャルが身じろぎするのがわかった。キナムは立ち上がり、畏まることもなくベルヌスとイシャルに目礼し奥へ入っていった。
    俺はベルヌスに身を寄せ「君たちにも従者がついているのか」と訊いた。
    「いや、マルギッタに住まう私たちは皆一人だ。王子も」
    腰を屈めているベルヌスの肩に手をのせたまま「あの子、隠し事がある」とイシャルは呟いた。
    隠し事とは思わないが、俺は何も知らされないまま運ばれている。とはいえ、知って行き先を選び直せるわけでもない。部屋に戻ると、キナムが柄杓の入った手桶を漱ぎ盥の横に置くところだった。奴は目顔で俺を促し、水を掬った柄杓を盥の上に捧げた。俺はつい先ほど左手のない男ハジルから手水を受けたのだ。符合は隠し事より厄介だ。一つに綯い合わされるはずのないことが遠くから呼び合って影の影となり、疑心を掻き立ててしまう。
    「キナムは俺の世話をするためにだけ遣わされたのではなかろう。お前はどのようにして、自分の考えを俺に伝えるのだ」
    キナムは膝を寄せて俺の手を取り、利き指の爪で線を引いた。奴の指は尖筆となっていた。
    「書けるのだな、お前は。師はハシース・シン様か」と尋ねると、奴はわずかに首を振った。ボルシッパの学び舎へいわくありげに種子を捧げに来たときから、バビロンの王宮への道は決まっていたことなのか。キナムと俺を文字で繋ぐのは覚師とラズリ様の二人が浮かぶだけで、俺が知っているのは、キナムがラズリ様の物語ってくれたエリュシティとスハーの遺児ということだ。あやかしの地から皆を脱出させたスハーの血を享けた者。
    「俺の前でそうやって跪くことはやめてくれ。それから、危急の知らせごとが生じたら、革か木片を使うのだ

    どこの邦の礼法なのか、キナムは両手を胸の前で交差させ顎を引いた。神の御遣いを思わせる象牙細工のような左手。灰白の指が眼前で滑り動くとき、逆らいようのない託宣が降りてくるだろう。
    忠実な侍者の顔に戻ったキナムについて、俺は次の間に入った。これまで人が住まっていた気配は感じられなかった。長い間使われず、しかし日々清められてきたようだ。左手の壁際に木組みの寝台が置かれ、寝茣蓙と敷き革の上に、これから身につけることになるらしい麻の短衣と青い光沢を放つ裾長の上衣が載せてある。焚き込めた香が匂った。キナムが指で示したところに黒緑色の大岩があった。岩を台座にした卓がつくられている。横手が寝台くらいの長さの木が嵌め込まれているのだ。大地の岩を生かし、その膨らみ凹みに合わせて木を削り平らにした卓だった。その上にヒッタイトの鋼と鞘、そして革紐が二組あった。
    「荷が重いと異を唱える驢馬はいない。俺はイシャル姫の云う賢い驢馬になるつもりだ。お前は驢馬の耳に潜んで、遠慮なしに俺を戒め鎮めなければならない。俺が迷うことがないように。キナムはスハー殿の一子なのだからな

    俺は両の脚にヒッタイトの鋼を括りつけ、寝台の上衣を手にした。胸のあたりの銀糸は北斗の星を刺しているようだった。この衣も短い日で仕立てられたものではない。上衣と同じ色の、裾に縫い付けられた飾り紐は踵を隠し、革サンダルは見えるような仕立てだ。俺の背丈までも伝えられていたことになる。

  • 41

    狭い掘割を二つ越えたあたりから人寄りが増え始めた。藁束を水に浸して振り回す子どもたちの声と舌打ち嬌声が混じり、駄獣の臭いが鼻をかすめる。何を商っているのか見当がつかない、風変わりな抑揚をつける物売りの声。寛頭衣代わりの葦の莚にとりどりの羽根を挿して父娘の羽根売りが歩き回る。数十枚とも見えるフェルトを担ぐ異邦の男。両手指に護符の粘土像を挟みもつ老女の嗄れ声。枝を放り込んだ柳籠を五つほど並べた少年は、枝の一本を噛んでせわしく目を泳がせている。
    花冠をつけた二人の女がベルヌスと俺の間を擦るように通り抜けていった。俺たち二人とも古の歌に心を抜かれていたのだ。イシャルが唇の端を上げ、咎めるように俺たちを見た。青く縁取られた細工物のような目に真横を横切られるときでさえ、川面の船を眺めている気分だったのだから、姫君に同行する者として不覚きわまりないことだ。悪意に前触れなどない。慄えるまもなく地に這わされる。ドゥッガが見ていたら睨み倒されるだろう。
    「夢は溶けないって、ディリムは言ったわ。私の夢も溶けないことがある。ディリム、今度聞いてくれる。忘れられない夢が二つあるの
    不機嫌な翳りを残したままイシャルは声を潜めた。イシャルは俺たちの話についてきていたのだ。恥じ入る思いのまま、俺は身を寄せた。
    「夢解きはしませんが、お聞かせください、王宮にいるあいだに」葦笛と手太鼓、歌女の金切り声が弾けるなか、俺は小さな耳に約束の粒を置いている気がした。イシャルの年で夢に掴まれるのか、いやイシャルのほうで夢の影を踏み押さえているのだろう。幼い夢は夢占い師の粗い笊では浚いきれはしない。むろん俺とて、夢の仄めかしを読み取れる耳があるわけではない。聞いてみたいだけだ、イシャルの夢を。それは好きだという飛ぶ夢ではないはずだ。
    「王宮にいるあいだ、そして王宮に戻ってきたときね
    ベルヌスは胸の奥へ釣針を泳がせる眼つきで驢馬に牽かれている。溶けた歌のひとかけらでも釣り上げようと。今、その思いは立ち枯れようと虚しいことではなかろう。ベルヌスは繰り返しその歌を聞いたのだから。三度繰り返されることには必ず理由がある。俺たちはこれからカドネツァル王子のもとで長い時を共にする。共にあればベルヌスの耳から漏れ聞こえる歌に遭えるかもしれない。かつて謳われた古の歌は哀歌ゆえに滅びないだろう。血塗られ火をかけられた壁の地肌に染み入った歌。古の歌に名指された男は城壁造りの一族なのだ。
    時折聞こえる岩漠を走る烈風のような音の正体がわかった。屠られる犠牲獣の鳴き声だ。いまや城門の周りでは血の湯気が立ち込めているだろう。銀の大杯で受ける子羊の血が天と地の神饌となる。バビロン城壁を取り囲むほどの杭が組まれ、炙り肉の煙が昇り続け、犬どもさえ終夜の無礼講だ。
    人群れを掻き分けるのが難しくなりかけたとき、影が濃くなった。そうではない。影に気づかされた。いつ道岐かれをしたのだろう。この道は踏み歩くものを受け止め跳ね返す力があるようで、影もまた踊るのだ。樹と砕石と瀝青で労を惜しまずにつくられた道だ。神殿や城壁だけではなく、ドゥッガは道造りの采配もするのだろうか。
    「ベルヌス、驢馬にまかせたままでいいのか、道は」相変わらず遠い目のベルヌスに声をかけると、柔らかな額に戻って小さく頷いた。
    「ディリム、驢馬はみんなが能無しで強情ではないのよ。この子は道がわかっている。そして、さっきの娘さんたちに魂胆があったら、この子が蹴倒していたはず」
    馴れた少女の口調で厳しくやり込められるのは強面の怒声よりも堪える。ベルヌスも王子の側近に相応しい恭しさで首を垂れた。つき固められた道はゆるやかな弓弧を描いている。王宮へ直行する側道なのだろう、哨所を抜ける度にベルヌスは衛士に印章を見せた。哨所には必ず揚水機が据えてある。最初の哨所近くですれ違った戻りの空車を御す男は会釈を返すこともしなかったが、後ろからの騎乗の兵は「ご無礼を」と発して追い越していった。
    行く手の左には棘のある潅木、右側は俺の膝の高さまで石が組まれている。目に入るのは次第に大きくなってくる王宮の壁面と棕櫚の樹冠だけだが、いや増す喧騒で城市の中心に近づいていることがわかる。水路を跨ぎ越える橋のような道なのかもしれない。
    「ここを造らせたのはメロドクバラダンだそうだ。アッシリア占領時の置き土産さ、見事なものだろう」足元に目を奪われている俺にベルヌスが明かした。
    都督になった男は分捕り品や貢物で己の居館の飾り立てに腐心せず、道を造らせたわけだ。ドゥッガの言の通りアッシリアを侮ってはならない。かの地の者たちの苛烈な気性や無慈な振る舞いは伝聞だが、俺の足裏が今感じ取ったのは四方世界の覇者の足音だ。奴らは滅ぼすだけではない。この道を造らせた者たちは、四方世界から粘土板を集めている。刻まれた言葉は不滅、だろうか。ニネベの文書館に連なる知者やハシース・シンでも読み解けない文字は数多あるという。刻み手、読み手、話し手が一切滅び消えた言葉の板は土でしかないのだろうか。四方世界の涯からの強大な力が俺たちを飲み込み、あるいは大洪水が、あるいはかつてない干天がバビロニアもアッシリアも磨り潰してしまえば、あらゆる言葉は喪われる。哀歌が歌われなくなるように、哀歌が聞かれなくなるように。
    辿り着いた城門は小さかった。長槍を立てて通れるかどうかの高さ、荷車二台分の横幅で、細工一つない真鍮の鋲が二十ほど打ち付けてある。王族の許へ直に向かう商人や鑑札を預けられた者だけが使う門だ。危急の伝令使が走る道でもあるのだろう。城門が開けられるとすぐ二人の小姓がイシャルを驢馬から降ろし、手綱を引いていった。
    「ベルヌス、ディリムの部屋、私も知っておきたい」とイシャルは俺たちの手を掴み、刳り貫き門を先に潜った。石床に抜き身を立てて門の左右を護る衛士も、その両脇に居並ぶ弓兵も身動きせずに三人を通した。あらかじめ矢を持って立つ衛兵を目にするのは初めてだ。
    「われらが寝起きするのは女性一人では入ってはならない域になります。私たちは北寄りの域の一層目、東南三層目の姫様とは真反対です
    「ベルヌスの居場所は知っているわ。カドゥリ兄様の隣の隣」
    「何という真似を。誰にも見咎められなかったのですか」ベルヌスの声が今までになく尖った。
    「私は決まりごとの外にいるの。子どもだから」イシャルは足首を振って鈴を響かせた。二つの鈴が次々と数を増やして王宮の石畳を転がっていくような音だった。そして響きは柱を巻くように立ち昇っていく。遠く乳白色に霞む露台まで赤砂色と碧緑の石柱が数十本互い違いに配されているのが見通された。
    「確かに私たちの三層とはとても離れているわね。私だってこれから髪を結いなおしてもらうし、香油も塗る。お追従のへたれ石榴に口実をくれてやるなんて真っ平。だから急ぎましょう
    「そうです、急がねばなりません。私の背に」
    「ディリム、あなたが背負って。私たちの域にも二人は入れないのだから、帰りは自分の足だし」

  • 40

    ベルヌスが干し果を掴みイシャルに差し出して言葉を継いだ。
    「ここへ戻ると必ず試されるのですよ。親父が普請中に使う子供の伝令が十人ほどいるのですが、そいつらを一斉に走らせるんです。すばしこいですよ、皆。そいつらがアッシリアの矢が届く距離に入る前に何本遠矢を放てるか」
    「私、ベルヌスがそんなふうに矢を射るのを見たことがない。椰子の実を落としてもらうくらいだもの」
    「親父にこっぴどく叱られている様など姫に見られたくありませんよ。それよりドゥッガの早礫を見せてもらいなさい」
    「あんなもの、子どもが喜ぶだけだ。しっかり者の姫はベルヌスのへたれぶりを笑ってやりなさい。も少し励むようになるでしょう」
    「殿方が面目を失うのを笑うなど、淑女のよくするところではありませんことよ。それよりも万一全軍が面目を失ってしまったらドゥッガさんの城壁が頼りになるのね。あらあら私。ベルヌス、ディリム、不吉なことを言ってごめんなさいな。キッギア将軍とディリムの部隊は一兵も失わずに敵を全滅させたんですものね」
    「でも姫様がお生まれになる前の衝突では、逆に御父上とキッギア将軍が全滅しかかったそうです。無敵の軍団などないと私は考えています
    強い眼差しを感じて俺は眼を上げた。ハジルは薄い影を被っているようで、俺には手の先の水差しが見えるだけだった。
    「ところが無敵の城壁はある」ドゥッガが野太い声を出した。「壁というものは、たっぷり時をかけて築きあげた邦の護りの城壁というものは、どこであっても容易に破砕できはしませんな。壁はいつでも内側から崩れる。崩されるのは壁ではないのですよ。ボルシッパに潜み住んでいた密偵たちがラージーを連れ去ったように、このバビロンにはすでにかなりの間者が住みついている。包囲のとき、そいつらが不安を煽り、人心を大いに惑わす。周到だとは、そういうことだ」
    ポラッサル王もたぶん、ドゥッガと同じ考えだ。だからこそ壁をさらに厚くさせる。煉瓦十列分で、城内の動揺を百日先延ばしできるわけだ。
    堰が突然破れたように、一斉に歓声が轟いた。塊となった声は烈風のように壁を押すものだと、はじめて知った。新年祭に参集した誰もが、あらんかぎりの声を張り上げている、翌年もここに立てるのだと信じようとして。声が途切れるのを恐れるかのように、この響きこそがアッシリア密集兵団を切り裂くのを乞うかのように、声の波が破城槌となり長駆ニネベの壁に罅いれることを願うかのように。この声がバビロンの恐れの大きさなのだ。
    「豊作が宣されたな。今日の儀は終わりだ。ディリム、急ぎ王宮に戻ろう」ドゥッガに一礼して碗を置き、ベルヌスが言った。「われらも王子とともに、メディア王キアクサレスの名代に目通りする。賓の筆頭は長子アスティヤデスだそうだ。ニネベを抜くために、そしてその後のためにも能うかぎり良好な誼を結んでおきたいのはメディアも同じ
    「山羊の目やにや密偵が一堂に会するわけだ」
    「八王と五人の君侯も」
    「八王の中で二人は伺候しておらんのだろう」
    「当たらずともというところです、親父殿」
    立ち話になっても親子のやり取りは、軽口と政談が入り交じっている。サームも同行して王宮に入っているのだろうか。目の裡にサームの勁烈な後姿が浮かび、足首にはあの日の猪の剛毛が甦った。俺は竦み上がっていたから、サームの矢と鞭は奇瑞天佑としかいいようがない。臆病風は足首に吹き溜まったまま、今でも半眼で俺を窺っているだろう。恐れはどんな病よりも素早くうつる。臆病は恥ではないが見せてはならないのだ。臆したゆえに、俺は武を身に付けたいと願った。ハシース・シンに預けられたとき、俺は商隊の長たる者の備えとして書記修行をするのだと考えていて、戦仕度など思いも寄らぬことだった。しかし、父と覚師の心づもりは王子の陪臣として、俺にしかるべき力を植え育てることだったようにも思われる。
    繋いであった驢馬にイシャルを乗せ、ベルヌスが先を行く。疲れのせいか、王宮へ戻りたくないのか、イシャルは萎んだ花のように首を垂れている。
    「親父の工房、私が育ったあの住まいのあたりは城内で一番静かな、有体に云えば陰気な街区でね」ベルヌスが俺に並びかけて話し始めた。ベルヌスは喋らないとイシャルは言っていたが、むしろ逆ではないか。
    「衆議所と土牢、解放奴隷の仮住まいや武器庫、商都バビロンには相応しからざるものが集まっている。裁きの日を除けばいつもひっそりしていて、犬どもさえ吠えなかったな。バビロンの背中、肩の骨みたいなものだ。隠しているのでもないが、見に行く必要もない
    「土牢といったが、あの方向は穢れの門ではないだろう」
    「方位は穢れの向きではない。噂があるのさ、時たま死霊が騒ぎたてるという。親父は噂を放ってきた。というより、噂ゆえにあの場所を貰い受けたのだろうな。昔の力が宿っているとでも云えばよいか
    イシャルの気をひきそうな話だが、口をはさむ様子はなかった。俺は振り返って工房の方を見やった。見つめていると、光が窄まって星の奥にもう一つ星が見えてくるように、二つの井戸がひと連なりになった。ドゥッガとキッギアの井戸。真水に霊力が潜んでいるのか、タシュメートゥー神が水瓶に顕現されたように。アシュと入った穴倉の一帯にも古人の濃い気配があったことが思い起こされる。
    「君は騒ぎを耳にしたことがあるのか
    「哀歌のように聞こえたな、私の知らない言葉だったが。死霊ではなく、土牢の囚われ人がわが身を嘆いているのだろうと、もちろん初めは考えていたよ。しかし、聞こえてくるのは、いつでも同じ歌だった。同じ歌だけれど、歌っている声は一つではなかった。年寄りも若者もいた。女もだ。私は幾夜も聞いてきたように思う。同じ歌だなとその都度分かるのに、そんなにも繰り返されているのに、ここで歌うことができない。夢が曙光とともに溶けてしまうように、歌も残らない」
    「ドゥッガ殿はどうなのだ」
    「親父は聞こえんというのさ。噂があったのだから聞いた者がいたはずだ。私の空耳だとは思えない」
    「たとえ君にだけ聞こえるのだとしても、歌がないことにはならない。一人にだけ見えるもの、聞こえるものもある。一人にあるのならそれはある」
    「そう考えられれば良いが。私にだけ見えるもの聞こえるものがあるとき、それは物狂いではないのか」ベルヌスは束の間、遠い目になった。「古のことどもは、姿も声も後ろにいるものなのだろうか。いつでも頭の後ろから聞こえてきたな」
    今と古を隔てる扉のようなもの、その場所がたとえば東北の谷ではなく、南西の崖なのには訳があるはずだ。祭壇を築く場所が能うかぎり入念に選ばれるのは、天空への道、捧げの煙が立ち昇る道はあらかじめ刻まれているからだ。
    「声が凝る場所があるのだと思うよ」と俺は言った。
    「ディリムならではの言だな。君は声の射手だ。声で道を拓く」
    「なによりも肝心なのは、ベルヌスが歌を聞いたということだ。彷徨っていた歌をベルヌスの耳が呼び寄せたことだ

  • 39

    「この水は」俺は驚いて尋ねた。
    「美味いだろう、実に」
    「同じ味です。キッギア将軍の荘園の井戸と」
    ドゥッガとイシャルが顔を見合わせ、同時に碗を干した。左手首のない男はただ一つの関心ごとだという顔つきで丁寧に水を継ぎ足す。
    「それはまた光栄な繋がり。キッギア将軍なくして、王もこの城市もなしだからな。ボルシッパの荘園とはずいぶん離れているが水脈は同じということもあろう。この住まいには贅沢なことに井戸が二本だ。俺の短い歩幅で三十歩もないのだが、まったく別な水なのさ。飲めんことはないが、大事なお客人には
    「もう一つの井戸水だって王宮よりずっとまし
    イシャルは盆に載った三つの小皿の一つから茶褐色の粒を摘み、俺に差し出した。
    「何もかも気に入らんと思っているからですよ」
    「ドゥッガさんは王宮へ行ったらお酒しか呑まないものだから知らないのよ」
    「王宮では酒も水も一滴たりとも口にしていませんぞ。なにしろ物乞いに出かけて行くのですから目当ての物以外には手を出さんのです」
    「だって、お父様は気前が良いのでしょ」
    「ポラッサル王は遠征で王宮にいらっしゃらないことの方が多い。そのとき私は石材や食い物を引き出すのにえらい気苦労を強いられてきた。国の金庫番が吝いのは構わんが、小胆、小狡さ、底意地の悪さは度し難い。ディリム、心せよ。いや増した名声はお前様の心映えなど忖度せずに毒蜘蛛を降らせることになる。成功は妬みの親だ。そして妬みこそ、邦を覆す梃子なのさ。王と王宮は似ても似つかぬ。ベルヌスとて王宮に留まれる性質ではないが、あいつが神官王族の恨み嫉妬をかってしまうことはない」
    右手と左手で別の干し果を取りイシャルは右指のものを俺の口元に近づけて言った。「私に任せなさいな。一目でわかるもの、その人が秘密を守れるのか嘘つきなのか」
    「そういえば、この私に従者がつくと云われました」
    「まずその人からよ。私はカドリ兄様よりずっと目利きなの。母様への父王からの下され物が消えるのなんかしょっちゅう。王宮はろくでもない人ばかりよ」
    「ろくでもないなどと言ってはなりません。そういう奴は山羊の目やにと呼ぶのです」ドゥッガは王宮の役人とやり取りしているかのようにかしこまった口ぶりをつくった。
    「あと二つ、教えてちょうだい」イシャルは飛び上がらんばかりに喜んだ。
    「こういうのはどうです。へたれ石榴の三つ落ち、壁穴塞ぎの尻の穴」
    「ぴったり。これからあいつらをそう呼んでやる」
    「それはようございます。どんなに嫌な奴、気味悪いことでも自分で名前を付けてやればよいのです。そして声に出して呼ぶのです
    「親父殿、それはようございますではありませんよ。何がへたれ石榴ですか
    「おお、ベルヌス、久しいな。立ち聞きなどしおって」
    おそらく切り戸の間に立って、ベルヌスは三人の話を面白がっていたのだろう。
    「ベルヌス、こちらの水、キッギア将軍の井戸と同じですってよ」
    どの男にも自分を妹と感じさせてしまう屈託のなさでイシャルが声をかけた。
    「それはよい。新年祭が明けたら王子とわれわれはキッギア将軍の許に伺う。ディリム、もちろん君も一緒だ」
    ベルヌスはドゥッガと俺の間に膝を折り「ハジル、俺にも碗を」と言った。
    見慣れぬ化外の風貌の男がアッカドのありふれた名で呼ばれると妙な気がするが、己の手首を切るほどの者は本来の名を誰にも明かしはしないだろう。
    「お前こそ、何がそれはよいだ。若い奴等が連なって水汲みにでも行くのか
    「訓練ですよ。ニネベ征途の前に戦車の手ほどきを受けるのです。その前に獅子狩りをします」
    「それはよい。俺に獅子を一頭くれ。生きたままだぞ。俺はまだこの年までくたばった獅子しか見たことがないのだ。吠えるところが見たい」
    「失礼ながら、ボルシッパのエジダ神殿もドゥッガ殿の采配によるものでしょうか」基壇の四隅に張られた彩釉板の獅子を思い出して、俺は尋ねてみた。
    「あれは古い。礎のことだがね。建て直したのは俺の伯父貴ラージーだ。ラージーはボルシッパが陥れられたときアッシリアに曳かれていった。だからニネベ城壁の大補強には伯父貴の技が入っているだろう。破城を見越しての抜け穴づくりも終えているとしたら、すでに命はない
    ドゥッガは厚板の卓に積まれているパピルスの下から取り出したものを俺たちの間に置いた。青味がかった彩釉煉瓦の欠片が二つだった。
    「伯父貴の焼いたものだ。この青を真似び取るまえにボルシッパの閂は外されたのさ」
    「ニネベ包囲は長くなるでしょう。根比べの準備も着々と進んでいます
    ベルヌスが目を落として言った。
    「根比べ、備えの周到さではアッシリアの方が長けていると肝に銘じておけよ。伯父貴のことを考えてみろ。味方でもその煉瓦積み城壁づくりの才を知っていた者はそう多くはない。アッシリア軍は伯父貴を含めて何人かを選んで連れ出したそうだ。ボルシッパにはラージーを指差せる者が以前から住みついていたはずだ。奴らは闇雲に殺してかかるわけではない。俺は戦のことは一切知らんが、アッシリア軍が仮借ない軍団長に統率されているのは明らかだ。血に狂わない軍ほど恐ろしいものはなかろう。野戦の行方次第では、こちらが城壁に縋る破目になるぞ。その野戦だ。ディリムにも話したが、今のお前の腕では王子をお守りするのは心許ない。この間の様は何だ。四本目を放つ前にもう射程に入られていたわ。それもガキの足にな
    父と子の対し方は家々の違いがあらわれ、実にさまざまなものだ。わが父ベルドゥは随いてこられるかをいつも黙って見ていた。叱責も軽口もなかった。あの人はエピヌーに何を語ったのだろう。言葉ひとつなかったのだろうか。そして美貌の鍛冶師エピヌーはハムリに冷笑のみを鋳込んだ。歪んだ下顎がハムリの印章なのだ。

  • 38

    組み上げ途中の櫓の下を通るとき、「見えるか」とドゥッガが怒鳴った。何人かの子どもがてんでにはしゃぎ声を上げた。その高さからなら、神殿基壇の盛土の向こうが眺められるのかもしれない。車止めの材が噛ませてある車輪が俺の腕尋ほどもある大きな櫓だ。
    「王宮の近くへ行ってもちび共には人の足腰以外は見えない。見えずともあの場にいる方がずっと愉快だ。しかし、万一気づかれたら、あいつらはこっぴどく追い払われる」
    すぐに歩き出したドゥッガは二度と櫓を見なかった。どんな小さな村にも疎まれ遠ざけられる子どもらがいる。ラズリ様の子たちも、行く先々で傷を負い汚物を浴びたはずだ。「安楽で充たされた幼少を過ごした私には自分の子の身をよじるような欲望をついに汲み取れなかったのですよ」とラズリ様は嘆息したのだ。俺もまた大きな商隊の長ビルドゥの子として遇され、今も導き手に彩られている。俺のようなものが人の心を汲み取ろうと考えるのは傲慢でしかない。
    「ディリムもつむじが二つあるんだ」とイシャルの声が弾んだ。
    肩に乗っているとはいえ、イシャルの目の高さは俺の頭よりほんの少しだけ上だ。一度そう言われたことがあった。こんなふうに嬉しそうにではなかったが。
    「やっぱり私たち似ているのよ。お可哀そうになんて言われたけれど、私にはわかっていたの」
    「つむじなんぞに意味はありゃしませんよ」不機嫌な声でドゥッガは肩のイシャルを一揺すりした。
    「あるのよ。ドゥッガさんには一つ。皆にも一つ。二つある人を見たのはディリムがはじめて」
    「お可哀そうにとは言いませんがね、他の人にないことなら、隠しておきなさい。二つあるのはお二人だけなんだと知っているのは、この私たち三人だけにしておきなさい」
    「覚えておく。ドゥッガさんの言うことはいつも間違っていないから。それに、この三人だけの秘密なら悪くないわ」
    カドネツァル王子が評した通りだ。イシャルは賢い。そして好悪の激しい俺は、隠し事もできず視野も濁りがちだ。そのことを俺も覚えておかねばならない。前を行く二人がそれぞれに小さく頷いているように見えた。
    櫓がもう一つ据えられていたのは、前の場所から四百歩ほど離れたあたりだった。今度はドゥッガの呼びかけはなかった。近くに日干し煉瓦用の木枠が六つあり、その周りに十数個の水瓶が伏せられていた。緩やかな傾斜の先に水路の突端があり、船寄せがつくられている。水路の幅は荷運びの筏が漸く入れる程度の狭さだ。船寄せの側に哨所があった。三人の軽装兵が手にしている短槍で俺たちに小さな礼を示した。普段はたくさんの人足や驢馬が行き来するのだろう、道は踏み固められている上、随所に土止めの石が積まれている。
    船寄せの水音が聞こえなくなるまで歩いたころ、二本の木が見えてきた。一本はあめんどうで、植えられて間もないもう一本は俺の知らない木だ。ドゥッガは若木の下にイシャルを降ろし、何も告げずに切り戸の奥へ入っていった。神殿造営の棟梁、煉瓦積みのドゥッガの住まいは二本の木を守護神像としているのか。
    髪飾りが頭の半分を覆っているので、イシャルにつむじが二つあるのかどうかはわからない。しかしこの小さな頭を見つめていないと、時の感覚ばかりか所在さえ覚束なくなりそうだった。バビロンの街が砂嵐に運ばれて束の間現れた幻のように感じられる。ナブ神への讃を詠ってからすでに幾日も過ぎている気がした。人声もなく匂いも漂わず、土壁の前、影のない木の下で赤黒い虫穴に吸い込まれる。
    「何か言った」
    「ディリムのほうよ、何か言ったのは。私の知らない言葉、短くてよくわからなかったけれど」
    「立ったまま夢を見ていたのかな、私は」
    「どこでも夢見る人、でもニネベでは夢を見ないで」
    その場で腰を屈めて、イシャルが貴顕の娘らしい辞儀をしたのは、右手に水差しをもった男に対してだった。男の左手首がなかった。ドゥッガの言った、自ら片腕を落とした男だろうか。イシャルが若木の根元に両手を差し出すと、男が三度に分けて水を注いだ。男の腕に掛けられている布で水気を拭い、イシャルは俺を促した。俺の手洗いが済むと、男の後にイシャルが従った。光を喪ったのは衝立となっている狭い仕切り壁を回り抜ける間だけだった。丸く刳り抜かれた天井からまっすぐ光の柱が落ちている。さすがというべきか、床の一部には焼成煉瓦が張られていた。高さの違う大きな卓が二つ、向かい合う壁に据えられていて、羊皮とパピルスが重ねられている。描きこまれているのは数と図絵だった。ドゥッガがこれらの数や図を刻み出した時のすべて、吐息と歯ぎしりと独り言のすべてが降り積もって、石壁が熱を放っているようだった。この住まいはドゥッガの頭の中、胸の裡、指先の血の流れそのものなのだ。
    円い光の少し外に横座りしているイシャルは顔半分の陰のためか、皇女の面差しを滲ませている。
    「このような胸躍る場所ははじめてです。イシャルが王宮を抜け出てきてしまうのもむべなるかなと」盆を抱えてきたドゥッガに俺は精一杯の礼をこめて頭を垂れた。
    「俺は必要な物は遠慮なしに所望することにしている。そして王は物惜しみしない。頗るつきの気前の良さだ。この卓もそうだ。黒石には手前の瞳が映るし、そっちの厚板は赤子の肌触りだ。羊皮の使い放題が何より助かる。マルドゥク神殿は基壇だけで二百頭の羊が生贄になっているわけだ。
    片手の男が先ほどとは違う小ぶりの水差しを持って現れた。男はドゥッガよりもずっと年上だろう。額の二本の深い皺には銀貨が挟めそうだ。喉から腕には老いたところがなかった。ドゥッガが粗織りの敷物に並べ置いた碗に男は腰を屈めることなく水を注ぎ入れた。

  • 37

    イシャルの言葉通りなので、その男がドゥッガだとすぐにわかった。瀝青と土と陽と炭と鉄の匂いが岩塊のごとき体躯を陽炎のように包んでいる。イシャルに連れてこられた煉瓦焼きの大窯はまだ冷めきっていないらしく、すぐに顔が火照った。
    「お前の声。ナブーの讃を詠った男だな」一言名乗っただけでドゥッガが返した。「俺は気に入ったな。このマルドゥク神殿に火入れする日には、ぜひお前さんに讃を奉じてもらいたい。ポラッサル王が城壁を拡大せよとのたまうから、神殿の捗がいかなくて閉口しているところだ
    「その日は私、お妃としてディリムの後ろに控えているわ」
    「して姫様。今度はどなたのお妃に」首にかけている黄銅の測量儀をイシャルに向けてドゥッガは声を低めた。
    イシャルは俺の手を取り「決めたの。ナブー神様の御前で」と胸を反らせた。
    「姫はお目が高いですな。この新年祭にお二人して煉瓦積みの仕事場へ喜んでお運びくださるとは、見上げた心がけというもの」
    「煉瓦積みが好きなわけじゃないの。私はドゥッガさんが気に入っているのよ」
    ドゥッガが虚を突かれたように目を落とした。顔半分を覆う強い髭が一本残らず溶け落ちて七歳の少年の顔が現われた。水に映った鳥の影のように一瞬のことだったが、イシャルにはいつも見えているのだろう。
    「人誑しですな、姫は」
    眼の端で俺に笑いかけながら、ドゥッガは生真面目な声で言った。
    「ひとたらし、ってなに」
    「その人のためにすべてを捧げようとさせてしまうことですよ。それにしても姫の心移りには、兄上様がさぞお気を落とされているでしょう
    「仕方ないわ。ドゥッガさんだって、ディリムの声が気に入ったと
    「我が息ベルヌスが姫様に見捨てられたときなど、わしゃ可哀そうで見ておれなかった」
    「ベルヌスはお兄様と同じくらいきれいなお顔。でも喋らないの」
    「あいつは手振りで話すのが向いておる。私ら煉瓦積みはあの高みに立つ者と地面にいる者が話したいときは、こうして大きく腕を振って伝え合います。ベルヌスはまだ言葉も出ないころから、煉瓦積みを見上げて真似をしていたものです
    「ドゥッガさんは大声じゃないの」
    「私は見ての通り手足が短い。地声でないと伝わらんのですよ
    「先ほど、カドネツァル王子の前でベルヌス殿にお会いしました。長弓に優れていると」
    「大地に立っていればな。確かにベルヌスは手足が長く五人張りと称される強弓を引く。だが、王子のお側にいるのなら船端に立っても射られるようでなければならん
    ドゥッガのしてみせた足踏みは大槌が振るわれたように地面を揺すった。共振れのように鈴が鳴り、イシャルは手綱を捌くように俺の腕を突き出させて言った。
    「ディリムはキッギア将軍の戦車を御したのですってよ」
    「あの讃の詠い手がキッギア将軍の左に立った者なのか」
    ドゥッガがいきなり俺の両手を支え持つと、血の流れを聴く医術師のように息を詰めた。俺の腱や掌を押さえるドゥッガの指は柔らかい。途切れ途切れに渡ってくる新年祭のどよめきに俺は耳を傾けていた。
    「無遠慮なことをして済まなかった。見習いとして入ってきた者でも回されてきた奴隷でも先ずは腕を抱えてみるのでね。儀式みたいなもので、特別なことが見えてくるわけじゃない。戦車乗りの腕に触るのは初めてだが、もっと瘤立っているかと思ったよ
    「戦車の訓練は受けましたが、私は書記見習いですから、いつも車乗しているのではありません。キッギア様の下にいる人たちは皆同じ力瘤をしていますね。あと二年もすれば私の腕にも筋は付いてくると言われました。未熟なままニネベの地に赴くわけです」
    「書記か。俺も二つだけ文字を刻せるぞ。戦場では巧者が大功に値する働きを得るとは限らんし、勇者が生還できるとも決まっていない。お前さんにマルドゥク神殿の讃を捧げてもらうまで、あと五年。ニネベで転がってしまうなど許せんぞ
    ドゥッガは窯の縁に膝をつき、口中で湿らせた指先を窯に這わせ始めた。こうしたことにも惹かれるのか、イシャルもドゥッガの傍らにしゃがみこみ顔を寄せている。
    「新年祭とて休んでいたくはないのだが、手の者たちはそうもいかん。奴隷共にも骨休めがいる。俺は鞭を使わない。食い物もたっぷりだ。まともな仕事をさせるにはそれが何よりも効くからな。甘い顔を見せているわけではない。逃げられては困るから両手の甲に焼き鏝は押す。片手を切り落として逃げた奴がいたのだ
    鏝跡が一つなら俺もたぶん、片手を残して逃げることを選ぶ。その備えでもなかろうが、父も覚師も俺に両手を使わせた。二人の意図するところは違っていたのだと思う。覚師は尖筆をただ両手で使いこなすだけではなく、左右見分けがたい文字を刻ませようとしている。左手で刻むように命じたのは夢の記だった。
    あの人もきっと、ラズリ様に出会わなくても逃亡奴隷となっていただろう。しかし、片耳落とされてすぐにラズリ様と出会った。選ぶ前に選ばれたということなのか。
    ドゥッガが立ち上がり、手庇をつくって日輪を見上げた。
    「俺ら神殿づくりは天を崇めているのではない。挑んでいるのさ。そのために一つ一つの煉瓦を焼き締める。一つでもやわなものが入ってはならない。果実も煉瓦も同じだ。こんなことはお二人さん以外には聞かせられませんがね。新年祭らしい特別な食い物の用意などないが、よろしければ一休みしていってもらいましょう」
    「行こう」イシャルはドゥッガの腕に飛びつき、鈴を鳴らせて歩き出した。基壇を築いている神殿に近いからなのか住居は見当たらず人影もない。どこからでも城壁が見えるボルシッパとは街の大きさがまったく違うので、俺たちがバビロンのどのあたりにいるのかまったく見当がつかなかった。南東の中空に灰白の靄が澱んでいる。香の煙だとすれば、夥しい数の香炉台が用意されているわけだ。いつの間にかざわめきが遠ざかっていて、聞こえてくるのは石壁を叩くような鳥の声と怯えた犬どもの吠え交わしだけだ。イシャルがねだったのだろう、ドゥッガは姫を放り上げるようにして左肩に乗せた。きっといつもそうしているのだ。資材が積まれた掛け小屋も、四十本ほどの若木が育つオリーブ園も無人だった。

  • 36

    「圭角露わな息子を密かに恐れる父親も多々あると聞くが、言うまでもなく父王は大きく、私は力足らぬ者だ。しかし、数多い父の男子の中で父と共に、そして父を継いでバビロニアを動かせるのは私のみだと断言できる。私の知らぬ処で優れた弟が己に磨きをかけているかもしれぬし、今もって盛んな父王ゆえ、猛き賢き男子が誕生ということもあろう。だが今ここには私しかいない。父王もそう考えて私を遇し隊を率いさせ臣従国に名代として遣わされる。私が父にまったく敵わないのはあの辛抱強さだ。見ての通り、私は性急だ。果断であるのと思慮のなさは同じ顔をしている。私の許には諌める気概胆力をもつ者が父王以上にいてもらわねばならない。私に親衛隊や取り巻きは不要だ。皆にも臣下としての献身を求めないのは常々話していることだ。父王にはハシース・シンがあり、ディリムの父ビルドゥはハシース・シンの翼。キッギアに並ぶ軍団の束ねにはハジルとツァルムという二人の将軍。このベルヌスの父はハシース・シンにも増して父王に注文をつける御仁で、石積みのドゥッガと何故か女名で呼ばれているが、土木築城にかけては敵地にまで盛名が届いている。ドゥッガの自慢の息子ベルヌスは測量術と長弓が得意だ。私とともに歩む友はなによりもまず戦士であり、かてて加えて手業において旗頭になるほどの技量優れた者であって欲しい。ところで父王にはもう一人知恵者がいて、それがあのイシン王ヤシュジュブ。イシン王はかつて父王と並び立つほどの勢力で、このバビロン開城もヤシュジュブの手になっていたかもしれない。係争を経て父王が王権を握った時、父王は政敵を殺めもせず追放もしなかったのは己にない才を見込んでのことで、法治に関る諸々はすべてイシン王の采配に委ねたのだ。傾きかけた国であろうと、成り上がっていく国であろうと中傷陰謀は暇なく飛びくる。イシン王も気の毒なことだ。すべての訴え密訴に目を通すがゆえに眠る暇さえない。確かにイシン王ヤシュジュブは治者には不向きなのだ。積りくる訴えの細目を悉く覚えているという尋常ならざる記名術。イシン王に粘土板は不要と言われるが、ヤシュジュブ自身が粘土板のごときものなのだ。その男が櫂を取れ、と和したのだからディリムの声の威力たるや
    鈴の音がした。血相を変えて男たちが王子を囲みこんだ。武器になるものは何一つ身につけていないので、俺は拳を固めて音の方へ飛んだ。
    「櫂を取れ」両腕を神像に差し上げて幼い声が言った。
    「イシャル姫」と皆が呼んだ。
    「ねえ、あなた、クルギリンナって何」と七、八歳くらいに見える娘が俺に問いかけた。
    「イシャル、お前、何をしているのだ」カドネツァル王子が少女の前にかがみこんだ。
    「私、この人のお妃になる、素敵な声だったもの」
    「兄の妃になると云っていたのは誰だったかな」王子が少女の唇に指先を当てた。
    「昨日まではそう。でもこの人は声もお顔もきれい。カドリ兄様、お顔はきれいだけれど、声が威張っているもの」
    「私はそんなに威張っているのか
    王子は若者たちに顔を巡らせ悲しげな声を出してみせた。
    「威張っているとは云ってないわ。カドリ兄様は声が威張っているけど、威張ってないの。二番目のシュムリ・シル兄様の声は威張っていないけれど、威張っているのよ」
    「イシャルは賢いな」
    「賢いってどういうこと」
    「よく見ているということさ。ディリム、何番目の妹かよく分からないがイシャル姫だ」
    この姫は廷室のあちこち人々の間を生まれて間もない仔馬のように屈託なく走り回っているのだろう。鈴はイシャル姫の踝飾りの音だった。
    「イシャル姫様、クルギリンナは今咲いているクロッカスのことです。大昔の言葉ですよ。文字をつくった人たちの」
    「ほら、やっぱりきれいな声」イシャルは香炉台に額をつけ、神像を見上げた。
    「おお、クルギリンナ、クルギリンナ、御身なる知恵の花、青き知恵の花クルギリンナ。クロッカスは知恵の花なのね」
    「よく覚えておいでだ」
    「ディリムこそ、この歌を全部覚えたの」
    「妹はヤシュジュブより追及が厳しいぞ、ディリム」王子の笑い声に男たちが和した。「それよりも皆、我々誰一人として姫が隠れているのに気付かなかったのは由々しきことだ。私も含めて鞭打ちに値する
    階に向かうカドネツァルに頭を垂れた八人がついていく。
    「イシャル姫様は秘密を守れますか」俺は声をひそめた。イシャルが動いたようには思えなかったが鈴の音が聞こえた。「私の声を誉めてくださった御礼に姫様にだけ内証でお教えしましょう。その前にお尋ねしたいのですが、姫は私がここに上がってくるところをご覧になっていましたか」
    「本当を言うと、近くを通るまで見えなかった。周りの人たちがディリムのことをあれこれ言っているのを聞いていただけ」
    「私の歩き方、様子は変ではなかったですか」
    「どうしてそんなこと訊くの。いい匂いのするナブー神像と同じくらいディリムはきれいだったのよ」
    「夜明け前、ボルシッパの船留りで御座船の神像を見上げていて、次に気づいたら、この場で詠いはじめていたのです
    「ディリムは船の中で夢の中であの長い詩をつくったのかしら」
    「眠っているうちにナブー神かタシュメートゥー神が詩を注ぎいれてくださったらしいのです
    「でもあれはディリムの歌よ。ほかの人には詠えない。ディリムにしか詠えないのだからディリムの歌よ。夢の中でも夢は自分のものでしょ
    「夢がすべて自分のものなのかどうか。この身は夢の渡し船なのかもしれません」
    「ディリムは夢を積んで運ぶ渡し船」と呟き、遠ざかっていくものを見つめているような不安げな表情のままイシャルは黙りこんだ。幼い者を相手に俺は自分にさえ掴みきれないことを話してしまった。大人びて怯んだような顔のイシャル。夢の渡し船などという不分明な言葉が幼い者に貼りついたからだ。
    「姫は夢をよく見ますか」我にもあらず気の抜けた口調になった。鈴の音がした。
    「空飛ぶ夢が好き」鈴が大きく二度鳴った。「ディリムは知っているかしら。ここはバビロンで一番高い場所。私たち二人とナブー神様が今誰よりも高い所にいるのよ」
    イシャルに促されて俺は空を見上げた。陽はかつてないほど間近にある。甲板に立っているように爽快なのは陽と風を真っ向から受ける場所にいるからなのだ。
    「ドゥッガさんがつくろうとしているマルドゥク神殿が今に一番になるけれど、まだまだ先。ドゥッガさんは顔も体も横に広がっていて蟹みたい。いつも怒鳴りまわっているけれど、私はドゥッガさんの声も好きだわ」

  • 35

    「確かに納得はしないでしょう。代々伝え渡されてきた誓文を諳んじるのではない。また託されたものでもないとすれば、それは当然言葉を発した者に帰するはず。ここまでの理はイシン王にありましょう。升目正しきを誇るイシン殿の面目ここにありというべき」
    「王子、皮肉はそれくらいでよかろう」
    イシン王と呼ばれた男の声音には苛立ちの兆しもなかった。王子と返されたが、長子カドネツァル様なのだろうか。アシュの話していた通り髭は濃くない若者だ。
    「しかし呪われるべきは当面の敵ばかりではないでしょう。不実、猜疑、強奪、裏切り、すべてこのバビロンにても蔓延しております。それゆえにこそ、御方が目を光らせる意味もあろうというもの。現にこの新年祭に参集した王族高官とて半分は間者と変わりないはず
    「参集といえば、この者を推したハシース・シンは何ゆえこの場に来ておらんのだ。そもそもこの度の讃は、奴が酒の勢いで拵えたものではないのか」
    「我が父王の女好きもハシース・シンの酒好きも度はずれているのは、まったくもって仰せの通りだが、踏み外したことがあるとは聞いていませんよ。なにはともあれ、この者の声、少なくとも喉を潤させてやらねば答えも出てきますまい」
    「答など待っておらん。私はこの者ともまたハシース・シンとも違って言葉を信用していない」
    「何故でございましょう。あなた様のお考えを察するに言葉には表と裏がということでしょうか」覚師まで軽侮する物言いに俺は王子の前もわきまえずに食い下がった。
    「見くびるではない。見くびるではないぞ、ディリム」
    はじめて俺の名を言ったイシン王が怒ったように見せかけているのか、怒りを抑えかねているのか、やはり俺には見当がつかなかった。イシン王と呼ばれた男はゆっくりと立ち上がって王子に拝礼し、王子を囲む八人の若者たちの間を抜けていった。贅を競う礼装を目にした後では、イシン王のまとっている長衣は粗毛をつなぎ合わせただけに思えた。
    「軍鼓のごとき讃を詠った者にしては、いと拙き弁解だったな。私までイシン王のように信じそうになるではないか、ディリムがつくったものではないと。まずは熱を冷ますのだ、ディリム。杯がない、手で受けよ」王子は傍らの男から水差しを取って言い、膝を折った。
    「勿体なきことでございます」
    俺は遠慮を捨て、時間をかけて水を含んだ。喉のそこかしこがひび割れているようだった。水は強い薬草のようにひびに染み入った。血の匂いがした。王子が熱を冷ませと言ったのは喉のことだけではない。先ほど参集者から投げ与えられた布の一枚で口元を拭き、俺は石床に額をつけた。
    「このエジダ神殿の天壇でディリムに我が友たちを引き合わせることができる。それをナブーの御心に感謝しよう。ここであれば耳を気にせずに話ができる。ディリムは聞いているだけでよい。私はカドネツァル。皆、出自はさまざまだ。シャギルとリシヤ、アッドウは私と初陣を共にした」名を云われた三人が代わる代わる会釈した。
    王子の初陣の話はいくつも聞かされている。王子一人で密集軍団の堅陣に馬を乗り入れ切り結んで崩したなどという大げさな噂まである。臆することも逸ることもなく、父王を安心させる動きだったという覚師の言が真実に近いのだろう。
    「ディリムは初陣でキッギアの御を務めたそうだな。羨ましいことだ。軍団の頭自らが教導した者に己の御を抜擢したのだからディリムの技は格別なのだろう。総勢二千ほどの部隊で両翼五十騎ずつの騎馬隊の一つに私は付けられた。例のアッシリア中核の歩兵部隊から相手の騎馬隊を切り離す命を受けていたのだ。牽制し合って駆けまわっていたのはどれほどの時だったのか。直にぶつかることは一度もなかった。後で部隊長は言った。騎馬隊の技量は互角でした。しかし奴らがここに王子がいるのを知っていたら仕掛けてきました。ぶつかってこられたら、王子を守るために兵の三分の一を失ったでしょう、とな。キッギアはもちろんそうだが、父王は将軍に恵まれている。冷静で率直な物言いいは戦場を引き締める。矢合わせ一つなく終わったその初陣の日、下馬しようとしても手綱を離せなかったよ。アッドゥが気づいてこじあけてくれたのだ。そう、笑われても仕方ないが
    ナボポラッサル父子の見かけは似ていないが、二人とも尊大なところがなく付き従う者は気構えなく己の考えを上申できるのだろう。
    「王子を笑ったのではございません。この私もまったく同じでした。キッギア殿に解いていただいたのです」と言って俺は低頭した。
    「そうか。だがディリムの戦いは夜戦で容赦なき殲滅戦だったと聞く。死と血と叫喚の真っただ中でのこと、恐ろしさは尋常ではなかったろう
    王子はすでに俺のことをかなり詳しく聞き知っている。俺は言を継いだ。
    「騎兵隊長の言葉、肝心なのは技量互角な敵が王子たちに気づかなかったこと。五十騎が一体となって動いていたからこそ、際立つ緊張を見せなかったのでしょう
    「そして背を向けた時に、技量の差が露わになるというわけだ
    と王子は頷いた。
    「無難に働いたのだな、われわれ三人とも」とシャギルが言い、「シャギルはいつも無難さ」と五人の中の一人が笑った。
    「ディリムは思いがそのまま顔に出る。衝に当たるには向かないな。あれほどの言葉を操れるのに惜しいことだが、何もかもこなせたのではかえって処遇に困る。ゆっくりと知り合ってゆけばよいが、この者たちの名を言っておこう。カハターン、ウッビブ、ワラド、ハンム、ベルヌスだ。ディリムのここでの居室はボルシッパから来た従者が整えている」
    「この私に従者ですか」
    「ハシース・シンから何も聞かされていないのか」
    「ボルシッパに戻らないのは分かっていましたけれど、覚師がこの場に来られぬことも、イシン王の言ではじめて知りました」
    「ハシース・シンの居場所を知っているのは父王だけだ。あの二人がどのような手段で通信し合っているのかをぜひ伝授してもらおう」
    地上から歓声が上がってきて三度繰り返され、不意に静まった。陽は中点に近かったが、風はまだ冷たい。長く見上げ続けていたナブー神像から目を戻し王子が話しはじめた。

  • 34

    御身の第一の指が愛でしもの、それは流れ、
    ユフラテの流れ。とこしえの生命ゆえに。
    御身の第二の指が愛でしもの、それは麦穂、
    豊かなる麦穂。約束の力ゆえに
    御身の第三の指が愛でしもの、それは大空、
    青き黒き天蓋。身罷りしものたちの思い出ゆえに。
    御身の第四の指が愛でしもの、それは大角、
    白き牡牛の冠、額に潜む夢ゆえに。
    御身の第五の指が愛でしもの、それは弦、
    古の七弦琴。同胞の血で購った凱歌ゆえに。

    御身の第一の左指が呪いしもの、それは彼の地の南門、
    言葉なき市、不実の巣、御身の火矢にて破砕せん。
    御身の第二の左指が呪いしもの、それは彼の地の東門、
    巫術はびこる市、凶夢の巷、御身の車輪にて斥けん。
    御身の第三の左指が呪いしもの、それは彼の地の西門。
    苦吟絶えぬ市、恐怖の牢獄、御身の鼓にて解き放たん。
    御身の第四の左指が呪いしもの、それは彼の地の北門。
    清き水喪われし市、善心なき広場、御身の拳にて裁きを下さん。
    御身の第五の左指が呪いしもの、それは彼の地の糞門。
    猜疑渦まく市、眠り奪われし寝所、御身の歌にて浄化せん。

    雨降らしの星が没するとき、御身北へ歩み出さば、
    我ら軍旅の行李を整え、御前に額づかん。
    我らが旗印は御身の腕、御身の声、御身の眼差し、御身の涙。
    すなわち我らは比類なき神軍。
    すなわち我らは丈高き香柏の番人。
    すなわち我らは劫初の井戸の守り人。
    すなわち我らは唯一の花の見者。
    すなわち我ら恐れぬ者、つくる者、充たす者、憧れる者。
    御身口を開くとき、我ら勲求めて駆ける者となるだろう。

    汝ら今こそ見よ、東の空を、獅子座の大鎌を。
    駆け続けよ。
    汝ら、明日には見よ、鷲座の出現を。
    さらに駆け続けよ。
    そしてさらに、葡萄収穫者の星とともに駆け続けよ。
    駆け続けよ、そして櫂を取れ。
    櫂を取れ。

    「よくぞ詠ったな、ディリム」
    俺は恐懼した。神に名を呼ばれたと思ったのだ。頭に大きな掌を感じ、俺は目を開けた。目を開いたつもりだったが何も見えず、光の鞘の中に俺はいるようだった。顕現したナブー神に俺は包まれている。耳許で風が鳴った。
    「声の力とは驚くべきものだ。お前の讃はこの神殿だけでなく城壁の外にも響きおよび、天象も大地も心ふるわせたにちがいない。我らはまたとない恩沢を受け取ることになろう」
    ナボポラッサル王はナブー神像のごとき偉丈夫だった。俺が知るもっとも背の高い男は父の商隊の黒き人だが、王ははるかに丈高く逞しく、御座船の帆柱とも見えた。王の声はおだやかで、夜闇の底で額を合わせている気がした。
    「ハシース・シンはお前のことをタシュメートゥー神の愛でし若者と言った。大口、大戯けも遠慮なしのハシース・シンだが、此度は申し分ない推挙であった。私には収穫の託宣を受ける儀式が残っているが、もはや気をもむことも無用だ。とはいえ、涙流すまでは慎まねばならぬ。ディリムは十分寛ぐがよい」
    答礼しようとして、俺は喉が腫れ上がっているのに気付いた。まこと城壁の外にまで讃が迸り出ていったのなら、俺の喉など焼けてしまうだろう。歩み去ったナボポラッサル王に続いて、我が邦の、同盟国のそして交易地の貴顕らしき男女が次々と俺に声をかけ、玉を置き、布をかけていく。はじめて耳にする異国の言葉も数多あった。うねり流れる布のあでやかな色、豪奢な織に俺はすっかり幻惑されていた。
    「隠さずに答えよ」
    跪いたまま礼を返していた俺に男が言った。死を宣するのに劫もためらいのない声があるとすれば、この男がそうだ。俺は顔を上げた。この上なく冷酷だが嘘のない男の顔が俺を見つめている。
    「なぜだ。なぜお前は国の名を挙げなかったのだ。呪うべき邦土の名を彼の地などと言いおって。今このとき、我がバビロニアが呪うはアッシリアであるのは紛れもないこと」
    「わかりません」土中に埋められているようなしゃがれ声が洩れた。竦んでいると思われたくなかった。
    「無礼は許さん。お前が詠った讃のことだ。言葉を預かったとでも申す気か、西国の預言者同様に」男は鼻先が触れるばかりに顔を寄せてきた。
    「申し上げた通りです。詠ったのは私ですが、私がつくった讃ではございません。また、どなたかに授けられたものでもないのです」
    「櫂を取れ。信じられんことだが、私も気づいたら声を合わせていた。皆、王に倣ったわけではない。自ら和したのだ。熱狂すれば痛みも恐れもつかの間忘れる。私は熱狂に与する者ではない。にもかかわらず、我知らず巻き込まれた。危ういことだ。滅びに至るまやかしの高揚ということだ」
    「あなた様には信じられないことかもしれませんが、私自らが練り上げた歌や讃と、この度詠った讃は出処が違うのです。口を貸したとは言いますまい。ひとたび私の口から出た言葉はどちらでも繰り返せます」
    「彼の地といえば、それはどこをも指していることになろう。となれば、お前は暗にバビロンの民を貶め弾劾しているやもしれぬ。ハシース・シンの学舎にいる者なら哀歌も知り尽くしておろう。シュメールの古語にも通暁しているはず。そういう輩にしかできぬ技だ」
    「我らが敵アッシリアと我が邦地バビロニアをひと混ぜにするなどありえぬこと。それはわざわざ誓うまでもございません」
    声を出すのが精いっぱいのまま答えながら、怒りが込み上げてきた。憎しみは努めて抑えるべきだけれど、怒りが募ったら放てばよい。しかし、この喉では怒ることも叶わない。
    「私だけではない。今のお前の話に誰が納得できる」
    罪を暴くというより、浮き彫りのごとく罪を切り出そうとする男の前で俺は反駁のしようがなかった。何と答えても、男はそんなはずはないとの一点張りだろう。この男は決して大声で喚くことはしない。詰め寄る口調でこの人は怒りを装っているのだ。俺はといえば、決して怒りを溜めおくことができない。

  • 33

    指笛が鳴り、船が小刻みに揺れた。二昼夜の断食のせいか、胃の腑も共振れする気分だ。俺はいま一度振り返りバシュムの丘を見た。夜明けにはまだ間がある。丘から見送ると言ったグラが合図の灯を点すかもしれないと俺は思っていた。あの日ラズリ様が語った父エピヌーの話をグラはどこまで聞いたのだろうか。いつの間にかグラが俺の脇に坐っていたのだ。「エピヌーは得体のしれない者となった」とまでラズリ様は語った。娘が聞いて穏やかであろうはずはない。あるいは以前から知っているために左岸の父の家を離れて祖母のもとにいたのだろうか。あの日から俺は一度もグラには会っていない。すでにバビロンの鍛冶屋に嫁がされたのかもしれなかった。覚師とともに太守に直答するラズリ様であっても、父娘のことに祖母は口を挟めないのだ。
    天空の脱ぎ落して行く夜闇で川面に寒気が染み通る。時折寛衣の裾を震わせる風が渡ってくるけれど、汀に連なる松明が揺らめくことはない。御座船に先行する九艘の小舟が舫を解いた。小舟に配された漕ぎ手は皆俺と同じ年頃だ。銀糸で縫い取りされた短衣をまとって小舟を操った者たちの中から御座船の二十七人の漕ぎ手は選ばれ、さらにその中から王の軍船の舵を取る者が抜擢されると云われている。今日の誉れは出世の印章だと大半の水夫が信じているようだ。
    「われらはいずれ海を繋ぐ。上の海から下の海までを」とナボポラッサル王は宣したという。我が御座船の漕ぎ手は華奢ではない。しかし、この国の水夫たちはまだ水と闘ったことはないのだ。八歳になる前に父と上の海まで行ったとき、俺は錫や梁材を求めて北の海へ向かう船乗りたちを見た。櫂に見紛うほどの太い腕の連中ばかりだった。
    バシュムの丘を神域とした往古の者たちは海の民だったにちがいない。あの丘のどこかにそれを証する粘土板が埋まっているだろう。
    ボルシッパの住民も夜明けを待たずに起き出している。この御座船とともに河岸を歩いてバビロンまで行こうとする連中だろう。犬どもも昂ぶって夜通し吠えたてていた。新年祭が始まった六日前からバビロン城壁の内外には各地からの旅人や商い人の天幕が張られ喧騒と熱気が充満している。風の具合によって人声や食い物の匂いまでがちぎれ流れてくるのだ。
    戦乱の卵は遠からず孵る。殻を突く音が聞こえてから久しく、明日をも知れぬという思いが祭りへの熱狂をいっそう煽るのだ。怖れに咬まれることに疲れた者たちは自棄狂乱の態で戦を迎えようとしている。麦酒はふんだんに呑まれ、驢馬は例年に増して鞭打たれ、行きかう民の罵声殴打は数知れない。男たちは頻繁に娼窟に出入りし女たちは寡婦となる前から意中の男を誘う。僅かしか持たぬ者は使い尽くし、富める面々は闇雲に溜め込もうとしている。「生き残りの後裔は腑抜けばかりだ」と学び舎の者は吐き捨てるが、数十年前に味わった敗戦後の酸苦は思い起こすほどに強まるのだろう。アッシリアの逆さ吊りを目にした先の代の恐慌は孫子の夢をも引き裂くのだ。首竦めるのが習い性となったボルシッパらしいというべきかもしれない。ナボポラッサル王が強くなりすぎたからだと囁く輩までいるようだ。それはしかし、誤った見方ではない。ナボポラッサル王と一度でも渡り合ったアッシリアの将軍連は王の果断な駆け引きに翻弄された。幾度も謀殺を企て、都市群の切り崩しを図ってきたのはそれゆえだ。ナボポラッサル王自らが出陣したときは、この三年負け戦がないと聞いていたが、「敵にも味方にも退いているとは見せないからだ」と覚師は言い、「逃げ道を指し示して突撃と叫んだのも一度ではない。ときには真っ先に逃げたわけだな」と含み笑いを見せた。
    王が自軍もまた欺かなければならないのは当然のことだ、と俺は思う。出世話と敗軍の流言は蝗の飛来のごとく一気に膨らみ、欲と恐れに抱き取られた者は必ず裏切る。同盟軍からも親衛隊からも身内係累からも全幅の信頼を受けること、そしてこの者たちの心変わりに動じない覚悟と度量が王たる者の要諦なのだろう。
    「アッシリアはわれらにとって腕力のある異母兄弟のようなものだ。かの国から新たに得るものはない」とハシース・シンは言い、呟くように結んだ「次は一回限りの会戦となろう。敗軍は血の帯引いて城壁まで駆け戻る、それがニネベとなるかバビロンなのか」
    戦いは両国の宿命なのだ。どちらかが倒れるまで、ないしは共倒れになるまで終わらない。両国人を区別するのは衣服や髪の結い方、俺たちにとっては耳障りな舌の叩きくらいで、裸で目を閉じていれば敵味方を見分けられない。
    釣り合っている天秤、それが今のわが邦とアッシリアだ。わずか一粒の小石で天秤が覆る日が迫っている。夢を刻んだ粘土板の文書倉を封印するようにと、俺は十日前、覚師に言い渡された。長い間ボルシッパを離れることになるのだ。血の帯引いて城壁へ。俺自身の帰還が叶わぬばかりか、この地が再びアッシリアに貶められるかもしれない。
    バシュムの丘の稜線が朝靄から滲み出てくる。丘は大海を押し分ける舳先のようだ。そこにグラはいない。丘にあるのは粘土板に遺された声だけだ。
    俺は御座船中央の台座に据えられている神像に近づき、四人の衛士の後ろに跪いた。神像に随行するのがお前の役目ではないと覚師に告げられたのも十日前だった。王や侯国の太守らが居並ぶ主神殿で讃を奉献するのだと。グラの言った通りになったわけだ。あいつは言った。「あんたは五十の新しい名を捧げるお役を賜るのだわ」
    あらかじめ讃をつくってはならぬ、と覚師は命じた。タシュメートゥー神に夢を捧げたように、その日その時口の端に上ってくるままにナブー神への讃を唱えるのだと。
    曙光が射し、香が匂う。御座船に移される前の七日間、四つの花湯と三つの香風呂に浸されていたナブー神像。俺は目を開けた。感じ取れるのは白い光と乳香の香りだけだった。俺は言葉を注がれた。白い光と乳香の香りから。

    御身は呼び起こす者、逝きし者。
    御身の声、御身の目、御身の涙。
    御身の第一の御子は空を行くお方。
    第二の御子は耳の後ろに隠れるお方。
    そして第三の御子はなべての尖筆と戯れる。

    おお、クルギリンナ、クルギリンナ、
    御身なる知恵の花、青き知恵の花クルギリンナ。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の叡智にひれ伏す者。
    御身は言葉の樹、はじまりの聖都で燃え立つ火炎の樹。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の言葉に仕える者。
    御身は言葉の泉、涸れるを知らぬ悲しみの泉。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の言葉に手引かれる者。
    御身はすべてを見しお方、往にし方より来し方までを。
    バビロンに集う我らは御身の僕、御身の物語を語り継ぐ者。

  • 32

    物持たぬ旅人にとって、ましてや年端のいかぬ子連れ親子にとって物乞いは生きていく術の筆頭だろう。私たちは一度もそうしなかった。集落や城市に入ると鍛冶や陶工の才覚を恃んで、流れの職人を拒まない座を選んできた。同行の旅人が組し易いとみれば、往々物乞いは追剥ぎに転じる。街道でそうした追剥ぎに襲われると、私たちは二人の子の前で容赦なく殺した。子らに傷一つ負わせないためにあの人が子の前に立ち、私が先手となった。二人の子が怯えて声を挙げたり目をつむって震えたりすることはなかった。胆力というほどのことではなく慣れだったろう。それほど私たちは見くびられることが多かったのだ。もちろん、何もかも二人で切り抜けてきたわけではない。大いなる援けに幾度も与ってきた。この世は不思議に満ちている。援けはいつも不思議な出来事だった。
    「これまでは追い出されてきた。この地からは自ら出て行かねばならない」とあの人は言った。
    吹き荒ぶ砂の向こうに滲む監視櫓の灯。あれは烈風の中にあっても燃え盛る松明だ。それでも、哨兵たちの目は飛び流れる砂で大いに晦まされているだろう。出発してしばらくは激しくもがいていたエピヌーも櫓に近づくとおとなしくなった。私たちは身を寄せ少しずつ這い進んだ。顔に塗った炭の匂いがした。
    真上から灯が当ったとき、スハーが私の腕輪に指を置いた。怯え竦んでのことではなかったのだ。幼き迷う者は行く道を心得る者、スハーこそ腕輪の力を知る者だった。長い間、砂の窪みに臥していたような気がしたけれど、どんな時が流れたのだろう。風は止んでいた。砂煙が澱んだままなので身の回りが辛うじて見えるだけだ。
    腕輪から指を離し、スハーはあの人の横に這っていって耳打ちした。そのやり取りは敵の陣構えを見定める将と副将を思わせたが、エリュシティを起こして砂を払っている様子は普段の二人に戻って仔兎が睦み合っているようだった。あの人はゆっくりとエピヌーの縛めを解いた。長子エピヌーは夢の名残に浸っているみたいに横座りのまま目をさまよわせていた。
    膝立ちのスハーとエリュシティが揃って皮袋の水を零していた。目をむいて止めようとするお前たちにスハーは銀の国の言葉で静かに言ったのだ。「私たちはあそこから出てきたのですから」
    振り返ったお前たちの目には、既に監視櫓も灯も映らなかったろう。
    スハーの声に迷いはなかった。半身は丸い頬と柔らかな声の幼き者、耳から後ろは天より遣わされた智者。お前たち二人は託宣を受けたかのように、異を唱えることなく皮袋の水を捨てた。そしてさらに、二人の子供に倣って麦粉も捨てた。口にする水なく、天に星なき夜、お前たちは迷う者に随いていくこととなった。自分より幼い者が父をたじろがせ畏怖させる力を顕すのを前にして、長子エピヌーは縄打たれたときには感じなかった屈辱を覚えただろう。長子を襲った途方もない憤怒をお前たちは知っていたか。そのことをも嗅ぎ取ってなのか、スハーが先だって歩くことはなかった。
    井戸を聴き当てる力とつながるのだろうか、あの人は一度踏みしめた土地を忘れない。大地は風と水によって日々剥がされまた覆われるのだから、足裏の記憶とは違う。人の顔は日々移っていくが、顔から生まれてくる声は変わることがなく、幼い声は長じても同じものだ。あの人は土地の声を聞いていたのだろう。丘全体の崩落で街道が消えても、大雨が三百年の樹を運び去っても、大地と空は見つめあいときに争いながら、同じ声を発する。さりながら、あの人は行く手を定めることができなかった。
    スハーは時折あらぬ方へと走り出し、エリュシティが後を追った。砂に紛れるほど遠ざかっても、エリュシティの青布だけはよく見えた。そのようにして、スハーは道を示したのだ。
    長子エピヌーはその振る舞いも憎んだのだ。ボルシッパの女たちをざわめかせたエピヌーの美貌は幼い憎悪の果実だった。美しい二親を釘打ちこむほど睨み続けたためだ。お前と夫が先を行く子らだけを見ていたときに。
    スハーに従って通った六ヶ所の水場には露営跡も獣たちの気配もなかった。私たちだけの水だったかのように。名のない地から脱け出し二十六日目に辿りついた村には二本のアカシアと五十九本のオリーブがあった。私たちは追い出される前にそこを後にした。スハーが導いたからだ。その村から六つの集落を経て百十四日でボルシッパの右岸に着いた。ボルシッパはあの人が消え入るだけの場所となった。到着から月の巡りが四つ。この地が私たちを受け入れたのかどうか決めかねる日数だ。あの人は裡から病に喰われてしまった。初めて会ったときのように髪をなくし、耳の痕が露わになった。
    人の生き死に一つひとつを天の神々が覗き込み手を下すことなどありはしないのだ。己の行く末を神に視られているなど思い上がりの極み。しかし天が徴をつける者たちはいる。そのような天の囚われ人、足跡を残す者たちは、当然のことながら死の日を選ぶことは叶わない。
    あの人が逝き、エピヌーが婿となって左岸に渡り、エリュシティたちが身まかった後、一人になった私は旅立った。名のない地から二十六日目の村の場所は、樹の燃え跡で見つけることができた。焼尽して久しいと思われた。私たちが去ってすぐだったのかもしれない。燃え落ちた村から子どもの足で二十六日分の道のり。驢馬駱駝を使えばいくばくもない。そのどこにハシース・シンほどの智者、ディリム・ディピの父ビル・ドゥほどの旅人が見聞したこともない場所が潜んでいるのか。隠されているものは必ず見いだされるはずだと私は思う。
    隠されているものなら見つけ出せるとお前は信じてきた。あの地の魔性が夫の早すぎる死を呼び寄せたともお前は疑い続けている。しかし、共にあの地にいたお前自身は永らえている。長子もまた栄えている。
    生き延びていることに何の理由もないのです。捨て置かれただけ。脱出に力あった者たちだけが早々と命を摘まれてしまった。あの広大な窪地が呪いのかかった辺土であることは打ち消しようがない。あの人が探った洞のどこかに、目にしてはならぬもの、触れることを許されぬものがあったはずだ。スハーもエリュシティも知らずにそこに迷い込んでしまったにちがいない。

  • 31

    「来歴はみかけに宿るものではありません。勘違いしがちなのです。選ばれたものは特別なみかけをしていると。ディリム・ディピのようにこの腕輪に触った者がありました。幼い指でした」
    あの地に着いた翌朝エリュシティはその少年を連れてきたのだ。いつから一人になっていたのだろう。エリュシティが「この子はスハー」と言ったので、あの人も私も少年が迷子になったのだと思いこんでしまったけれど、少年が自ら迷う者と名乗ったようだ。その夜から私たちは同じ皿で食べ始めた。
    あの人と私と子供だけで使う言葉は十種ほどの豆でつくった煮込みのよう、赤い砂の国と銀の山の国の言葉を主として、アッシリア、ウガリト、ヘブル、ファラオの国など、住まいした地の言葉がとりどりこき混ざっている。ひとたび囲いから出ればその地の言葉だけを使う。幼い者たちにはそのような弁えがあろうはずもないが、十日ほどでその地の言葉をたちまち覚えこむ。口数が少なくとも耳は別な生き物なのだ。スハーは最初の日から私たち四人だけの煮込み言葉を使いこなした。長い間私たちの傍らにいたのに誰も気づかず、エリュシティが空を刳り抜くようにして封印を切り、スハーを迎え入れたかのようだった。
    スハーが巻いてくれたのだろう、エリュシティは髪に青の飾り布をつけていた。美しい髪のエリュシティ。私の髪は荒野の娘の名の通り、いつの間にか強い毛の束となって梳るのが難しかったけれど、娘に櫛を当てるのは心地よかった。櫛の歯は麦畑を渡る風のように香しさの中を走った。エリュシティの髪はあの人ゆずりだった。出会ってから一年を過ぎて片耳の痕がすっかり隠れるほどに髪が伸びたとき、あの人が言った。「俺はアステレー・コメーテスとあだ名されていた」
    髪のある星、彗星のことだそうだけれど、その時はまだ私は彗星を見たことがなかった。
    「小さいころは肩より長かった。思い切り走ると馬の鬣みたいに靡く。もっと速く走りたくて、長い丘を駆け下りたり高みから飛び降りてよく怪我をした。この髪、二度と切らせはしない」
    アステレー・コメーテスが髪のある星という意味なら、俺はその国の言葉を少しだけ学んだ。女首領が遠いと言ったわけだ。上の海よりもっと北の国だ。父は船団を組んで都市のいくつかを訪れたと思う。
    エリュシティは幼い時の想いを全うし、スハーとの間に一人息子キナムを儲け、静かに逝ってしまった。二人ともあらかじめ決まっていたことに途惑いひとつなく身を預けていったようだった。二人を出会わせるために、私たちはあの名のない場所に導かれたのかもしれない。
    見え隠れする隊伍に行く手を阻まれ追い立てられてからの夜空には月も星も見えなかった。土塁を巡らすように砂塵を捲き上げる兵団のせいかと思えた。奴らが現われる前夜までそうだったように、その季に星が埋もれる夜は滅多にないからだ。
    「星が読めぬ」。
    名のない土地に囲い落とされて三日後にようやく広がった星空を見てあの人が呟いた。星の在処が狂っていた。一つ二つの月の巡りの違いではない。天の河の洪水に見舞われた星々が元の場所を忘れ去ったかのようだ。不安不吉を言い立てる声は聞こえなかった。着いた場所が刑場でも奴隷市場でもなかったことで、緊張の解けた面々は牧者のいない群れとなり空を見上げることも忘れたのだろう。間遠の軍団に向かって豪胆そうに悪態を突き通しだった男も膝の間に頭を垂れていた。
    「星が読めぬ」とお前の夫は言った。
    行く先々で、お前たちから栖を剥ぎ取ってきたのは星神の邪眼だった。この度は発する声もなく顔貌さえも定かならぬ兵団だ。理由なき人狩りがあろうはずはない。囲い込まれ、たらふく食わされるとなれば、山羊か羊に見立てられていることになる。切り落とされ手首の山に歓喜するという女神二人。お前の夫、かつてアステレー・コメーテスと呼ばれた男が、自分たちは妖神を崇める部族の犠牲に供されるのかと疑ったのも故あるところ。しかし、櫓の組み方、水路や溝の切石は神々の家造りを担う大工の手業かと思えるほどだった。だとすれば、四方世界の大王が版図とした帝国よりもさらに遠方からの軍勢であろう。
    「星が読めぬ」あの人は呪文のように繰り返した。あの人が初めて見せる不安げな様子だった。星神の非道をすべてはねのけてきた戦士が雲の影のような兵に肝引き裂かれることはない。しかし、ひび割れてつなぎ損ねた天空の有様は凶事の予感ではない、凶事そのものなのだ。
    星々が処を違える、そんなことはあろうはずがない。変わらぬ星宿こそわれらの拠り所ではないか。俺には、そのような天空を思い描くことができない。カルデア人なれば、天を支える柱が歪んでしまったかのような変事も読み解くのだろうか。
    生贄でも奴隷でもないのだとすれば、どのような企みのもとに、いかなる神慮に拠って私たちは狩り立てられたのか。私たちは以前から住んでいる者たちに尋ねまわったのだ。いつからここにいるのかと。耳馴染みがない異邦の言葉を話す者はいなかった。住人は雑多な寄せ集めで、偵察行軍中、偶々捕捉されたかのようだ。私たちもその大雑把な網に絡め取られたわけだ。一人として、連行されたときのことを覚えていなかった。それを訝っている様子もない。夢から覚めたかのように、見えない縄目を受ける以前のことを囲い地の誰もが忘れている、消されている。私たちはといえば、星神の執拗な追跡に脅かされているので、来し方のすべてを忘れることができないのだ。星神の全き憎しみが私たちを忘却から救う。
    糧と水の欠けることがないためか、病んでいる者は見当たらなかったけれど、人々の動きは大儀そうで、日がな寝そべっている後宮の女たちを思い出させた。囚われ人でありながら夜空を見上げぬ者たちは、充ち足りた物乞いとなってゆっくりと立ち枯れていくのだろう。

  • 30

    あの人はそこで何を見てきたのだろう。洞窟の奥から戻るなり、住人たちに悟られぬように脱出の準備をすると囁いたのだ。天のつくりし陥穽をことごとく躱して窮地を切り抜けてきたあの人が白光に目を細めながら私の肩を抱いた。何を見つけたのだろう。あの人は最後まで語らず、私も尋ねなかった。尋ねることができなかった。制されたわけではない。たぶん、あの人は名のないもの、名づけられないものを目にしたのだろう。
    何もかもがある名のない土地。穀物倉はいつも溢れていて、日々の糧を思い煩うことなければ祈る神は無用になるのか、長はいても神像も供物台も見当たらなかった。地味の良さにもかかわらず、丈高い樹が一本もない土地。お前たちが住まいすることになった村はゆるやかに落ち込む盆地の底にあった。村のほぼ中央に鋼色の岩塊があり、岩山を背に日干し煉瓦の家が三百戸ほど半円をつくって建っていた。半日分離れたあたりに同じような岩塊があり、遠目には駱駝瘤のような小丘に見えた。夕暮れに蝙蝠どもが舞い出てくる岩の頂上の割れ目からお前の夫は潜り入り、洞窟を見つけたのだ。監視櫓まで木柵も土塁もない邑、広大な獄屋からそれまで出て行こうと考え実行し逃げおおせた者がいたのかどうか、お前たちには知りようがなかった。
    どういう者たちがあの地に放り込まれていたのか。見え隠れする兵団は大部隊ではないが、押し包まれてしまえば逃れようのない人数だった。行軍の砂煙によって行く手を遮り圧迫を加えてくるので、連行されるのではないが道を選べなかったのだ。そのようにして追い回されるうち、てんでに散らばっていた羊が一群れに包まれるように集団は二十人を超えるほどになっていた。誰も言葉を交わさなかった。元より私たちは星の懲罰に追われる身、天の書板に科を記された者だが、他の引かれ者たちはどこから集められてきたのだろうか。怯え俯いている若者、熱に潤んだ目をした女、山羊とだけ寝起きしていたような牧人、盲の老人と手引きする小娘。夜営となれば、独り者は一人で手枕し、家族は皮袋を回し、二人連れは聞き取れない小声で話をかわし眠りについた。
    監視櫓の間を通り過ぎる頃には、一行は私たち四人を含め五十人近かった。櫓は王都の聖塔を思わせる仰ぎ見るほどの高さだった。駆り集められた者の大半がそれぞれ武器になるものを身に付けていたはずだが、兵が近寄って接収していくことはなかった。武器を持つ囚われ人。叛乱も脱走もないと決めつけられていたのだろう。
    櫓から砂礫を踏みしめ丸一日歩くと草地がはじまり羊と牛が目に入ってきた。そしてさらにもう一日進むと、眼下の広大な湖と見えていた緑が密生する麦穂だとわかった。油のように光る麦畑はひとたび分け入ると身に絡みつくように感じられた。
    櫓から遠巻きに監視していた兵士たちが村まで入ってくることは一度としてなかった。囚われ人の倉を満たしている麦や家畜たちを手もなく奪い取れるのにそうしなかった。その地の支配者がどこの国だったかついに分からずじまいだ。アッシリアが著しく版図を膨らませていた時だったが、武装の様はかの国とはまったく違っていて、まとっていたのはハイエナを思わせる緑の斑点がある長衣。
    間近でハイエナを目にするのは初めてでした。群れをつくると小さな火くらいは恐れないのか、放り投げられた後一所にまとめられた果樹園の者たちの首を狙って緑の斑点が蠢いていたのです。奴らの放つ悪臭に、私はサバガシュラがはおらせてくれた外套の縁を噛んで吐き気を堪えようとしましたが、女首領も手の者たちもハイエナどもを逐いはらうそぶりもありません。商隊とハイエナの両者に黙契が交わされているかのようでした。
    「一度は自分から手放したのだから、あえてこの腕輪を受け取ることはない。とはいえ、この腕輪と交換されたものは正当ではなかった。あやつ等は犬を使えば、たやすく姫の跡を付けることができたはずだが、念入りにも小麦袋に細工した。陰謀の手先ではない。立ち回り次第では小商いになりそうだと踏んだわけだ。この果樹園の主は姫の義姉の一人だ。夫が陰謀家の兄かどうかまでは知らぬ」
    間違えなく反乱を企てた兄だろうし、女首領はそれも分かっていたのでしょう。
    「あの者たちの木ではなかったのですか」ハイエナどもが咥えていくのであろう首のことを思い浮かべまいとしながら私は訊きました。
    「この林からどれだけの実が採れると思われるか。おそらく収量は王国一、二であろう。姫が交渉した相手は代官の下で走り回る差配人の一家というところだ。こんな戯れ唄を姫は耳にしたことはないか。ご領地の無花果は喰ろうても奥方の無花果は喰らわんぞ。面白味のかけらもない唄だが、未通娘の姫にはわからんな」
    見知らぬ私を売ろうとした差配の一家と自分の国を覆し父兄弟を追い払い実の妹を捧げものとして差し出す血縁のどちらがより罪深いのでしょう。「あなた様は私どもの巷の陰唄まで聞くのですね。兄の側女は飛び切りの美女ばかりだと申します」
    女首領は眉を上げ口元をゆるめたものです。目の端をよぎるハイエナの喉声は下卑た人間の笑い声そっくりでした。
    サバガシュラが掌に腕輪を載せると、切り窓に月が現われたかのように光が染み出してきました。
    「その腕輪、いま一度、私が身に付けてもよろしいでしょうか。思い起こせば、私は呼ばれるように惹かれて所望しました。初めて手に取るべく定められた者であったなら、どれほどの苦境に立とうと、自ら外そうとはしないだろうとも考えました。とはいえ、こうして闇を剥がすように輝いているのを目にすると、手にしたのは私ではなく腕輪が私を名指したということかもしれません」
    「姫は腕輪が輝いていると言われたが、私には暗く沈んでいて掌に重みが感じられるばかりなのだ。われらもまた覚えずしてこの腕輪の僕とされていたのかもしれない」
    サバガシュラが両の指で支え持つ腕輪は光暈のように私には見えました。その時以来、私は一度としてこの腕輪を外したことはありません。
    俺は思わずラズリ様の両腕を見た。秘密とはそういうものなのだ。己を見せず語らず、封じ込めたものと一体となって影さえも晦ましてしまう。指し示されているのに目は素通りしてしまう。ラズリ様が左手を俺の方に差し出した。俺は夜の果樹園で女首領と対座するラズリ様を見ていたので、火鉢の炭火を受けて磨き銅のように光る小さな腕輪が、遠く隔たった時間を往来する小舟に思われた。
    「触れてもよろしいでしょうか」吹き荒ぶ砂嵐に埋もれた聖道を探るように俺は指を這わせた。細工の線がところどころ潰れていて元の模様はよくわからない。謂れある代物とは思えなかった。ラズリ様が小さな咳をした。咳は止まらず、間をおいて続いた。このように咳き込むのは珍しいことではない。腕は戻されなかったので、俺は指を添えたままでいた。咳の度に腕が微かに揺れる。腕輪の感触が変わったような気がして、俺はラズリ様を見上げた。

  • 29

    「手短に言う。陰謀の首魁は姫の叔父と三番目の兄。後ろ盾は当然のごとくアッシリアだ。つまりは時を経ずしてこの地はアッシリアに併呑されることになる。鷲と冠の神殿にも叛乱の一隊が待ち構えているだろう。姫は兄に売られることになっていたぞ。自分の命を救ったと言ったのはそれ故だ。アッシリアの東方総督が王族の処女を所望したのだ」
    「あなた様はサバガシュラといわれましたね。どうしてそのようなことを何もかにもご存知なのでしょう」私は槍を伏せ、馬上を見上げた。松明に照り映える女首領の顔は革鎧のように夜を跳ね返している。
    「宝物庫の中味と王族たちの腹の中を知らねば確実に利を取れはしない」独語のような小声で女首領が言った。
    自分の浅慮を手厳しく咎められた気がして、私は身を縮めるばかりだった。そして、サバガシュラが父と話していたことを思い出した。同盟の約定締結を担って引き出物と共に入城した使節のように見える女首領は実に鷹揚に構えていた。
    「しかし商いから外れたことも一つくらいはする」と言ってサバガシュラは私の方へ馬を近寄らせた。逞しい馬の頸胸が闇を押しのけるようだった。
    「この腕輪にはいささか謂れがあって、人を選ぶと伝えられてきた。誰にも見えるわけではないらしい。もちろん、目につかないということだが。先代先々代もこの品を持ち運び並べ置いてきたそうだ。初めに手に取った者を拒まない。値はその者が支払える額にする。買い手の行く末を見届けろとは言われていなかったな。叛乱がおき、姫はいずこで果てても当然といえる今、この腕輪は禍の素だったのかもしれぬ。星神への冒涜など歯牙にもかけぬ振る舞いに導く惚れ薬でも塗りこめられていたか」
    首を振るだけの合図で一人が馬から下り松明を取って、あの人の方へ向かった。揺れ流れる明かりで土塊のように転がっている首の一つが見えた。その時初めて私はあの人の言葉を聞いたのだ。隊の一人がいくつかの言葉で問いかけているうち、ふいにあの人が声を発した。呻きでも怒鳴り声でもない。松明の男が口早に話しかけ、あの人が言葉を返し、男がサバガシュラに何かを伝えた。話されている言葉は、さっき私の口から零れ出たものと同じなのだろうか。
    「この若者の話す言葉を姫は聞いたことがあるまい。姫の国の軍団が征服した地方より遥かに北方に住まいしている者だ。遠い。姫の国の奴隷になっているのが信じがたいほどの遠さだ。これから荒療治をなす。耳を塞いでおれ」
    サバガシュラの指示にさらに二人が下馬して私のわきを通っていった。はじめの男があの人に二言三言告げると、短い言葉が返った。背後で肉の焼ける匂いがした。傷口を焼いているのだろう。あの人が歯噛みして大きな苦痛に耐えているのがわかる。私は顔を上げた。二日月の底を擦っていく雲。私はどんな名も唱えずに祈った。まだ名も知らぬあの人に、生きて行こうとだけ呼びかけた。
    「この者の命を救わねばならない。一晩動かさずに、ここで野営する」と女首領が下知して馬を下り、続いて全員が下馬すると三人で馬を引いていった。手早く数枚の莚が広げられ、サバガシュラは自分の斜向かいに私を坐らせた。商隊の者たちの動き回る気配は私を落ち着かせてくれた。あの人の手当ては続けられているようだった。
    「この国はあっけなく崩れ塵と化し、幾多の国々同様忘れられる。一国の姫にとって生国が滅びることほど大きな禍はなかろうが、姫にとって生国よりも貴いものがあるようだな。人の気持ちなど国の盛衰同様長持ちはしないと私は思うが、二人の行く末は歌物語になるかもしれぬ。二人それぞれの国の言葉ではなく、二人の名前ではなく。商いはどんな入り組んだ駆け引きがあろうと、計数に尽きる。目を見張るほどの利が転がり込もうと、思いもかけぬ災厄で身一つさえ失う破目になろうとそこに不思議というものはない。あるのは読み違いだけだ。心映えや先の読めぬ者に会うのはもちろん姫が初めてではない。しかしそなたたち二人でいることがわれらの見知らぬ不思議を引き寄せるにちがいない」
    大きな商隊の長となる者の考え方は皆どこか似ているのだろうか。ラズリ様の話す女首領のことを聞いていると、そのまま父に重なるように思えた。サバガシュラという隊長は不思議と言ったのだ。あの人と腕輪がラズリ様によってのみ見えたからだ。ナブー神像も同じだ。荒野の娘リリトゥは真昼の流星を見る人だ。
    目の前の小さな火。あの人の傍ともう一か所でも香炉のような小さな火が焚かれている。土器杯に注がれた湯を口にしたとき、涙が溢れ出した。取り入れた分より倍するのではないかと思うくらい止まらなかった。サバガシュラは無言だった。気を喪ったのか深い眠りに落ちたのか、あの人の声は聞こえない。小さな火の燃え音と遠い一つの星の瞬きがつりあって地上天空すべての音が闇に溶けてしまったようだ。極まった静けさの向こうから滴りのように女首領の声が降りてきた。
    「わが商隊の荷を検めようとする兵士は上の海から下の海までどこにもいない。二人にはこの国を出るまでの十日ほど、われらの荷となってもらう。その後五日もすればその若者の傷は塞がる。それからは二人でどうなりと生きてゆけばよい。姫は荒野の娘となるのだ」
    私を荒野の娘と呼んだのは商隊のサバガシュラが初めでありました。赤い砂の国の言葉でそう呼んだのです。四方世界の夜のただ一点を穿ち、そこから射してくる熱い光のような声で。果樹園で聞いた今でも残る二つの声。青い美しい鳥の発した奇怪な啼き声。耳にしたのではなかった。解けない結び玉に封じ込められたかのように、目鼻四肢の力、肌の感覚、何もかもが奪われて、私が鳥の声とひとつになったのだ。
    その鳥の声をお前は後に一度だけ耳にした。牛も羊も他所より三倍を超える数の仔を産し、日々決まった刻にたっぷり吹き上がる水のある楽土のような地。物生りがよく、亜麻の連作さえも可能な痩せることを知らない土地。追放と放浪の繰り返しの中でただ一度だけ自ら出て行こうとした砂光る囲い地。お前の長子エピヌーは嫌がったのだ。出て行きたくないと、この地には何もかにもがふんだんにあるではないかと。十歳に満たぬ子が家族と離れ一人になろうと構わぬと地団駄踏んだ。脱走を兵士に知られてはならなかったので、滅家の王子にして、片耳の父は長子エピヌーを縛り上げ口縄を入れた。砂と礫が壁を叩き、野百合が強く匂う砂嵐の夜、脱出する五人が監視櫓の下を抜けようとしたきにお前は聞いた。お前だけが風音を圧する鳥の声を聞いた。片耳にして類まれな聞耳の父も二人の子も、エリュシティがいつものように手をつないでいた少年も聞かなかった。櫓の高みで夜を睨む兵たちもまた聞きはしなかっただろう。